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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様に拠り頼む

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」
黙示録14:13

ヨハネの黙示録を開きました。ヨハネの黙示録は大きく3つのパートに分ける事ができるかと思います。初めに諸教会への勧告があり、その後、地上でのさばきのこと、そして新しいエルサレムについての記述です。ボリュームとしては地上でのさばきのことが最も多く描かれていますが、この部分もさらに3つに分ける事ができるかと思います。七つの巻物の封印、七つのラッパ、七つの鉢です。それぞれの間にインターバルのような他のエピソードが追加されています。14章は七つのラッパと七つの鉢の間に挿入されているエピソードになります。

このエピソードは12章から14章まで続いています。一人の女が男の子を産み、この女と子孫を巡って、御使いと竜の軍勢の間で争いが起こります(12章)。竜は獣を呼び寄せ、人々を惑わし始めます(13章)。この獣は世界を支配し、人々に刻印を記します。この刻印が具体的には何を指すのかは分かりませんが、この刻印が無ければ「売り買いできない(13:17)」と書かれていますから、それが無ければ生活に困るようなものなのかもしれません。世の中全体が、刻印を受けないなんて考えられないという風潮になるであろうと思われます。そうしなければ生きていけないかもしれないという事です。この刻印によって獣は人々を支配するのです。しかしその期間には終わりがあります。獣が人々を支配できる期間は13:5によると42か月間(3年半)です。その後、14章に入ると、御使いが現れ、獣の刻印を受けた者を罰します。

14:12には「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。」と記されています。また14:13では「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである」と記されています。黙示録で語られていることは、終末についてです。私たちのいのちのことが記されています。それも永遠に関することです。そこでは私たちの人生の基盤がなんであるかが問われます。神に拠り頼んでいるのか、それ以外のもの、獣の刻印に拠り頼むようになるのかが問われます。聖書は神様に拠り頼む者に苦しみの時があることを否定しません。しかし苦しみには必ず終わりがあること、そして最後には必ず神様が勝利されることを約束しています。またそのための信仰の戦いに直面している人の全ての行いがちゃんと神様に覚えられていることを約束しています。黙示録19章以降にはイエス様と教会の婚礼、そして新しい天と新しい地について記されています。神様は私たちを、この世にある一時の平安にではなく、終末の後に訪れる永遠の平安に招いて下さっています。世にある間、苦難があったとしても、神様はそれ以上の報いを与えて下さいます。私たちは人生の基盤をこのように約束してくださっている神様に置きたいと思います。日々神様に拠り頼み、神様の言葉を頂きながら、いつも神様と共に歩みたいと思います。

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イエス様の権威を信じる

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」
ユダ20

ユダの手紙を開きました。ユダの手紙は1章だけの短い書です。ユダの手紙の著者についてですが、1:1に「イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから」とあります。イエス様の12使徒には、ユダという名前の弟子が2人いますが、そのどちらでもなさそうです。手紙の著者は「ヤコブの兄弟」と言っていますし、ユダ17ではあたかも手紙の著者と12使徒は別人であるかのように書いているからです。イエス様の兄弟にはヤコブ、ユダという名前の人物がいることから、この手紙の著者はイエス様の弟のユダであると考えられます(マタイ13:55参照)。

ユダは最初、救いについて手紙を書こうと考えていましたが、信仰を守る戦いのために励ましの言葉を送る必要が出てきました(3節)。4節では不敬虔な者たちが忍び込んできたと書いています。彼らはイエス・キリストを否定して、自らの欲望のままに生きていると書かれています。ぶつぶつと不満を並べたて、大げさなことを語っていると書かれています。ユダは、手紙の読者が彼らに影響されて、信仰を失ってしまわないようにと書いています。ユダによれば、彼らが不敬虔に生きるのは、イエス・キリストの権威を認めていないからです(8節)。イエス様は私たちを愛して、救い、守ることができるお方です。私たちの救い主であるという事は、私たちを救うために十分な力と権威を持っておられるという事です。それは神様としての権威、力です。不敬虔な者たちはイエス様の権威、神様の権威を侮っているのだとユダは語ります。

ユダの手紙には旧約聖書正典の中にない記述からの引用がいくつか見られます。14-15節のエノクの預言に関する記述はエノク書に記されている言葉と考えられています。エノク書はエチオピア正教会では正典に含まれているようですが、旧約聖書には納められていません。また9節のミカエルと悪魔が言い争っているという出来事は、モーセの昇天(遺訓)という書物からの引用と考えられています。こちらはまだ全編が残っている資料が見つかっていません。伝承によれば、モーセの死後、モーセの犯した罪について、悪魔がモーセの体を引き渡すようにミカエルと言い争ったという事です。その時、ミカエルは汚い言葉を用いず、神様の権威の許、モーセの体の引き渡しを拒んだという事です。ユダの手紙はイエス様の権威、神様の権威について書いていますので、このような記述が引用されたと思われます。

