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2016年4月10日(日) 「異邦人の光」  使徒13:42-52    竹口牧師

先回は、ピシデヤのアンテオケにおいてパウロが説教をした部分を見ました。それは、旧約聖書が預言していた救い主こそナザレ人イエス・キリストであり、このイエス・キリストを信じるならば、誰でも救われるというものでした。この内容は、今日のキリスト教会が宣べ伝えているのと同じ説教ですから、当時の町の人達がどの様な反応をしたかは、私達にとって大変興味が湧いてくるところであります。

そして今回見ようとしている42節以下はその箇所であります。まずパウロの説教を聞いた直後に示した人々の反応は、と言いますと、大変好意的でした。つまり「人々は、次の安息日にも同じ事について話してくれる様に頼んだ」と42節にある通りであります。「人々は」と言いますのは、漠然と「彼等は」という主語ですから、そして説教依頼のできる人は限られていますので、多分、会堂管理者達であったと思われます。
次に、「会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者達が、パウロとバルナバについて来た」(43)とありますので、説教後も、帰る道すがら話しがはずみ、反響は実に大きかったと言えましょう。

今ここに「多くのユダヤ人」とありますが、彼等は勿論、パウロが説教において語りました、神がユダヤ民族の長い歴史を通して救い主の到来を約束して来られた、と言われた、その当のユダヤ民族でありました。そしてその救い主が来られたとすれば、誰をさておいても、真っ先にもろ手を挙げてお迎えすべき人々、即ち、ユダヤ人でありました。そのユダヤ人達が大勢、パウロの説教に共鳴したのですから、都エルサレムとは随分様子が違っていると言えましょう。

次に「神を敬う」改宗者と言いますのは、「改宗者」なら誰しも神を敬っている訳ですから、恐らく、改宗者の中でもひときわ熱心な、単にユダヤ教礼拝に加わるだけでなく、割礼儀式まで受けて、すっかりユダヤ教徒になりきった異邦人の事と思われます。彼等は、ユダヤ人と全く同じ様に、「モーセの律法」を全部守る様にと教えられ守っていた人達であり、従って、彼等は「モーセの律法によって解放される事が出来なかった」悩みも(39)、つくづく実感していたと思われます。その彼等が、熱心にパウロとバルナバの後をついてきて話したのでありました。
そればかりではありませんで、44節には、「次の安息日には、殆ど町中の人が神の言葉を聞きに集まってきた」とありますように、パウロの話は、1週間後には、口から口へと多くの人々に伝わって行ったようであります。

ところで、43節の終りの方に、パウロが人々に勧めた大事な事が出ています。それは「いつまでも神の恵みに止まっている様に」という勧めであります。これは、今日の私達クリスチャンにとっても、大切な勧めなのであります。神様の恵みの素晴らしさは今更皆さんに説明する必要はないでしょうが、しかし、その素晴らしい恵みの中にずっといる時に、時として、その恵みを私たちは忘れる事があるからです。感謝が少なくなる事があるのです。それは恵みが当たり前のように感じてくるからであります。そして、やがて不満と恐れとが出て来る様になって行きます。

しかし、それではいけないのです。すでにクリスチャンの方は、救いは神様が無条件に私達に下さったものである事を知っております。ですから、その救いの恵みの素晴らしさがいよいよ、ますます輝きを増して行くにはどうしたら良いかもみなさんは、知っておられるはずです。それは、神様の恵みにいつまでも留まり続ける事であります。
当たり前の事ですが、しかしパウロは大事な事として勧めているのであります。神様の恵みに留まり続けること、これは即ち、神様の命令に従い続けることであります。恵みは、従う事によっていよいよ豊かに与えられるからです。救われたらもう何もしなくても良いのではありません。神様の命令に従うことなのです。そして、従い続けるにはまた、努力を必要とするのです。私達はそれをまた惜しむようであってはなりません。

ここで誤解して欲しくないのですが、救われる為に努力するのではありません。なぜなら、救われている人が、更に救われる必要はないからです。神様の恵みに留まり続けるために努力をするのです。ただ自分流に努力することではありません。神様の命令を聞き、その命令に従うことです。そしてその為には、まず御言葉を読まなければなりません。読めば教えられます。慰められます。励まされます。強められます。神様から恵みを受ける事が出来るのです。そして、それが続く様にするには日々にそれを続ける事であります。
食いだめと寝だめはできません。毎日食べ、毎日寝なければ、健康な肉体は維持できません。魂についてもそれと同じであります。どんなにパウロの説教がよくても、日々にその感激は薄れていくのであります。信仰者一人ひとりが神様の恵みに留まり続ける事がいかに大切であるかを思わされます。

