各ご家庭での祈祷会に感謝します。どうぞ教会のこと、皆様のこと等覚えてお祈り下さい。皆様の祈祷会が祝されますようにお祈りしております。
賛美 新聖歌264 われ贖われて
お祈り
- 週の前半の歩みが守られたことの感謝。
- 祈祷会を持てる感謝と、お祈りを導いて頂けますように。
- 同じように家庭で祈祷会を守っておられる皆様のために。
賛美 新聖歌196 祈れ物事
聖書
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
IIコリント13:13
メッセージ
今日でコリント人への手紙の通読も終わります。今日は手紙の最後の部分を読みました。パウロは手紙の最後を祝祷で締めくくっています。IIコリント13:13の言葉を礼拝の最後の祝祷の言葉として用いている教会が多いのではないでしょうか。祝祷とは文字通り、相手の祝福を祈る祈りです。ただし、祈る人が相手に祝福を与えるのではありません。祝福を与えて下さるのは神様です。相手の祝福のために神様にお願いをしている祈り、それが祝祷です。つまり大きく言えば、祝祷もとりなしの祈りの一つです。
相手のために祝福を祈ること、とりなしの祈りをささげることは牧師だけの特権ではありません。礼拝の祝祷は牧師が代表して祈りますが、日常生活においては誰でも他の人のために祝福を祈る事ができます。祈る人には何の力もありませんし、祈って相手がどんな祝福を受けるか、祈る人には分かりません。すべての決定権は神様にあります。しかし祈る人には力がなく、弱くても、相手のために神様に祝福をお願いすることができる、それがクリスチャンの特権でもあります。パウロがIIコリント13:4でこう語っています。「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。」クリスチャンはいついかなる時も、キリストと共に生きています。ですからクリスチャンは弱くても、共にいて下さる神様が力ある方なので、希望を持つことができ、他の方のために祝福を祈る事ができるのです。ですから祝祷は決して無責任な祈りではありません。必ず神様が聞いてくださって、導いて下さると確信をもって祈るからです。
パウロはコリント人への手紙第一、第二の中で、コリント教会の多くの課題について触れてきました。もしかしたらこれらの課題の根本的な部分には共通のものがあるのかもしれません。それは自分の力で生きるのか、キリストの恵みによって生きるのかということです。私たちは神様の救いを知る前は何でも自分の力で生きてきました。それが当然のことだったからです。しかしキリストの救いを受け取った時、自分の力で生きて来たと思っていたこれまでの生活はすべて、神様の力で支えられていたのだという事に気づきました。またいかに自分が自己中心的で、弱い者であるかを知りました。そんな弱い自分であるにもかかわらず、神様は救いを与え、これからは私たちの内側に住んでくださると述べて下さっています。ですからパウロが言いたいのは、これからは私たちの内に住むキリストに全てを導いて頂きなさいということです。私たちは弱いのですが、神様は強いからです。私たちは相手のために祝福を与えることはできませんが、神様は全てを働かせて益とする事ができます。
これからも私たちは誰かのために祈りの必要を覚えると思います。ぜひとも私たちと共にいて下さる神様を覚えて、心から相手のために祈る者でありたいと思います。
お祈りの課題
- 昭島教会に集う方々、ご家族のために
- 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
- 新型肺炎で苦しんでいる方々のために。また困難の中、神様にあって助け合う事ができるように。
- 教団青年集会TTQ、教団創立記念礼拝のために
- 川越教会のために
賛美 新聖歌386 ナルドの香油
主の祈り
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
(出典:新聖歌)