神様は目に見る事ができず、その声を耳で直接聞くこともできません。ですから神様の権威、神様の力がどの程度、私たちに及ぶのか分からなくなる時があります。しかし私たちは神様の権威、力を信じて堅く信仰を守りたいと思います。神様は聖書の中においても、またその後の歴史の中においても、多くの兄弟姉妹を守り、助けて下さいました。24節でユダが言うように神様は、私たちを「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方」です。自分たちの内側の誘惑や、外側からの誘惑に負けることなく、信仰の生涯を歩ませて頂きましょう。

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王の王である神様

「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
黙示録4:11

ヨハネの黙示録を開きました。ヨハネの黙示録は12弟子のヨハネが、イエス様からの幻を記したものと言われています。当時はキリスト教会が迫害を受けていて、この時ヨハネもパトモス島に島流しにされていたと言われています(1:9参照)。名前の通り黙示文学という手法で書かれていて、文字通りに捉えようとすると難解で、象徴的な意味が込められています。1:1に「イエス・キリストの黙示」と書かれているように、これはイエス様の福音に関する啓示です。そして当時のキリスト教会はローマ帝国の迫害にさらされていたので、苦難にある者を慰め、イエス様に堅く信頼し、信仰を保つようにと教えるのが目的です。その目的を念頭に置きながら、読んでまいりたいと思います。

ヨハネの黙示録には世界の終末の事が書かれています。これから起こるであろうイエス様の再臨、そしてさばきと世の終り、新しい天と地について書かれています。しかしあくまでもヨハネの黙示録の中心はイエス様の福音であることを忘れてはいけません。世の終りが来ると聞くと、私たちは恐れます。普段、盤石であると感じている地面がひっくり返り、何もかもが失われ、生き延びる術は無く、死んでしまうと感じるからです。ですから黙示録に書かれている世の終りの前の兆候がもう起きたのか、まだなのか気になってしまいます。しかし黙示録が言いたいのは、この世の終りの兆候が起きたから終わりだとか、起こっていないから終末はまだ先だということを言いたいのではありません。イエス様こそ世界を統べ治め、この方に頼り続ければ、何が起きても大丈夫だということを伝えたいのです。

黙示録4章には神様の御座の幻が書かれています。神様の御座は稲妻がひらめくほどに光り輝き、神々しい様子が描かれています。そしてその前には4つの生き物がいて、「聖なる、聖なる、聖なる…」とずっと神様を賛美し続けています。また4:11では長老たちも神様を賛美しています。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」ここで賛美されているように、万物は神様にあって造られました。そして神様の御心のゆえに存在し続けています。神様は世界を創られた方、保つ事ができるお方です。もちろん、世界を壊すことも、修復することもできます。その神様はいつも私たち一人ひとりのことを気にかけておられ、愛してくださっています。イエス様を遣わし、十字架の贖いを成し遂げて下さるほどに私たちを愛して下さっています。たとえ世界が崩れ去ろうとしていても、神様の瞳はちゃんと私たちに注がれています。迫害下にあった教会の人々は、激しい苦しみの中、自分が見捨てられて一人ぼっちになったように感じていました。しかし神様はちゃんと教会の一人ひとりを気にかけておられました。そのようなメッセージがこの黙示録には込められています。私たちもそのような神様の眼差しをいつも受けています。私たちも神様を信じ、イエス様を信じ、信仰を堅く保っていきたいと思います。

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神は愛です

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
Iヨハネ4:16

ヨハネの手紙第一を開きました。ヨハネの手紙は聖書の中に3通納められています。この手紙群は伝統的に、使徒ヨハネ(ゼベダイの子ヨハネ)と言われています。ヨハネの福音書、ヨハネの黙示録も共に使徒ヨハネの著書と言われています。使徒ヨハネは兄ヤコブと共に、イエス様の12弟子に選ばれました。当時はイエス様から「雷の子」とあだ名をつけられるほど、すぐ怒る癇癪持ちであったと言われています。しかしイエス様との出会いによって変えられ、晩年はとても穏やかで愛に溢れる人物だったと言われています。その愛に溢れる人柄がこの手紙にもにじみ出ています。

ヨハネの手紙には「愛」という言葉が数多く登場します。イエス様の愛によって救われた私たちも互いに愛し合うべきですという教えがちりばめられています。イエス様が十字架に架かるほどまでに私たちを愛してくださっているのは、神様の本質が愛だからです。キリスト教会には「神は愛なり」という御言葉が掲げられているイメージがあります。この御言葉はヨハネの手紙第一4:16から取られた言葉であろうと思います。神様は自分を犠牲にしてまでも、私たちを罪から、滅びから救いたいと願われるお方です。誰かのために自分のいのちをもいとわないというこの精神が愛です。そして神様はそれを言葉として伝えるだけではなく、行動として示してくださいました。イエス様の十字架が表されたことによって、私たちは本当の愛、神様の愛を知る事ができたのです。