かつて、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野の生活をしていた時に、天からマナが与えられました。それはたったの1日分だけでした。6日目だけは2日分与えられました。それは安息日に働かなくても良い様にとの神様の配慮でありました。従って、常に新しいマナをいただき、つまり、神の御言葉を聞いた時、その恵みに止まり続けたいものであります。

もう一つ「神の恵みにと留まり続けること」という点から発して注意してほしいことがあります。それは得てして、人は神様の素晴らしさを見ないで人を見る、という所があるという点であります。パウロを通して、神様の素晴らしさを見ている時、いつしか神様ではなくパウロの素晴らしさに変わっている、そういう場合があります。パウロが素晴らしいと思っている時、それはまた大きな間違いをすることがあるのです。人の信仰の素晴らしさを通して神様の素晴らしさ見、人の失敗を通して神様の弱さとしてはいけないのです。
私達が目を向けるべきは、真実な神様だけであり、その方に留まり続け、その神様の恵みを受け続ける事が大変大切なのです。人を見て、神を見ることは、多くの危険を含んでいることを覚えたいものです。人間の功績ではなく、神様の働きに目をとめようではありませんか。

さて、「神の恵みに留まっているように勧めた」パウロでしたが、そのパウロの話を聞こうと次の安息日にも多くの人が集まってきました。44節を見ますと、「殆ど町中の人が神の言葉を聞きに集まって来た」とありますように、
相当な反響が一週間の内に起こったようです。

ところで、その中には、45節のような人達もおりました。即ち「妬みに燃え、パウロの話に反対して、口汚なく罵った」というようなユダヤ人達であります。恐らく安息日に集まった市民の大半は異邦人であったでしょうから、「妬みに燃え……」と言うようなユダヤ人達は、異邦人の救いを容認できず、パウロの説教と盛況ぶりは何とも忌ま忌ましい事と見えたに違い有りません。本来なら、自分達の先祖の神様が崇められているのですから、また、その神様の言葉を聞くために、こうして異邦人までもが殺到して来ているのですから、ユダヤ人達は喜んでも良さそうでありました。

しかし、彼等は民族的、宗教的偏見の為に、かえって「妬みに燃え」た、というのですから、真に情ないこと極まり無いと言えましょう。信仰者は純真ですから、この世では、いつも正しい理論が通るとばかりに思っています。しかし、この世は、大部分妬みと罵りに終始しております。ここでもユダヤ人は福音の本質に反対したのではありません。「妬み」でした。手段は「罵り」でした。口汚なく罵って、相手をやっつようとしたのであります。
人間同志の普通の争いならば、どちらかに勝ち負けがあるでしょう。しかし、福音に対して攻撃しても、福音には負けはありません。福音そのものは、どのように反抗され、攻撃され、邪魔されても、折れるものではありません。否、それどころか、どんなに大きな反抗さえも、かえって福音を押し進めるのに役立つとさえ言ってよいかもしれません。

パウロはずっと後でローマの牢屋に入れられることになりますが、しかし、その彼はピリピの人に宛てた手紙の1:12でこう言うのであります。
「さて、兄弟達、私の身に起こったことが、かえって福音を前進させる事になったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員とその他のすべての人にも明らかになり、また兄弟達の多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信が与えられ、恐れる事なく、ますます大胆に神様の言葉を語るようになりました。」と書いているのです。

イスカリオテのユダの裏切りは、イエス・キリストが殺される事へと進展した事を考えれば非常に悪い事でした。しかし、神様はそれを良い事へと変えて下さいました。ユダの裏切りによってイエス様は十字架に掛けられる事になりましたが、私達にとってそれは、私達の罪の贖いとなられたのでした。
神様の恵みの世界においては、悪いことをも良いことへと恵みに変えて下さる神様の強いお働きがあるのは、私達にとって何と幸いなことでしょうか。
46節において、パウロとバルナバははっきりとこう宣言しました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠の命に相応しくないものと決めました。」そして「見なさい。私達はこれから異邦人の方へ向かいます。」(46)とです。

今までにも、異邦人は僅かですが救われていました。
しかし、ことここに至りましては、心をかたくなに閉ざしたユダヤ人たちによって、福音は異邦人に向かって、大々的に宣べ伝えられる方向へと進み始めたのであります。そして、異邦人が続々と信じ始めました。つまり、神様は一方の扉が閉ざされた時、別の窓を明けて下さいました。それも神様のご計画でありました。

Tコリント10章13節で、パウロはこう書いています。
「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなた方を耐える事ができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ耐える事の出来る様に、試練と共に脱出の道も備えて下さいます。」とそうパウロ自身が言っていますように、困難の中にも、新しい道を神様は備えて下さり、進むべき道を示して下さったのでありました。

