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2002年8月4日(日)  「生きる目的」  ピリピ1:22-26  竹口牧師

先回は、パウロが21節の所で、「私にとっては、生きる事はキリスト、死ぬ事もまた益です。」と言っているところで終った。今回は、そのパウロが言ったことの理由が述べられている箇所である。自分にとっては、生きる事も、死ぬ事も益になる。では、しいてどちらが一番良いのかと考えて見ると、うーん、と言っているのがこの場所である。そして、その結論として自分中心の答えではなく、神中心の答えを出していると言うのが今回の所である。

パウロがなぜ、この21節の言葉を言ったかのか、その背景を考えてみると、パウロは今、捕らわれの身である。裁判を受けなければならない状況にある。パウロの罪状はわからないが、重大な罪に問われていたに違いない。そうでなければ、死のことを口にするはずはないからである。有罪判決が下れば,死刑も免れなかった。だからこの手紙を書いている時点では、まだ裁判の結果について予断を許さない状況にあったと思われる。そして、彼は真剣にその事について考えたのであろう。自分の生きることの意味、そして死ぬ事の意味をである。

私たちは誰ひとり、自分の意志によってこの世に生まれ出たものはいない。神様のご計画のもとに生まれたのである。だから、自分がこの世にある存在に気付いた時には、もうすでに、この世をいやおうなしに歩んでいた。ある人は、生まれてきて良かったと今は思っておられるでしょうし、また別の人は、どうして生まれて来たのだろうかと悔いている人もおられるだろう。しかし、人はこの世に生まれ出る事、あるいは、いつの時代に、どういう人種に、どこの国に、どういう家庭に、そして男か女かなどなど全て、選択の余地はなかったのである。

それぞれが神様の奇しいお働きと摂理のもとに、この世に生まれ出て来たのであった。そのようにして生まれて来た私たち一人一人が、必ずと言っていいほど考えるのが、人はなぜ生きなければならないのかである。勿論、この世に生まれてから、一度も人の死に接することなく、また、自分の前にあるさまざまなことに魅了し、人生の華やかさしか目に止らない人は、死など考えたことがない、そういう人も多くの人の中にはあるいはいるかも知れない。

しかし、最近では、リストラやペイオフ制度や、大企業でも倒産する恐れがあるなどの理由で、安心して働けない、安心して生活できない、そういう不安が常につきまとう時代になった。家庭の不和や、それが子供にも影響しているのだろうか。最近では、どんどん悩みを持つ人が低年齢化してきた。そして思い詰めて死さえ考える、そういう時代になっている。

先程、人はなぜ生きなければならないのかと言ったけれども、もっと具体的に、あなたはとか、私は、と言ったほうが、より身近に考えることができるであろう。あなたは、なぜ生きなければならないのか。そういう私も、なぜ生きなければならないのか。確かに、あなたも、この私も、この世に生まれてくるのに選択の余地はなかった。では、死ぬことに対してどうなのだろうか。選択の余地はないのか。このまま生き続けなければならないのか。このように考えていくと、これは今、大変大きく議論されている部分にも入り込む。状況にもよるが、いわゆる安楽死の問題が絡んでくるからである。
しかし、仮に、植物状態になったら、生命維持装置ははずしてくれと元気な時に言っておいて、まさにそれが実行されたとしても、最終的な決定は、神様が下されることであると私は信じている。なぜなら、命あるものの全ての権限は、神様のご支配の中にあるからである。神様が全てを今もご支配されておられるからである。この重要な点をよくふまえた上で、今回の話しを聞いていただきたい。

私たちが、この世を歩んでいて、何か大きな問題に直面した時、生きていることの辛さを非常に強く感じます。そしてあたかも死はそれを解決し、楽にしてくれる。その様に一般的には考えられる。例えば、大きな借金をこしらえ、取りたて屋に追い回されたり、あるいは、刑事事件を起こし、追い詰められ逃げ場を失って、自ら命を絶つ場合だってある。あの世まで追いかけては来れないだろう、という思いで死を選ぶのだろう。聖書の中にも、何人かの自殺者のことが書いてあります。その中には、とても優秀な人であるから、先を読んでしまって見切りを付け、きちんと身辺整理をして自殺をした人の事も出ているし(2サム17:23)、また、精神的に疲れて、神様の前に死を願った人もいる(1列王19:4)。

