2016年5月1日(日) 「神に立ち返る」 使徒14:8-18 竹口牧師
パウロはアンテオケの教会から聖霊に導かれて御言葉を語る様にと送り出されました。キプロス島へ渡り、そこから更にアナトリヤ半島に渡り、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、そしてルステラ、デルベへと町を巡り歩きました。パウロ達の行く先々には必ずといってよいほど、反対者が現れ、伝道の場所を変えなければなりませんでした。しかし、やむをえず移動したことは、御言葉が一か所に留まる事なく次々と広がって行く事となったのでありました。
今回はルステラという町における一つの出来事を通して私達の信仰の在り方を今一度問い直してみる事にします。今回見ますパウロの奇蹟は、この同じ使徒の働き3章で見ましたエルサレム神殿の美しの門でペテロが行なった奇蹟と非常によく似ています。 例えば、どちらも癒されたのは「生まれながらの足なえ」でしたし(8,3:2 )またどちらも、使徒はその足なえに「目を留め」ました(9,3:4 )。またどちらの足なえも、使徒の一言で「飛び上がって、歩き出した」(10,3:8)などであります。 しかし、違いもありました。 ペテロによって癒された足なえの場合、癒された結果として信仰を与えられたのに対して、パウロのこの場合は、信仰が与えられていて、その結果癒されたということであります。また特に今回ここで注目しておきたいのは、ルステラという町の地方色、宗教性がよく現されている、そういう点でありましょう。それは、後程見る事にしまして8節から入って行く事に致します。
ルステラに、ある足のきかない不自由な人がおりました。その人は生まれながらの足なえで歩いたことがありませんでした。この生れながら……と8節で強調されているところから、これから癒されようとしている彼は、全く神様のお働きによらなければ癒される事のない人だったという事をまず覚えておきたいのであります。 その人は、パウロ達がルステラにやって来まして、イエス・キリストの福音を話していた時、じっと耳を傾けていた者の一人でありました。彼の足は不自由でしたが、目、耳は正常に働いていました。それは、単に肉的に、音を聞くことができるとか、人が何を語っているかを聞き分ける事が出来るとか、 そういうことだけでなく自分にとってどういう意味があるのかを聞き分ける耳を持っていたのであります。 あらかじめ聖霊の神様が働いてくださり、パウロの言葉を聞いて回心に至るようにしておられたと言えましょう。私たちは、興味のない事には少しも耳を向けようとしません。テレビやラジオが隣でどんなにうるさくても、何かに没頭していれば、全く気にならないこともあります。 どんなにうるさい所でも、その中に自分に何か関係がありそうでしたら、あるいは自分の求めているものがあったなら、その人は必ず耳をそばだて、聞き耳を立てる事が出来るのであります。恐らくこの足なえの人は、パウロの語る言葉を自分との関係において考えながら聴いていたのでありましょう。
御言葉を読む時、聞く時、それはいつも自分との関係において聞かなければなりません。なぜなら、神様は、一人一人に語り掛けておられるからです。それも、私達が期待を持って出る事を求めておられます。長い間病気であると、それに「慣れます」「治りたいと言う意志を失います」「諦めがきます」「治ると言われても半信半疑になります」 しかし、神様の御前に出る者は、これらのどれ一つであってもいけないのです。それは、神様の御前に出るに相応しくないからです。この人は、体が悪く歩いたこともないのに、救われる信仰をいただいていたのでありました。何と素晴らしいことでしょうか。
私達信仰者も神様のみ前に出る時はいつも彼の様でありたいものであります。希望をもって、感謝しながら、期待して御前に出るのです。パウロはその人に目を留め、癒される信仰があるのを見ます。パウロが私達一人一人を見た場合に、果たしてどの様に見るでしょうか。まず神様は、この足なえの人に聞く耳を与えておられました。 次に、パウロの語る言葉を受け入れる心を与えておられました。実に素直な信仰を与えておられたのであります。そして、それらはパウロの目に止まったのでした。信仰のない人に、そして生れながらにして歩いたことのない人に「自分の足で、真っ直ぐ立ちなさい」と言われる事ほど、自分を馬鹿にされたと感じない事はないと私は思うのであります。