裁き給う神の義が、逆にまた、哀れみに満ちた救いへと変えて下さるのであります。ユダヤ人が罵り、荒れ狂う間に、異邦人はキリストに捕らえられ、神様をほめたたえる様にされたのでありました。こうして、ピシデヤのアンテオケに主の教会ができました。お分かりのように、これは使徒達の努力や意志によったのではなく、ただ神様がして下さった業でありました。まさに尊いのは育てられる神様ということができましょう。

人間の思いを越えて、自然の法則を支配し、それを越えることの出来る神様が働かれ、異邦人を救いへとまさに救いの窓を広げて下さったのであります。そしてそれは今も続いているのです。人を救うその力と、その選びとは神様ご自身が決定されます。ですから、その様な決定を越えて人間がどうこうする事は出来ないのです。

しかしユダヤ人達は自分達の選民意識によってこれを固定化してしまいました。自分達の考える方法でなら救われる、とでありました。しかし、神様にはその様な基準はありません。神様は出エジプト33:19 でこう言われました。「…主の名であなたの前に宣言しよう。私は恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」とであります。

従ってユダヤ人達の邪魔は、神様の前にはどれほどの力も影響も与えるはずも在りませんでした。彼等の邪魔によってパウロは「これからは異邦人の方へ向かいます」と宣言します。これはまた彼の気ままな独断ではなく聖書に従った決定である事をイザヤ書49:6を引用して、神様の命令を明らかにしております。即ち、「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」とであります。

ところで、復活の主イエス様は、マタイ28章で、「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じておられた事を私達は思い出すことができます。そしてその命令をパウロも、あるいはバルナバも、多分知っていたと思うのですが、今回のユダヤ人達の「妬みや、反対、あるいは罵りに対して怯んだり、恐れたりすることなく」、アンテオケが駄目ならイコニオムへと次の町に足を延ばすのであります。

それはまた、「あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19 )との復活の主が言われた言葉を私たちは思い起こすことになるのであります。そして主のしもべは、苦難と屈辱を回避することなく、全ての人にイエス・キリストを宣べ伝えなければならない命令が与えられている事を現在の私たちも、もう一度新たにされるのであります。

パウロ達は、神様に導かれて、他の町の異邦人へと行きましたが、しかし、ここに不思議な神様の定めがありました。それは、ローマ11:11,12 でパウロはこう言っております。「では尋ねましょう。彼等が躓いたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼等の違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルに妬みを起こさせるためです。もし、彼等の違反が世界の富となり、彼等の失敗が異邦人の富となるなら、彼等の完成は、それ以上のどんなにか素晴らしいものをもたらすことでしょう。」とであります。

真に神様のなさることは不思議です。ユダヤ人達の心の堅くなさが、異邦人に対する光となって行くのです。ステパノが石で打たれた時(7:54)やパウロとバルナバが迫害される時(13:52 )にさえ聖霊が働いてくださるのであります。否、パウロは、私達がどう祈ってよいか分からない時でさえ、祈る意志さえあれば、聖霊様が言い様もない深いうめきによって私達の為にとり成してくだいます、とパウロは言っています (ローマ8:26)。
しかし、彼等はそれを拒んでいるのです。その結果、福音がユダヤ人から異邦人へと道が開かれ、パウロとバルナバの働きは、異邦人の光となっていったのでした。今日の私達にとっては何と感謝なことでしょうか。

最後に48節の「永遠の命に定められていた人達」について短く取り上げることに致します。あるクリスチャンは時として、「自分は永遠の命に定められていないのではないか」、そう思うことがあるそうであります。
しかし一体、この問題、「永遠の命に定められているかどうか」を誰が知ることができるでしょうか。このように考える考え方こそ、むしろ「自分自身を永遠の命に相応しくない者としている」そう言えないでしょうか。
その責任は、他の誰でもない。自分自身にあるのだと言う事を覚えなければなりません。これを神様の予定に責任転嫁すべきではありません。「永遠の命に定められていた人達」という言葉を、私達は何か宿命論に解すべきではないのです。永遠の神様は、時間の中におられるのではありません。神様が私達を「永遠の命に定め」ていて下さるのは、永遠の昔の事ではなく、過去も現在も未来もない永遠の今なのであります。ですから私達の方から言えば今、定められている。そう言っても良い訳です。

