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1900年10月12日(金) 「真の神を見る」  ヨハネ1:14-18  竹口牧師

2003/10/12  ヨハネ1:14-18   真の神を見る
この世には多くの宗教があります。そしてまた、それをその宗教という枠組みの中で考える時、キリスト教もまた一つの宗教であります。多くの宗教がある中で、人がどの宗教を信じようかと考えた時、何をどう信じるか、それは非常に大切な問題でありますし、そこにはまた、選択すると言う要素が出てくるのであります。科学万能の時代、何でも科学で解決できると思っている時代がありました。今もそう思っている人も多いかも知れません。しかし、豊かに、物に囲まれた、あるいは満ち溢れた生活をしている現代では、生活の豊かさの追及から盛んに心の時代だと言われるようになりました。そして、その人の心の飢え渇きをもてあそぶかのように、多くの新興宗教が戦後まもなく生まれたのでありました。終戦直後は、物質的祝福を約束し、今は心の安らぎが与えられると勧めるのが中心ではないかと思います。

ところで、その宗教の教祖の多くは、自分こそ神なのだと言っています。何か特別な体験をし、神からご神託を受けたと言います。そのようにして、多くの新宗教、あるいは新々宗教なるものが生まれました。そういえば、新宗教とか、新々宗教なるものではありませんが、ある本では、明治時代から国家神道の力が強くなり、大戦中は、天皇が現人神(あらひとがみ)と言われ、人の姿をとって現れた生き神様だと言って崇めさせられたそうです。が、敗戦後まもなく、天皇によります人間宣言によって、神とは言われなくなりました。ただし、熱心な天皇信仰者が今も存在することには変わりはありません。

しかし、考えてみますと、キリスト教も、神が人となって来られたと言っているのであります。あっちでも、こっちでも、我こそは神であると言われるとき、一体、どれが正しいのか、あるいは、全部正しいのか。真面目に考え、真剣に求めている人にとっては、真実は何か、それは大きな問題だといえましょう。私も最初は、その一人でありました。どの宗教も、私たちの教えは正しく、他は間違っていると言うか、あるいは、否定しないまでも、受け入れません。100%他を受け入れるとするなら、自分たちの教えに必ずなんらかの妥協が強いられるからであります。ですから当然ながら、ここで、多くの人は戸惑うのであります。何が正しく、何が間違っているのか。何を信じたら良いのか、とであります。正しい神様がおられるとしたら、どれが本当の神様なのか教えてほしい、そういう方もおられましょう。というよりも、私たち日本人は、あれかこれかではなく、あれもこれも何でも信じるという精神風土の中にいますので、排他的な宗教を嫌がるというのが現実でしょう。従って、正しくキリストの教えが根付くのには大変難しいものがあります。私達すでに救われている者にとって、キリストの証人として、もっともっと証言していかなければならない責任があるように思います。

さて、そういう中でイエス・キリストがどういう方か、明らかにしているのは、言うまでもなく聖書でありますが、その聖書は、この地上にお生まれになったイエス・キリストこそ神であり、人となって来られたお方であるというのです。今日の聖書箇所14節の最初の部分にこう書いてありました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。…」とであります。

神様を私たちは、肉眼で見ることはできません。神様は霊なるお方だからであります。しかし、その見えない神様を見える形にして下さったのが、父なる神様でありました。
イエス・キリストをこの世に送ることによってでありました。では、イエス・キリストがこの世に来られる前はどのように神が御心をお示しになったのでしょうか。ヘブル書1:1,2 にこのように書いてあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」私たちは、神様が直接、私たち一人ひとりに、語りかけてくださると共に、御心を夢や幻によって示して下さると、これ程分かりやすいことはないと思います。実際に、ある時代には、今もヘブル書にありましたように、預言者を通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られたのでありました。

しかし、旧約時代は神様はそうされましたが、そして、新約に入って、イエス・キリストをお送り下さり、更には、私たちの救いに関して、御心を客観的に示すものとして、完結された聖書を私たちに与えて下さったのでした。私達は今、その聖書が完結にいたるまでに、神様が御子をこの世に遣わし、御子によって、ご自身とその御心を啓示して下さった、そのことを見ようとしているのであります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ということは、キリスト教にとって、大変大きな意義があるのであります。なぜなら、この世にどんなに多くの宗教があり、我こそはメシヤなりと叫んでも、決してキリストを越えるものではないからです。キリストは神であられ、他は単なる人に過ぎず、叫んでいるだけだからです。勿論、聖書のお言葉を信じない人には、受け入れられないでしょうし、また、他の宗教と同じではないかとお感じでありましょう。幼稚な教えだある人は言います。信じない者が何と言おうと、聖書は言うのです。
キリストは、聖霊のお働きによって、奇跡的方法で、処女マリヤより生まれられた。
キリストが肉体をとられた目的は、罪人たちのために生きて、罪人たちの為に死ぬことであった、とであります。