しかし信仰がその人にあるなら、それは、正にその人にとって、天と地がひっくり返った様な意味を持つのであります。なぜなら、その人は神様の言葉を聞いて歩こうと試みますし、実際に歩けるようになるからであります。そして、その事は私たちにとっても同じであります。私たちが不信仰であるならば、御言葉を聴いても、それが成就する事は信じられませんし恵みをいただく事が出来ません。決してそれは御言葉に力がないのではなく、恵みを拒否しているにすぎないのです。
エペソ1:19でパウロはこう言っています。 「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と。神の全能の力が、信じる者に働いてくださるのであります。素晴らしいではありませんか。 生れながらの足なえの人は、パウロの言葉を聞き、歩き始めました。生まれて初めての経験です。しかも、つたえ歩きではありません。彼は飛び上がって、歩き出したのです。その人の歩き方は、決して、スポーツマンが歩くような、しっかりとした足取りではなかったかも知れません。しかし、彼は御言葉を聴いて、しっかりと地面に足を据え、立って歩いたのであります。
救われた人がすぐにどんな信仰の試練にあっても大丈夫だなどとは申しません。そこには、やはり経験の浅さ、ひ弱さがあるでしょう。しかし、神様の恵みは同じく燦々と降り注がれているのです。その事に、私たちはいつも気付きたいものであります。信仰歴の長い人も、短い人も、恵みは同じ様に注がれているのです。不信仰者ではなく、真の信仰者になろうではありませんか。
さて、ルステラの人々は、足なえの人に起こった事実を目の前にして大変驚きました。そして彼等は、ルカオニヤ地方の言葉でこう言ったのでした。「神々が人間の姿をとって、私たちの所にお下りになったのだ」と。しかもバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだのであります。慌てたのは、そう呼ばれたパウロとバルナバでありました。
もっとも、二人は直ぐにその事に気付いた訳ではありません。言葉の違いから、すぐには意味がよく分からなかった様であります。ですから、ルステラの人々の間違いは更に暴走する事になります。彼等は何をしたかと言いますと、町の門の前にありますゼウス神殿の祭司がまず雄牛数頭と花飾りを門の前に携え来ます。そして群衆と一緒に、いけにえを捧げようとします。 彼等の信仰は実に、熱心でありました。 あの足なえの人に起った事は、否、あの足なえという病気の者に命じる事の出来る者は、神様以外にはあり得ない、とそう感じたのでありましょう。人間のできる業ではなく、それを越えた方がされたのだとルステラの人々が受け取った事は間違っていませんでした。 しかし、その越えた方がどなたであるかは違っていたのです。これは、とても大切な点であります。無神論者がいないわけではありませんが、多くの人々は、神様はいると言います。その神様は、どんな神様かと具体的に聞きますと、実にさまざまな答えが返ってくるのであります。ある人は、太陽だと考えます。ある人はきつねだと言います。またある人は、いま生きている特定の人を指して、生き神様だと言います。 ルステラの人々はかつてこういったとあります。 「神々が、人間の姿をとって、私達の所にお下りになったのだ。」とであります。本当にそうだったのでしょうか。勿論、違います。彼等は間違った信仰をもっていたのです。どんなに熱心な信仰でも、間違った信仰であるなら、それは真の神さまから怒りを買うことは免れません。ここに大切な点があるのです。
神様でないものを神様と信じ、いけにえを捧げ、熱心な信仰生活を今まで彼等は送っていたのですが、それは、何という恐ろしいことだったでしょうか。 ギリシャ神話に出てくる主神ゼウス、そしてゼウスとマイヤの間に生まれたヘルメス、このヘルメスは、雄弁な者の守護神とされていました。ルステラでは、このゼウスとヘルメスが人間の姿をとって地上に下って来ると伝えられていたものですから、この町の住民は、今回の出来事は、てっきりそうだとばかり思い込んでしまったのでした。