人はなぜ生きるのか。生きなければならないのか。苦しみが続けば、そのようについ考えてしまう。そういう人もおられるであろう。その様な時、ではなぜ私はこの世に生まれて来たのか。その理由をしっかりと、また正しく捉えていないといけないと思う。生まれ出てくることは、確かに選ぶことはできなかった。しかし、死は神様の御手の中にあるとはいえ、誤った結論を私たち自身が出すことも有り得るのである。神様が下さった命であるにも関わらず、人生のさまざまな問題に直面して、間違った方向へと突き進み、そして安易に自分の命を絶つ事へと発展してはならない。

ある本の「はじめに」という部分で、こういう遺書が載っていた。「『パパ ママへ わたしはいきていても、いみのない人げんです。 わたしがいきていても、みんながこまるだけです。 パパママ、長いあいだおせわになりました。 なにもいわず わたしをしなせてください。 わたしはじごくで みんなのことをみまもっています』 小学校2年の女の子の遺書である。」とこのようにあった。わずか7、8歳の子供でも、生きることの意味について考え、自分が生きていることが、人を困らせるだけだと言って死んでいったことを知らされると、生きることの意味の大きさと、生きるとはどういうことなのか、人はなぜ生きなければならないのかを小さい頃から子供に正しく教え、その為には、大人がまず知っていなければならないと考えさせられる。教える大人が、死を安易に考えているなら、子供も、死を軽々しく考えるのは当然であろう。

横道にそれるようであるが、人間が生きる意義について悩む所に他の動物との違いが明確になっていると私は思う。猿が人生と言うか、猿生と言うか、その目的が分からず悩んで自殺したとか、犬が将来を悲観して自殺したということは聞いたことがないし、そういう事はないと思う。自殺は、人間特有の行動であると言えるだろう。自殺は罪である。なぜなら、神様は人をご自身のかたちに創造され、しかも、その方は人間に対して、「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」という目的を持っておられるからだ。自殺はそれを無視することである。

ところで、鈴木先生が訳されたバプテスト教理問答にも、人が生きることにおいての意味がこのように出ている。バプテスト教理問答第一問、「人のおもな目的は何か。」答、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」そしてその引用聖句として1コリント10:31が挙げられている。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と。「何をするにも、ただ神の栄光を現わす」これが目的なのです。そしてもう一つ、詩篇73:25-26節が引用されている。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」と。

これらを読むと、私たちの体は誰のものか、そして、それをどのように用いるべきか、何のために生きなければならないか、迷うことなく言える。それを知らない、分からない、分かろうとしないところに問題が生じてきているのである。そういう意味では、パウロはしっかりとその事を捉えた上で、自分の生と死との狭間で悩んでいるのである。パウロは22節でこう言っている。「しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」と。そしてまた、欄外には別訳としてこうでている。「もし肉体において生きることが私にとって実り多い働きとなるとしたら、私はどちらを選んだらよいのか」と。

ある人は、こういうパウロの言葉に、いらいらするかもしれない。一体、どっちを望んでいるんだ。死にたいのか、生きてもっと働きたいのか、どっちなんだ。この世を去ってキリスト共に過ごしたいがそうもいかない。さりとて、自由に働きたいと願っても捕らわれの身であるので、行動には制限があるし……。こういう状況の中で、パウロは自問自答するのである。裁判の結果に身を委ねるしかない彼の実情がよく現れている。もっともお分かりのように、パウロの場合、自殺を考えているのではなく、もしかしたら殉教するかもしれない、その死のことを考えているのである。

ところで、私たちは、死のことを論ずる時に、聖書は、死を何と言っているか、確認しておかなければならない。そうでないと、パウロがなぜ、生と死との狭間で悩むのかが分からないからだ。聖書は死について三つ状態があることを教えている。第一は肉体の死である。これは、この世に生まれ出た者の誰でもが経験しなければならない死である。ただし、死ぬ前に主の再臨があれば別だ。

第二は霊的な死である。これは神から離れた生活をし、罪を犯し続けている状態であるので、つまりはイエス・キリストを信じて救われていない時の状態である。人がこの世に生まれ出たままの状況は、その霊的な死の状態である。(参照エペソ2:12)。