著者ヨハネはここで「ことばは人となって……」と言っていますが、この「ことばという表現、イエス・キリストのことを指して言っています「ことば」は、この福音書において、この14節が最後であります。それ以後、キリストの受肉の時からヨハネは、「ことば」として来た所を、「イエス・キリスト」または「主」と呼んでいるからです。また「ことばは人となって…」という「人」とはギリシャ語では、「肉」あるいは「肉体」という言葉が用いられています。ですから、キリストが受肉されたことによって、ご自分の上に、実際の肉体と理性的霊魂とからなる、私たちの全性質そのものを、おとりになったことを示します。そのために、この「肉体」という語が意図的に用いられているのです。ある人は言います。「主が人間の全性質をおとりにならなかったなら、人間の側のいやしも、さらに魂の救いもなかったであろう。」と。

このことはまた、私たちの主は、ご自分の上に、肉体には不可分の弱さ、飢え、痛みなどの影響を受ける体をおとりになった、ということを意味していると説明します。キリストは、すべての病気、欠陥から自由な性質を持った、堕落以前のアダムのような人間になったのではなく、アダムの子らと似た人間となられた。ただし、罪を除いてであったのでありました。そして「すべての肉なる者」の救い主となるために来られ、その為に肉体をとられたのであります。まあ、これ以上この14節だけを細かく取り上げ過ぎても先に進みませんから、一応、要点だけを述べさせていただきますが、それは次の4つの点が挙げられます。

まず一つは、「ことばが肉体となった」時、キリストは一つの人格において、二つの完全な、そして異なる性質の結合によって、そのようになられたと言う事です。ある信条にこうあります(アタナシウス信条)。「キリストは神であり、また人である。
彼は、この世が存在する前に生れた、御父の本質の神である。また、この世に生まれた、母親の本質の人である。彼は神であり、また人でもあるが、決して二人ではなく、一人のキリストである。神性を肉体に変換したのではなく、神の中に人性を取り込むことによって生じた方である。」とであります。

二つ目は、「ことばは肉体となった」時、一瞬たりとも神であることをやめなかった方であります。三つ目は、「ことばは肉体となった」時、私たちの性質、即ち人性の真の在り方を保ちつつ、すべてのことにおいて私たちと同じ様になられたのであります。四つ目は、「ことばは肉体となった」時、キリストは、ご自分の上に「罪に陥りやすい肉体」をとられたのではありませんでした。しかしまた、キリストの人間としての性質は、弱さを覚えることから離れた存在ではなかったのです。
と同時に、罪を犯すことからは離れておられたのであります。

こういうさまざまなキリストのご性質から見ますと、この世で、我こそはメシヤなりといっている人と大きく違うことにお気付きでありましょう。著者ヨハネは、15節でこう言っています。「私たちはこの方の栄光を見た」とであります。キリストはさまざまな奇蹟を行われました。そして最後には昇天されましたが、その間の地上の生涯の中でキリストが人であるばかりでなく、「神のひとり子」でもあることの明白な証拠を見たとヨハネは言うのです。「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と。そして、それをある人は、変貌山において、キリストが3名の弟子の前で変貌されたのを目撃して書いていると言います。そして「この方は恵みとまことに満ちておられた」とヨハネは言うのです。

さらに15節に進んで、イエス・キリストのことを著者ヨハネは、バプテスマのヨハネはこう言ったと言います。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」と。その当時、バプテスマのヨハネの働きは、多くの人々に注目され、神様の前に悔い改めるために、集まってきていました。そのヨハネが、イエス・キリストのことを自分より勝る方であると言ったのでした。そして16節から18節までで、著者ヨハネによって、イエス・キリストとはどんな方かが述べられるのであります。まず16節で、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と言います。

