心の中からの偶像

こうして、偶像のゆえにみなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心を、わたしがとらえる。
エゼキエル14:5

今日の聖書通読箇所はエゼキエル13-14章です。イスラエルの民に対して神様からの痛烈な批判が続きます。特に13-14章では預言者たち、長老たちが名指しされています。イスラエルの民の中にあって、神様の導きを仰ぎ、民に伝える重要な役割を担っていた人たちです。彼らは神様の本当の心を求めず、偽りの言葉を民に伝えていました。そして、その偽りの言葉を心から信じて、実現する日を待ち望んでいたと書かれています(13:6参照)。自分で偽りを語りながら、その偽りが実現するのを待ち望むというこんなことおかしな事があるのでしょうか?

14章には「これらの者たちは自分たちの偶像を心の中に秘め(14:3)」という言葉が出てきます。偶像とは必ずしも形のあるものではありません。桜ヶ丘教会の星加師は「偶像とはまず人の心の中に生まれ、それが世の教えやいわゆる形ある偶像とマッチして、偶像崇拝に至る」と説明していました。英語で偶像のことをIdolと言います。アイドルという言葉は日本では歌や容姿などを売りにしている芸能人のことを言います。日本でいうアイドルとは人間という存在の中から、理想としているもの、こうだったらいいなとあこがれている部分だけを切り取って売りにしているもののことを言います。この精神が偶像崇拝と似ているので英語で偶像を意味するIdolからアイドルという名前が生まれました。偶像崇拝とは神様というイメージの中から、自分が気に入っている部分、こうだったらいいなと思っている部分だけを切り取って、それを神様ご自身と見なすことを言います。ですから偶像崇拝は必ずしも形ある者とは限りません。むしろ人々の心の中にある願望から形が生まれてくるのです。

12章の後半には神様の言葉は必ず実現するということが書かれていました。神様はご自身で語られたことを必ず実現する、真実なる神様です。しかし、イスラエルの民の中では神様は約束を果たされる真実な方ですという事だけが先行してしまいました。神様ご自身よりも、ビジョンは実現するという部分だけが切り取られて、偶像化されてしまっているのです。そして預言者たちはとにかく良い幻、良いビジョン、良い御言葉だけを探して、それを神様からの言葉として民に語り、自分も信じ切っていました。このような聖書の言葉を聞くと、自分は本当に神様ご自身を求めているだろうか、自分の願望を神様の言葉として受けとめていないだろうかと反省します。

神様はそのような偶像と神様との区別物できなくなっている民の目を覚まさせなければなりませんでした。イスラエル人たちのバビロン捕囚はそのためのものでした。荒療治ではありましたが、真の神様に立ち返らせることが目的でした。それは神様からの愛の行いでした。16章には神様がどれだけイスラエルの民を愛しておられたかが書かれています。神様は血まみれで捨てられていた赤子をイスラエルに例えました。その赤子を引き取って優しくキレイにしてやり、祝福して育てたのです。神様は父親のようにイスラエルに接しましたが、イスラエルは父親の中から自分の好きな部分だけを切り取って、それに心奪われていました。私たちもそのような偶像を心の中に持ちやすい者です。偶像ではなく、本当の神様を求めたいと思います。顔をしっかりと神様に向けて、本当の神様のお姿を悟らせて頂きましょう。

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鉄の壁を開いて

また、鉄の板一つを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立てよ。あなたが自分の顔をしっかりとこの町に向けると、この町は包囲される。あなたがこれを攻め囲むのだ。これがイスラエルの家に対するしるしだ。
エゼキエル4:3

聖書通読はエゼキエル書になりました。昭島教会では昨年、礼拝でエゼキエル書を順番に学びました。エゼキエル書は預言者エゼキエルが神様から受けた預言を記したものです。エゼキエルは南ユダ王国の民が捕囚でバビロンに連れていかれた時に預言者として召され、活動しました。3~4章は、捕囚の地であるバビロンのテル・アビブ(現在のイスラエルのテル・アビブ・ヤッフォの名前の由来となっていますが、別の場所です)のケバル川のほとりで、エゼキエルが神様の召命を受けて、最初のユダの民へのメッセージを実行するように示されたことが記されています。

神様は4章でエゼキエルにエルサレムの町が包囲された時の様子のジオラマを作るように言われます。粘土の板にエルサレムの町を描き、それに対して塁を築き、包囲壁を作り、陣営を設け、城壁崩しを配備します。そしてそれに対して、エゼキエルは左脇を下にして390日、右脇を下にして40日、じっと身を横たえなければなりませんでした。町の中でこのようなことをしている人がいたら、どう見ても異常です。それを神様からのメッセージであると受け止める人、気が狂っていると受け止める人、様々な人がいたと思います。しかしこの行為はユダの民にとっては、つい最近起こった出来事を呼び覚ますものでした。ユダの民はバビロンとの戦争でエルサレムの町を包囲され、籠城戦になり、多くの人が食糧難で倒れ、生き残った人の半分はバビロン軍に打ち殺され、さらにそこから辛うじて生き延びた人の多くは野山で病と飢えに倒れ、ほんの一部の人がこうしてバビロンの町に強制的に連れてこられました。神様がエゼキエルに行わせたことは、ユダの民にとっては悪夢をフラッシュバックさせるものでした。

