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祈祷会メッセージとお祈りの課題

与え、取られる主の愛

こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
ヨブ42:17

ヨブ記も今日で終わりです。38章になって神様はヨブに語りかけ始めました。神様はヨブに、神様がお造りになった宇宙と、地上の動物たちの姿を思い起こさせます。しかしその中にはヨブが見たことのある動物たちの姿ばかりではありませんでした。むしろヨブの知らない動物たちの営みを神様は語り始めたのです。私たちは動物たちの営みについて知っていることもたくさんありますが、知らないことも多いです。また宇宙の神秘についても知っていることもありますが、知らないこともまだまだたくさんあります。いわば、私たちはどうしてこの世界が存在し、調和がとれているのか、全く分かっていないのです。しかし神様はその全てをデザインし、見守っておられます。だから神様は言います。「何も知らないのに、あなたは因果応報の論理を宇宙に対して、また私に対して突きつけるのか?」「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ(ヨブ41:11)」

これだけを聞くと、神様はとても恐ろしいだけの存在のように聞こえますが、神様はこう続けています。神様はレビヤタンという生き物に目を向けさせます。レビヤタンがどの動物の事を指すのか、よく分かっていませんが、ワニのような、ウミヘビのような生き物と考えられています。それはとても人間が太刀打ちできるような生き物ではありません。力と凶暴さだけで言えば、どんな生き物よりも強い生き物です。しかし神様は、ただレビヤタンの強さだけを語るのではなく、レビヤタンにはレビヤタンの役割があり、営みがあり、そのために必要なだけの備えをされたこと語ります。同じように神様はヨブにも、ヨブだけの営みがあり、そのために必要な力と知恵を与えておられることを神様は語るのです。そして他のすべての動物たちを神様が見守っているように、神様はヨブを気にかけ、大切に思い、一言で言えば、愛を持って接しておられます。ヨブだけでなく、私たち全ての人に対して、それぞれの営みを知り、そのために必要な力と知恵と助けを与えています。それらはすべて神様からの祝福、恵みです。1章でヨブは言いました。「主は与え、主は取られる(1:21)」確かに神様は私たちに与えるお方であり、また取られるお方です。しかしその一つ一つに神様の愛がこもっている事を忘れてはなりません。神様はただいたずらに与え、取られているのではないという事です。その理由は全て明らかにされませんが、そこに愛があることは確かなのです。すべての事の背後にある神様の愛に気づくと、私たちの人生は本当に自由になります。神様のご計画の内では、「すべてのことがともに働いて益となること(ローマ8:28)」を心から納得して、信じることができるからです。

ヨブはその後、祝福された人生を歩みました。ヨブ42:17はそのように語ります。しかしその言葉の意味は「ヨブが聞き従ったので神様は祝された」という意味ではないことに気が付くと思います。ヨブの傷跡は残ったままです。失った息子たち、娘たちは帰ってきません。そして理由は明らかになりません。しかし神様の愛の豊かさを知ったヨブは、すべて御手の内にあるという確信を持ち続けたので、その後の人生における揺れ動きを、神様の愛によるものと確信して受け止めることができました。それはとても神様の愛に満ち足りて余りある生涯でした。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 1-2月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 受難日特別礼拝、イースター礼拝のために
  • 新年度の導きのために
  • 小金井教会のために