第三は永遠の死である。黙示録20:11-15で「第二の死」と記されているのがそれだ。これは罪に対する神からの最終的な審判による刑罰としての死であり、永遠の死である。この3つの死のことを踏まえた上で、パウロのことを考えて見ると、パウロはイエス・キリストを救い主として信じ、霊的な死の状態からは解放されていた。また、キリストの十字架の死によって彼の罪は処理され、神に罪を赦された者、永遠の死からも解放されていた。それゆえパウロにとって肉体の死は、永遠の死に至る門ではなく、天国への門であったのだ。だから、彼にとって死は恐ろしいことではなく、むしろキリストのもとに行き、地上でのさまざまな苦しみ、重荷から解放されて永遠の憩いを得られる幸いな場所への道でもあるのだ(参照黙示録21:3,4)。しかし、死が永遠の憩いにつながるからと言っても、死を美化して考えたり、早く死んだ方がよいと言うわけではない。先程も言ったように、神様が目的を持って一人一人を造られているからだ。その目的にそって人は生きなければならないのである。

さて、パウロは23節においてこう言っている。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」確かにパウロは、自分のことだけを考えると、煩わしいこの世を離れ、きよい神の御国で重荷を下ろしたほうが、どれ程、楽であろうか。彼は、これまでにも、何度も殺されそうになった。その度に逃げ切ったのである。また、神様も彼が殺されることをよしとはされなかったのであった。彼が逃げたのは、殺されることが怖かったのではなく、自分にはまだ、神様に返さなければならない負債を負っている(ローマ1:14)。その負債とは、私のためにイエス様ご自身が命を捨てて下さった。それに報いなければと、頑張ってきた、そのように私は思う。

パウロはガラテヤ人にこう書き送っている。2章20節で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と。彼の人生は、もうキリストなしの人生ではない。そういう人生であった。その彼が捕らわれの身にあって、自分の辿った道を振り返ってみる時、天の御国に憧れても不思議ではない。しかし、命は神様のもの。神様のご用の為に用いるべきもの。彼は、そこで、自分の置かれている状況を考える訳である。そしてピリピの人達に24,25節でこう言う
「しかし、この肉体に留まる事が、あなたがたの為には、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなた方全てと一緒にいるようになることを知っています。」これを読むと、パウロは、まだピリピの人達にとって必要な人間である。そう意識していたことが分かる。そして生きていれば、26節を見れば、ピリピの人達ともう一度会う事ができるので、そうすれば、ピリピの人達はさらにキリスト・イエスにある信仰が増し加えられ、言葉を付け加えれば、強められる、そのように言っているのである。

生きる事を願うべきか、死ぬことを願うべきかをパウロが考えた時に、何のために神様は私に命を与えて下さったのか。そして、命は誰のものなのか。そして、その命は誰のために用いるべきなのか、パウロは自問自答しながら、さらに確信へと導かれて行ったと言えよう。そして、それは勿論、ピリピの人達を励ましたのであった。
私たちもまた、この世に生きている限り、さまざまな試練に直面します。そして殉教という場合ではなくても、死さえも願うような事があるかも知れない。しかし、その様な時、今一度踏みとどまって、たった一つしかない命。神様が与えて下さった命。その命は、誰のために、どの様に用いるべきものか、真剣に考えてみる必要があるであろう。パウロは決して、自分の望むことを求めなかった。神様を第一とし、神様のために生きた人である。それが、ピリピの人達への愛となって現れているのである。

私たちもまた、与えられている命を、自分のためにではなく、神様のために、そして、それは、私たちの周りにいる兄弟姉妹、更には、未信者の方々のために用いるべきであろう。それは即ち、神様の栄光を自分の体を通して現していくことなのである。神様の愛を十分に受けて、それをまた多くの人々と分かち合っていく。そのようにますますなろうではないか。

