神は愛です

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
Iヨハネ4:16

ヨハネの手紙第一を開きました。ヨハネの手紙は聖書の中に3通納められています。この手紙群は伝統的に、使徒ヨハネ(ゼベダイの子ヨハネ)と言われています。ヨハネの福音書、ヨハネの黙示録も共に使徒ヨハネの著書と言われています。使徒ヨハネは兄ヤコブと共に、イエス様の12弟子に選ばれました。当時はイエス様から「雷の子」とあだ名をつけられるほど、すぐ怒る癇癪持ちであったと言われています。しかしイエス様との出会いによって変えられ、晩年はとても穏やかで愛に溢れる人物だったと言われています。その愛に溢れる人柄がこの手紙にもにじみ出ています。

ヨハネの手紙には「愛」という言葉が数多く登場します。イエス様の愛によって救われた私たちも互いに愛し合うべきですという教えがちりばめられています。イエス様が十字架に架かるほどまでに私たちを愛してくださっているのは、神様の本質が愛だからです。キリスト教会には「神は愛なり」という御言葉が掲げられているイメージがあります。この御言葉はヨハネの手紙第一4:16から取られた言葉であろうと思います。神様は自分を犠牲にしてまでも、私たちを罪から、滅びから救いたいと願われるお方です。誰かのために自分のいのちをもいとわないというこの精神が愛です。そして神様はそれを言葉として伝えるだけではなく、行動として示してくださいました。イエス様の十字架が表されたことによって、私たちは本当の愛、神様の愛を知る事ができたのです。

神様の愛に溢れるこの手紙は読んでいてとても穏やかな気持ちになれる手紙です。しかし要所要所で、するどい教えが展開されています。神様は私たちに本当の愛を示し、私たちもその愛に生きる者となることを願っておられます。ヨハネは手紙の中でたびたび「私たちも互いに愛し合いましょう」と言います。口先だけの「私はあなたを愛しています」だけではなく、行動を伴ったものとしてです。ですから私たちが本当の愛で他の人を愛そうと思った時、私たちにも犠牲が伴います。そのような愛で私たちが互いに愛し合う時、私たちのその交わりを通して、神様が表されるのです。

個人的なことですが、私はIヨハネ4:20-21の御言葉が嫌いでした。目に見える兄弟を愛せないなら、神を愛することはできませんとヨハネは言います。私は3人兄弟でしたが、弟たちを愛する事ができなかったのです。弟を前にいつも妬みと憎しみがありました。私たちは互いに愛し合いなさいと言われたからといってすぐに実行できるほど、愛を持った存在ではありません。使徒ヨハネも同じでした。雷の子と呼ばれるほどいつもプンプン怒っていたのです。それがイエス様と出会い、イエス様の十字架の苦しみによって変えられ、イエス様の愛を受け取り、イエス様の愛に満たされた時、穏やかな愛のあふれる人となりました。イエス様の十字架の愛をしっかりと受け止めることが重要です。ヨハネは注意深く順番を意識して書いています。私たちが神様を愛したから神様は私たちを救ってくれたのではありません。神様が私たちを愛して下り、十字架で救って下さったので、私たちは愛が分かり、互いに愛せるようになるのです。私たちはまずしっかりと神様の十字架の愛を受け取りましょう。私たちがどのように生きるかはその次に考えるべきことです。まず私たちは愛である神様をしっかりと捉えさせて頂きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • キッズフェスタ、委員長会議、青年バーベキューのために
  • 南平教会のために