神様はエゼキエルにそのジオラマのエルサレムの町に対して、身を横たえるように言いました。左脇を下にして390日、右脇を下にして40日です。神様は1年を1日と計算してこの日数にしたと仰います。ジオラマに向かって横たわるエゼキエルは神様を表しています。つまり神様は約400年の間、イスラエル、ユダの国を離れず、見守り続けたのです。しかし神様はエゼキエルとジオラマのエルサレムの町の間に鉄の壁を立てるように言いました。鉄の壁があると身を横たえたエゼキエルからは町の様子がよく見えません。約400年の間、神様はイスラエルとユダのすぐ隣にいましたが、神様から国の様子が見えないようになっていたという事です。聖書では神様が見えなくなる、神様の御顔が見えなくなるというのは神様の見守りが無くなる、祝福がなくなるだけでなく災いが来るということを表します。これは大変なことです。ではこの鉄の壁は誰が、なんのために建てたのでしょうか。私はイスラエルの民が建てたのだと思います。神様はエゼキエル2-3章でイスラエルの民のことを度々「反逆の家」と呼びます。神様に逆らったのです。神様に見られたくはないことがあったので、鉄の壁を建てた。あるいは神様は必要ないとも考えたかもしれません。あるいは単に神様を忘れたのかもしれません。いずれにしても神様に対する反逆とは、祝福してくださるお方、見守って下さるお方と自分の前に鉄の壁を建てるという行為なのです。神様はこの壁を取り除くように私たちに求められます。黙示録3:20にはこ「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って…」とあります。その扉を設置したのは私たちです。神様との間にあると困る以外の何物でもないはずですが、私たちが建てたものです。何のために建てたのか、それは人それぞれです。それは鉄でできていて、とても頑丈で、神様はそれを壊そうとはなさいません。ただ戸の外に立ってノックしています。私たちがその鉄の壁を取り除いたなら、扉を開いたなら、私たちは神様の御顔を仰ぎ見る事が出来るのです。鉄の扉を開いて、今日も祈りたいと思います。

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神様の言葉の力

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ルカ21:33

ルカの福音書21章で弟子たちはイエス様に終末の日にはどんなしるしが起こるのか質問しました。イエス様は弟子たちの問いに答えられました。ルカの福音書21章に記されている終末のしるしはどれも恐ろしいものばかりです。偽預言者が現れて、人々を惑わします。イエス様を信じる者たちは捕らえられて迫害を受けます。しかし捕らえられた時が、逆にイエス様を証しする機会ともなることをイエス様は教えておられます。また各地で戦争が起こり、飢饉や疫病、地震が起こります。太陽と月と星にしるしが現れ、海はあれ、宇宙が崩壊するのではないかとみな恐れると書いてあります。

イエス様はこのような出来事がいつ起きるのか、具体的な日付を示されませんでした。ですから私たちはそれが未来のことなのか、すでに起こっている事なのか分かりません。しかしそれがいつなのか分かっても私たちにはどうしようもないことをイエス様は示しておられます。現代では科学も進み、星の寿命がどれくらいであるのか、ある程度把握できるようになってきました。もしかしたらいつの日にか、天気予報のように、地球が崩壊する日を予知できるようになるかもしれません。しかしその時私たちに分かるのは、その日を避ける事が出来ない、だれもどこにも逃げ場所はないという事実です。私たちは今はまだこの世界はいつか無くなるだろうという漠然とした思いしか抱いていません。しかしいつという事が分かっても、解決策を見出すことは出来ないということです。イエス様はルカ21:26でこう言います。「人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。」

イエス様は終末に関して、いつ起こるのかを探るのではなく、いつ起こっても構わないように、神様との関係を保っていなさいと教えます。終りの日の災いを避ける事が出来るのは、神様の力だけだからです。イエス様は言いました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません(ルカ21:33)」言葉というのは何となく、地震や疫病や戦争の前には頼りなく感じます。私たちはどんなに話し合いで解決しようとしても、戦争が避けられなかった歴史を知っていますし、今でもニュースを見るたびに話し合いの無力さを感じながら生きています。言葉で災いを回避できるはずが無いと心のどこかで思っているのかもしれません。しかしイエス様は、たとえ天地が滅びても神様の言葉は消えないと言います。天地よちも神様の言葉の方が力があるのです。聖書は創世記の最初で、天地よりも先に神様の言葉があったことを示しています。天地は神様の言葉によって作られたのです。私たちは天地が滅びたら言葉は無くなるように感じていますが、聖書はそうは語っていません。むしろ神様の言葉によって天地が支えられていることを語っています。ですから私たちが終末に向けて備えるのは、神様の言葉を信頼することです。神様が私たちのいのちを支えると仰っているのであれば、それを信頼することです。ルカ21章の冒頭に登場するやもめはそれを心から信じていました。だから生活費の全部を捧げる事が出来たのです。私たちは天地万物に支えられて生きていますが、その天地万物を支えているのは神様の言葉です。

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