神話の世界では色々な神々がいて、その神と神とがけんかをします。めとったり、嫁いだりもします。またそれぞれが役目を分担し、大空を支配するもの(ゼウス)、海を支配する者(ポセイドーン)、死者即ち、死んだ者を支配する者(プルートーン)がおりまして、そして地上はこの3人が支配する、などというように色々なことが書かれています。
しかし、それはあくまで、神話の世界であります。私たちは、神話の世界に生きているのではなく、現実の世界に生きているのです。ですから、神話の世界のことを、この世の世界に持ち込むことは、私たちには何の意味も持たないし、また危険なのであります。
ルステラの人達は宗教的に熱心でした。 しかしその彼等は、神話の世界と現実とが区別されていなかったのです。日本人の多くは、このルステラの人々のように、ギリシャ神話に出てくるようなゼウスやヘルメスといった神々を信じていないかも知れません。しかし、他の多くの偶像が、私たちの回りにはあるのであります。
そして、私達クリスチャンも目に見える形では持っていないとしましても、自分の心の中には持ってはいないだろうか。そのように考えさせられるのです。頭の中で理屈では、唯一の真の神様のみがおられるだけだ、そう言いながら、実は、他のものにより頼んではいないだろうかと時々考えさせられるのです。
ある本には、神道についてこう書いてありました。「日本の神様は多種多様であって、一つ一つの神様の姿は決して明確ではありません。しかし『かたじけない』思いがして手を合せるのです。」と。知らず、知らずのうちに、真の神さまから目が逸れて、現実の結果ばかりに目を取られ、一喜一憂し、 その事に手を合せる、その事に感謝する、その様になっていないだろうかと考えさせられるのです。
目に見えるもの、目に見えないもの、いずれであっても、私達は真の神様以外に、崇める対象を持ってはならないのです。パウロは必死にルステラの人々に呼び掛けました。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこの様な空しい事を捨てて、天と地と海とその中にある全てのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を述べ伝えている者達です。」と語ったのでした。
人間は、人間であって、神ではない。人間を神格化し、偶像礼拝することを止めるようにと、そう勧めました。空しい被造物を神様とする偶像崇拝から離れ、生ける神に立ち返れ、これがパウロの語った福音でした。偶像を私達は心の中に、外に、知らず知らずの内に造りやすいものです。それは非常に悪い事です。 今一度、神様の御前に正しいかどうかを吟味しなければなりません。お金に頼ってはいないでしょうか。自分の今ある地位、或いは知恵、或いは知識により頼んではいないでしょうか。自分の若さを信じてはいないでしょうか。自分の体を信じていないでしょうか。私達は、それら全てを真の神様からいただき、正しく管理する事を委ねられているのであって、それに頼る事は間違いなのです。 神様から命を頂き、今も生かされております。 ですから真の神様以外に頼るものは何一つあってはならないのです。ルステラの人々のようではないと私たちは彼等を決して笑う事が出来ないのではないでしょうか。
さて、次に第三の点であります。 イエス・キリストの福音を伝える時に、よく問題になる事があります。 それは、自分自身の救いの問題よりも、時間的にそれ以前の人々のことで、例えば、まだキリスト教が伝えられていなかった時代の人の救いはどうか。或いはもっと時代を遡って、イエス・キリストが来られる前の人はどうなのか、という点がよく聞かれます。 福音を聞かずに死んだ人は一体どうなるのだ。彼等は真の神さまを知らずに死んだのではないのか。とすれば、その人達は可愛そうではないか。そういう質問をされます。後に起こる神様の裁きが分かれば分かる程、心配になってくるのです。