2002年8月18日(日) 「福音に相応しく」 ピリピ1:27-30 竹口牧師

パウロは、ピリピの人達に手紙を書き送った。それは、まず挨拶から始まっており、あなたがたを思うごとに神様に感謝しているというものであった。次に彼が書いたのは、彼の今確信していることであり、それは「あなた方のうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さる」というものだった。一度、私たちの内に聖霊なる神様が入って下さったなら「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」とパウロが第2コリント4:16で言っているように、私達は日々に完成へと作り替えて下さっているのは大変感謝な事である。この事は、私たちの確かな望みでありまた喜びでもある。

ところで、パウロはピリピの人達にこの手紙を書いた時、9節の初めでまず「私は祈っています」と言った後で、その続きで……になってほしいとか、なぜなら……だからだと3つの点について述べていた。更には、自分が囚われの身であるこの時に、福音が前進していることを喜んでいるとも書いていた。しかしその一方で、全面的に、手放しで喜んでいるわけではない。というのは、福音を伝えるのに、純真な動機からではなく、捕らわれの身となっているパウロを苦しめるためであるからだ。しかし、それでもパウロは、その事を喜んでいると言った。なぜなら、自分の名前が伝えられることが目的ではなく、キリストの福音が、述べ伝えられることだったからだ。

ところで、そういう手紙の流れの中で、次にパウロは今の状況が、どっちつかずの状況であることに少し残念さがにじみ出ているような様子が書いてあった。それは、自分としては死を望んでいるのだが、しかし、ピリピや他の諸教会のことを考えると、まだまだ自分を必要とされていることを知っていたからである。パウロにとって、死はキリストのもとに召されることを意味し、生は、福音宣教の働きの継続を意味し、どちらも、勝とも劣らない、そういう思いで彼はいた。死のほうが彼にとってはキリストと共にいることになるので、「はるかにまさってい」(23)ると思いつつも、生きる事のほうが「もっと人々には必要」(24)である。その間にあって板挟みになっていたのである。そして、生と死とを天びんにかけて、自分の望ましい死よりも、求められている生の方を神の御旨と確信するに彼は至のであった。

さて、では、自分は生きることのほうが、神のみ旨と悟った時、ならば、またピリピの人達と会える。またたとえ会えなくても、彼等の悪い評判ではなく、良い評判を聞きたいものだ。仮に、会って聞くにしても、流れ流れて来る口伝えを聞くにしても、良いものであってほしい。そして、そのためには是非、彼等がこうあってほしいと言うのが今回の所である。27節で彼はこういう。「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と。「そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。」とパウロは手紙を続ける。

しかし、一口に「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と言われても、一人一人の考えがパウロの考えていることと違っていたなら、それは、当然ながら、パウロの意図とは違うことになる。聖書の欄外注には別訳として「御国の民の生活をして下さい。」とあるから、これであれば、何となく少し分かるような気がする。しかし、それでもまだまだよく分からないと私は思う。皆さんはパウロのこの言葉、即ちパウロから「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と言われて、それは、こういう意味だと分かるであろうか。もし、それぞれ考えていることが違っていたら、それはある人の場合は合っているかもしれないが、また別の人の場合、パウロの意図とは違うことになる。彼の考えていることは、一つだからだ。
そこで、では原文ではどうなっているのか、と言うことになる。ここで使われている「生活」という言葉は、普通用いられている「日常生活」という意味の言葉ではないと言われる。つまり、責任と特権とを意識した「市民生活」をしなさい、ということだそうだ。では、責任と、特権を意識した「市民生活」とはどんな生活なのだろうか。これは明らかに、パウロが言っているように、キリストを意識して言っているということである。キリスト者らしい生活、それは、この世の人が見てのキリスト者らしさだけでなく、国籍が天にある者らしい生活、永遠の命をいただいているものとしての生活だと言えるだろう。

当時ピリピはローマの植民都市であり、軍事的にも、通商的にも
重要な位置を占め、マケドニヤのこの地方第一の町となっていた(使徒16:35)。住民は、ローマ人が退役軍人など軍関係者を中心に約半分、ギリシャ人が半分で、その他に少数のユダヤ人がいたと言われる。だから、ローマからは遠く隔たっていたが、ピリピの人々の生活様式はローマの影響を強く受けて似ており、ローマの風俗習慣をそのまま取り入れていた。そのようにして彼らは、ローマ人としての誇りを持ち、ローマ人としての特権と義務を決して忘れることなく生活していたのである。そういう中で、パウロはピリピのキリスト者達に、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と勧めた。