神様の愛に溢れるこの手紙は読んでいてとても穏やかな気持ちになれる手紙です。しかし要所要所で、するどい教えが展開されています。神様は私たちに本当の愛を示し、私たちもその愛に生きる者となることを願っておられます。ヨハネは手紙の中でたびたび「私たちも互いに愛し合いましょう」と言います。口先だけの「私はあなたを愛しています」だけではなく、行動を伴ったものとしてです。ですから私たちが本当の愛で他の人を愛そうと思った時、私たちにも犠牲が伴います。そのような愛で私たちが互いに愛し合う時、私たちのその交わりを通して、神様が表されるのです。

個人的なことですが、私はIヨハネ4:20-21の御言葉が嫌いでした。目に見える兄弟を愛せないなら、神を愛することはできませんとヨハネは言います。私は3人兄弟でしたが、弟たちを愛する事ができなかったのです。弟を前にいつも妬みと憎しみがありました。私たちは互いに愛し合いなさいと言われたからといってすぐに実行できるほど、愛を持った存在ではありません。使徒ヨハネも同じでした。雷の子と呼ばれるほどいつもプンプン怒っていたのです。それがイエス様と出会い、イエス様の十字架の苦しみによって変えられ、イエス様の愛を受け取り、イエス様の愛に満たされた時、穏やかな愛のあふれる人となりました。イエス様の十字架の愛をしっかりと受け止めることが重要です。ヨハネは注意深く順番を意識して書いています。私たちが神様を愛したから神様は私たちを救ってくれたのではありません。神様が私たちを愛して下り、十字架で救って下さったので、私たちは愛が分かり、互いに愛せるようになるのです。私たちはまずしっかりと神様の十字架の愛を受け取りましょう。私たちがどのように生きるかはその次に考えるべきことです。まず私たちは愛である神様をしっかりと捉えさせて頂きたいと思います。

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真の主を知る

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
ミカ6:8

ミカ書を開きました。ミカ書は預言者ミカが神様から受けた幻を書いた書物です。ミカ書にある預言は主に、北イスラエルに向けられたものです。ミカは南ユダの王様がヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に活動しました。この時代は、北イスラエル王国の末期、アッシリアに滅ぼされる時期に相当します。ミカという名前は「誰が主のようであるか?」という意味です。その名前の意味通り、ミカ書に書かれている預言は、北イスラエルの人々を、神様に立ち返らせようとしている内容になっています。

北イスラエル王国の民は、真の神様を忘れ、他の偶像を拝み、自分勝手に生きていました。神様はその背きの罪のゆえに北イスラエルを滅ぼすと仰っています。イスラエル王国が南北に分断された時、北イスラエル王国は、首都エルサレムから追い出される形となりました。首都エルサレムには神様の神殿があります。イスラエル人たちは年に何度か、神様を礼拝するために神殿に行きました。当時の北イスラエルの王ヤロブアムは自分たちの領土に神殿が無いと、いつしか国民はみな、南ユダ王国の人になってしまうのではないかと考えました。そこで北イスラエル王国の領土内に、金の子牛像を造り、これが私たちの神だと宣言したのです。こうして北イスラエルは南ユダとは違う独自の宗教体系を作り上げていきました(I列王12:26-33)。こうして北イスラエルの民は真の神様を見失うことになります。

おそらくヤロブアムは、神様とともに歩むことなど考えもしなかったのではないかと思います。真の神への礼拝を世の中にたくさんある宗教的行事の一つ程度にしか考えていなかったのだと思います。何でもいいから宗教を用いれば民をまとめる事ができると考えました。それは宗教を政治や個人的な道具としてしか見ていない事になります。宗教は神様と人がともに歩むことではなく、人が自由に心の中で営む者となりました。その結果、宗教に神は不要となりました。たとえ神様の意向に反する事であったとしても、その人が信仰的に納得すれば敬虔な宗教ということになっていったのです。神が主体ではなく、人が主体の宗教となったのです。宗教がこのように人主体になったので、倫理や道徳も個人的なものになりました。個人個人が自分の正義を振りかざし、誰を傷つけても自分が納得すれば構わないようになったのです。

神様はミカを通して言われます。「誰が主のようであるか?」「神とは誰のことか?」イスラエルをエジプトから助け、国を与え、富を与えたのは神様です。そしてイスラエルが何度神様を忘れ背いても、あわれんで助けて下さったのも神様です。その神様が何を求めておられるのか。人々は聞いているようで、聞いていません。いくら神様が話しても、自分の心で納得できなければ宗教ではないからです。口では神様を信じていると言っていても、心では自分の感覚を信じています。私たちはどうでしょうか。本当に神様の求めておられることを聞こうとしているでしょうか。神様とともに歩むことを求めているでしょうか。自分の思い描く神様像ではなく、真の神様を求めたいと思います。

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