確かに大切な問題です。でも、考えてみてください。人の事よりも自分の救いの方がずーつと今は大切ではないでしょうか。勿論、聖書はその事に対して答えていない訳ではありません。パウロはこのルステラで事態の緊迫した状況の中で異邦人に対して語り、しかも異邦人に対して神様はどうあられたかを16,17 節で明らかにしております。 即ち「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身を証ししないでおられたのではありません。即ち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」とであります。
真の神さまは何と言う恵みに満ちたお方でしょうか。ちゃんと、恵みを注ぎながら語りかけておられたのでした。ここで、16節の言葉が少々ひっかかってくるのであります。 もう一度読みますが、「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。」とあります。「それぞれの道を歩むことを許しておられました。」とはどういうことなのでしょうか。 もし、この箇所から、過ぎ去った時代に、恵みを降り注いで下さっていた神様を無視し、偶像崇拝に走り、自分勝手な歩みをしていた人と、或いは逆に、自分の間違いを知り悔い改めた人とが同じ様な報いを死んで後、受けられると取るなら、これは大きな間違いであります。なぜなら、パウロはこの点について、ローマ人への手紙1,2 章において詳しく述べているからです。 これを読みますときに、神様は恵み豊かな方であられますが、しかし、不義をもって真理を阻んでいる人々を決して許しておられたわけではない事がはっきりとお分かりいただけると思います。 真の神様がおられたなどとはつい知らなかったでは済まされないのであります。また、造った方を崇めないで、造られた物を拝む事も赦されないのであります。
更には、このルステラの人々もそうですし、また現在の私たち日本人もそうなのですが、両者とも実はイエス様が来られる前ではなく、来られた後の時代に生まれた者なのであります。それならばなおのこと、神様のなさった業、即ち、私達の罪のために十字架に架かけられ、贖いの死を遂げて下さった神様の愛を素直に受入れ、今までの罪を悔い改める事が当然なのであります。そういう責任があるのです。 私たちが、それぞれ自分の道を勝手気ままに歩む事は許されていないのです。今までの歩み、今までの信念、今までの生活の全てを、イエス・キリストの福音の光のもとで吟味し直し、真正面からキリスト教に取り組むべきなのであります。キリスト者であるなら尚のこと、日常生活を更に、キリストの求められる、喜ばれる歩みへと変えて行かなければなりません。
パウロ達はやっとの思いで、群衆がパウロ達にいけにえを捧げるのを止めさせました。しかし、彼等の多くの心は(全てとは申しませんが『16:1-2』)、もはやそれまででした。次回見る事ですが、彼等はアンテオケとイコニオムからやってきたユダヤ人達に煽動されてパウロを石打にするのであります。 神様と崇めたかと思えば、今度は一転して犯罪者のごとく、石打へと心が変わるのです。イエス様も同じ様な目に会われました。救ってくださいと大勢の人が集まってきたかと思えば、海の潮が引いていくように一斉に人々は去っていったのであります。人の心がいかにコロコロと変わるものであるかをまざまざと見るような気が致します。
それ故にこの朝も、神様が私たちにパウロの言葉を通してこう語りかけられるのであります。「天と地と海とその中にある全てのものをお造りになった生ける神に立ち返るように」とであります。足の利かなかった人が神様から恵みをいただいて歩ける様にされました。
現在の私たちも、神様からの恵みに与ることができるのです。 神様から頂いた力で、立ち、歩き、働くことができるのです。目があっても見ることができない、耳があっても聞くことができない、足があっても歩くことができない、その様な偶像に頼ることなく、今も生きて働いておられる真の神様の下さる恵みによって今週も歩ませていただこうではありませんか。 イエス様を救い主と信じておられる方はなおのこと、まだ信じておられない方は、今のこの時が、生ける神様に立ち返る時であります。ぜひ、イエス様と共に歩む決心をしていただきたいものです。
|