先程も言ったように、クリスチャンは、国籍を天に持つ者である。だから、神の都の市民であることを決して忘れず、現在は、神の都から遠く離れて地上の生活を送っているけれども、この世の人達とは違う。その意識が必要であった。私たちは、聖書に示され教えられている天の御国の生活様式を取り入れ、神の都の市民としての自覚を持ち、それにふさわしい生活をする者でなければならない。パウロはその為に具体的には3つのことを今回の所で勧めている。
その一つは、神の国の市民権を持つ者は、「霊を一つにしてしっかり立」(1:27)つ事だと言う。教会は、イエス・キリストを救い主と信じた者の群れだ。職業、年齢、性別、趣味、あらゆる違いがある。しかし、それ程いろいろな違いがあっても、キリスト者としての出発点はみな同じなのだ。それは、誰ひとりとして、聖霊の内住されていないクリスチャンはいないということだ。同じ父の子なのだ。私たちは教会で何かを決めようとするとき、方法、過程、完成に至るどの部分において違いがあっても、そのもとになる霊においては、同じである。だからこそ、ある時は、意見が割れたように見えても、その根本においてはキリストにおいて一致しているのである。また、一致していなければならないのである。でなければ、分裂することになる。そして、それは悪魔の働くところとなるのである。「霊を一つにしてしっかり立」つ。これは、聖霊なる神様が一人一人の中に住んで下さるゆえに、教会全体にも住まわれ、キリストの体をあらわすのだ。キリストの体をあらわす以上、体がバラバラである筈はない。それは一致を保ち、「しっかりと立」って、保たれるべきものなのだ。

ある人は言う。「この言葉は、古代ローマの剣闘からとられたもので、天国の民の特徴を表します。心の乱れや動揺、迷い、優柔不断の態度がなく、一つの変わらない目的に向かって一致を保つことです」と。ローマから離れていても、ローマ世界の中にあるピリピの町で、クリスチャン達は、「霊を一つにして、しっかり立」つ事が求められたのである。今日の私たちも、日本においては、クリスチャンは非常に少数派に属する。そのような中で、私たちもまた「霊を一つにして、しっかり立」つ事が求められていると言えるだろう。
二番目は、「心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘すること」である。「心を一つにして」と2番目にも、乱れがあってはならないことをまず言っている。「福音の信仰のために、奮闘せよ」である。福音の信仰とは、福音の内容、中身である。パウロはガラテヤ人にこう書き送っている。

「私は、キリストの恵みをもってあなた方を召して下さったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」(1:6,7)と。
福音、福音と、よき訪れを語っているように言葉を連発しながら、実は聖書の教えることとは違った教えであるなら、それは福音ではない。それは、人を惑わす恐ろしい教えである。私達の教会がなぜ、バプテスト教理問答書を出版し、第2ロンドン信仰告白を出版したかお分かりであろう。信仰は、熱心さだけではいけないのだ。聖書の教えを正しく解釈し、その上に立った信仰、生活でなければならないのだ。それがこの世において問われる。問われなければならないのだ。真理とは、もともと一つであり、二つ、三つとあれば、それは、その中のどれかが違っているのだ。そして違っているなら、その違いの中では一致しようがない。「心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘する」ためには、一致点が必要である。全世界のキリスト者は同じ御霊のもとに、時間や言語、肌の色、国境などを越えて何の差別もなく一つとされているのだ。聖書における、真理の一致があってこそである。
パウロはエペソ教会にこう書いている(4:1-6)。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、全てのもののうちにおられる、全てのものの父なる神は一つです。」と。

一人一人が同じ信仰、同じ福音に立って、共に奮闘するのだ。共通の敵に向かって、共同で戦うのだ。パウロはまた、エペソ人に宛て
た手紙でこう言っている(2:1-3)。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」私達は今は、変えられた存在なのである。だからこそ、心を一つにして、同じ目標を目指して進むことができるのだ。