理由として、17節で「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」と言います。私はこの16節と17節とのつながりをこう読むのであります。ある先生の本を引用させていただきますが、それを説明するためにまず、17節のことをアウグスチヌスという人の言葉を引用しておられます。律法とイエス・キリストとの比較において彼はこのように言っているそうです。「律法は威嚇した。しかし、助けてはくれなかった。命令した。しかし、いやしてはくれなかった。われわれの弱さを暴露した。しかし、取り除いてはくれなかった。 しかし、律法は、恵みと真理をもって来るはずの偉大な医者を用意したのであった。」と。何と言う素晴らしい表現でありましょうか。

律法は決して悪いものではありませんでした。今も大切な働きを私達にしてくれています。それによって、私たちは神様の求めておられる聖からどんなに離れているかを教えられているからであります。そして、神様の憐れみによるしかないことを知らされました。そして次にキリストが来て下さることによって、旧約の時に人がいただいていた恵みに、更に豊かな恵みが加えられ、溢れるばかりの恵みが増し加えられたのでありました。

パウロはこう言っています。「神は御心によって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ1:19,2:3)。キリストのうちには、時と永遠の双方にわたって、罪人がどうしても必要とするもの全てが、無限に備えられています。キリストはちょうどその宝庫のようであります。キリストは、あわれみ、恵み、知恵、義、聖潔、また贖いにおいて豊かな方であります。このキリストの満ち満ちた中から、各時代の全ての信者は、必要が満たされてきたのでした。

紀元前、つまり、旧約の時代には、人々は自分たちの必要とするものの供給がどこら来ているのか、その源についてよくわからなかったと言えましょう。旧約の時代の人達は、キリストを決して顔と顔とを合わせて見ていたのではなかったでしょう。しかし、後にすべての聖徒は、自分の全ては、キリストのみに恩義を受けている、報いて返さなければならない恩があるという事実を完全に知るようになるのであります。
それ程の働きをイエス・キリストはなさったからであります。

最後の18節にこうあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とであります。死ぬべき者の目は、いまだかつて、父なる神を見ることはありませんでした。人は、どんな者であっても、絶対に正視し得る視力を持っていませんでした。モーセにでさえこの様に神様は言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである」と。                    (出エジプト33:20 )しかし、死ぬべき者である人間が、父なる神様について知りうべき、ぎりぎりの限度までをすべて、神の御子は、私たちに啓示されたのでした。
永遠より父のふところにおられた御子は、ご自分の上に人の性質をおとりになること、
またそのようにして、私たちの心が御父の完全さについて理解し得るすべてを、私たちに示すことを、よしとされたのでした。キリストのお言葉、行為、生命、死、これらのうちに、私たちは、この貧弱な心が耐えられる限度一杯まで、父なる神様について学ぶことができるのです。

神様の完全な知恵、神様の大能、神様の罪人への計り知れない愛、神様の聖さ、この世の何ものにもくらべるものがない聖さ、神様の罪に対する憎しみ、これらのことは、キリストの生涯と死のうちに、最も明瞭に知ることができる形で現されたのでした。
言葉がご自分の上に体をとられた時、まさしく「キリストは肉において現れ」(1テモテ3:16)たのでした。1テモテ3:16には、欄外に、異本では「キリスト」の所が「神」となっているとあります。つまり「神は肉において現われ」ということになるのです。
ヘブル1:3 では、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れである」。であり、ヨハネ10:30 では、御子は、「わたしと父とは一つです」であり、またヨハネ14:9では「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われたのでした。

更にコロサイ2:9では「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」とあるのです。これらの一つ、ひとつの聖書の言葉は、まことに深遠であり、神秘であるといえましょう。この真理が見えるようになるのは、神様によって、信仰の目が開かれた者のみであります。そして、キリスト者はみな、その目が開かれているのです。生れたままでは見る事の出来ない霊の目を神様は、私達信仰者一人ひとりにくださいました。何という感謝なことでしょうか。その信仰の目を開いて下さった方を、もっともっと知るには、イエス・キリストを更に知っていくことが必要なのです。そしてイエス・キリストを知ることは、イエス・キリストにより近付く事でもあります。そしてそれはまた、神を知ることでもあるのです。

この世を歩む時、さまざまな問題に直面します。しかし、どれ一つとて、神であるキリストの知られない事ではありません。なぜなら、神であるゆえに本来ならその必要もないのに、更に人となって来られ、この地上の歩みをされた故にであります。父なる神様を見たければ、子なる神イエス・キリストを見るべきです。この方こそが、神様を説き明かされたのですから。子なる神イエス・キリストを見るとき、そこに父なる神も見る事が出来るのです。


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