第3番目は、「どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない」ようにと言う事である。パウロは最初ピリピで伝道したとき、大変ひどい目に遭いました。それも、ユダヤ人ではなく異邦人から受けた。それは、占いの霊につかれた若い女奴隷を食いものにしていた人達が、パウロの働きによって商売にならなくなったので、パウロとシラスを牢にぶち込んだのであった(使徒16:16-40)。しかし、パウロとシラスの二人は、牢獄の中で主を賛美していると、他の囚人たちが聞き入り、また大地震も起こり、そんなこんなで、救われる人も起こされ、牢獄から出ることができた。パウロはこの時、毅然とした態度で、ローマの長官に抗議しました。

恐らく、パウロさえその様な辛い目にあったのだから、ピリピの教会の人達も、その後、さまざまな試練を受けただろうと思う。しかし、福音の信仰のために、反対者を恐れないで、勇気を持って戦うことが、キリストの福音にふさわしく生きる道である。また、その様に生きてこそ、28節の半ばから終りにかけてあるように、「それは、彼ら(反対者)にとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」と言い切れるのだ。

キリスト者一人一人が、教会の内と外にあって、いつもぐらぐらしているのではなく、心一つにして、しっかりとした福音に立って行動することが、どんなに求められていることだろうか。それは、パウロの時代も、また今の時代も同じなのだ。また、ここで、私達が忘れてならないのは、妥協すれば、どんどん妥協の道をたどることになるし、信仰を明確にすればするほど、風当たりも強くなる。これは、キリスト者として覚悟しておく必要があるであろう。そしてその事をパウロはこの様な言い方であらわしている。29節「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」と。

私は、信仰をもった最初の頃は、この言葉を知らなかった。もし、この言葉を知っていたなら、現在の私があるだろうかと思えるほどの重みのある言葉である。なぜなら、救われた当初の私の信仰は、悩み解決の為だけの信仰でしかなかったからだ。信じてさらに悩みを抱え込むようでは、それは信仰ではない。むしろ、そんな信仰は捨てるべきだ。人のためにはならない、その様に考えた事があったからだ。だから困難にぶっつかる度に、信仰とは誰のためのものか、真剣に考えたものである。悩んで悩んで、苦しんで苦しんで、そうして、とうとう楽になりたいそう願ったことが何度あったであろうか。私がこの29節の言葉に出会ったのは、随分後のことであった。そして、この言葉には大変驚かされたものである。もう一度読んでおきたい。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」
しかし、パウロがこれを言ったのは、この世にある多くの御利益宗教の言うのとは訳が違う。その御利益宗教の言うのには、御利益に与かるには、どれだけ多く労し、献げ、修行し、神様に認めてもらわなくてはならないかを指していると思う。そして、神様に認められたかどうかは、結果で判断される。つまり、どれだけ御利益があったかである。自分が献げた分だけ、神様もまた与えて下さる。まるで、等価交換方式みたいではないだろうか。

しかし、パウロはそうは言っていない。もう一度エペソ人への手紙を引用するが、パウロはこう言っている。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と。救いは行ないではない。恵みなのだ。そしてさらに、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」と。

神様が備えて下さった道をキリスト者は歩むべきなのだ。それには、良いこともあれば、自分には辛いこともある。御利益宗教で言うなら、神の罰だと言うかも知れない。しかし聖書はいう。神様は確かに私達が道を外れれば叱責される。私たちの道を矯正される。正しい方向に戻される。しかし、決して一度救われた者はその救いからもれることはないと。私達はただで恵みを受け、ただで救いをいただいた。それは、イエス様の尊い犠牲があったからである。キリストの払われたその大きな払うべき値が支払われた故であると。その支払われた犠牲の大きさの万分の一でも私達が知るには、キリストの味わわれた苦しみを味わってみることである。それによって、どんなに大きな恵みによって、私達が救われ、生かされ、支えられているかが分かるはずである。

パウロは、自分のたどった道を振り返りながら、神様の与えて下さった恵みの価値と、そして自分の受けてきた苦しみとを思いだし、ピリピの人達よ。30節「あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。」と言って、励ましているのである。パウロのこの言葉を聞いたとき、ピリピの人達がこれからどう生きれば良いか、試練にあったとき、どうすればよいか明確になったであろう。27節「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」というパウロの勧めに生きるだけだったのである。私達もまた、「霊を一つにしてしっかりと立ち」「心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘し」「また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはない」しっかりとした信仰生活をこれからも築いていこうではないか。


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