従って、私達の方からは分からないのですから、自分勝手に自分の将来を定めてしまうべきではありません。神様は、私達がとる態度によって、私達の将来を決めて下さると言ってもよいでしょう。それは勿論、決して私達の取る行動によって神様の決定が左右されるというものではありません。ただ私達は、私達に示されている事柄において、最善を尽くすだけだ、ということであります。
神様が私達の命を永遠に定めていて下るという事は、私たちの側から言いますと、私達が「主を崇め」るとか、「地の果てまでも救いをもたらす」働きを「喜びに満たされて」していることによって確かめられるのです。神様が定めて下さっている事と、私達がしている事とのこの両者は、一つの事柄の両面ということができます。
パウロとバルナバは、ついにピシデヤのアンテオケの町から追い出されてしまいましたが、そして迫害の手が更に彼等の上に伸びていましたが、それでもなお「喜びと聖霊に満たされていた」という事こそ、彼等が堅く「神の恵みに留まり続けていた」証拠ですし、「永遠の命に定められていた」何よりの証拠なのです。私たちが毎日の生活の中でよって立っているものは何か、それが聖書であるのか否か、そしてその聖書の恵みに留まっているのかどうか、確認したいものです。

その事が確認できたなら永遠の命に定められている事をますます確信し、パウロ達が伝えた光を確かに受けており、また、その光を伝える大きな使命が神様から与えられている事を知ってほしいのです。そして私たちもまた異邦人の光としてもっと輝きたいものです。もし、不安をもっておられる方がおられますなら、その方はひたすら神様の約束の言葉を信じて委ねて欲しいと思います。必ずや、心に平安を神様は与えて下さるのですから。

2016年4月24日(日) 「神の側か人の側か」  使徒14:1-7   竹口牧師

先回の所で私達は、パウロがピシデヤのアンテオケに行き、伝道した時の事を見て来ました。そこでは、多くの異邦人が真の神さまを信じました。
ところが、ユダヤ人達はパウロ達に対して妬みに燃え上がり、働きを妨害し、また、町の有力者達を煽動して、パウロ達をその町から追い出すことへと発展したのでした。

従って、13:51 では二人はついに、彼等に対して足のちりを払い落としてイコニオムへと行く事になりました。その時の、彼等の心の状況はどうだったでしょうか。迫害のために、気が弱くなり、伝道意欲を無くし、トボトボトと去って行ったのでしょうか。
いいえ、その様な事は決してありませんでした。彼等は「喜びと聖霊に満たされていた」のでありました。彼らはこれから何度も何度もその様な困難に会います。しかし、伝道する事に挫折はありませんでした。なぜならもう一度言いますが、彼らは「喜びと聖霊に満たされていた」からでした。

今朝はイコニオムでもパウロたちが福音を語った時、人々はそれを聞いて、どの様な選択をして行くかを見てみたいと思うのであります。まずはイコニオムという場所の事から話す事に致します。この前見ましたピシデヤのアンテオケの場所をご存じの方は、そこから東の方約100 km程の所に当るという事ができます。
初めての方は、地中海にありますキプロス島を思い浮かべていただきまして、そこから海を超えて100 Km北に行ったアナトリヤ半島の所と言えば、大体の位置は想像できるかと思います。この町は現在ではコニヤと言われまして、トルコにあります。ここにパウロ達は行き、前と同じ様にユダヤ人会堂に入り、話を始めました。するとユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入ったと1節にはでております。何と言う素晴らしいことでしょうか。

しかしながら、ここに来てまたしても、信じようとしないユダヤ人達が、異邦人達をそそのかして、兄弟達に対して悪意を抱かせるのであります。真に残念なことであります。
ところで、この事実から私達は一つのことに注目させられます。それは、神様の言葉が語られる所には必ず分裂が起こる、という事であります。
前の章を見ていただきますと、13:44 に「神の言葉」を聞きに集まってきた、とありますし、46節に「神の言葉は、まずあなた方に語られなければならなかった」とあり、また48節には、「主の言葉を賛美した」、更には49節に、「主のみ言葉は、この地方全体に広まった」と繰り返し、ルカはこの所で、神の言葉、主の言葉と記して、神のみ言葉が中心であった事を述べているのであります。そしてその結果は、分裂が起こったのでありました。

つまり「救いの言葉」をどの様に受け止めたかによって人々は二分されたという訳です。永遠の命に相応しくない者と永遠の命に定められた者とにです。そして、今回の14章にありますイコニオムにおいても、4節を見ますと、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側に、またある者は、使徒達の側についたのでありました。
「人類はみな兄弟」みんな仲良くありたいと人は誰でも願います。しかし、御言葉が語られた時、それを聞いた者達は、二分したのでした。全員がほとんど自動的に信仰に入ったのではなく、であります。なぜ、そのように分かれたのでしょうか。あるいは、分かれてしまうのでしょうか。
後日、パウロはコリントの人々に、「十字架の言葉は滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と言っております。
(Tコリント1:18) 即ち、神の御言葉が語られ、そしてそれは、滅びに至る人々には愚かとなり、救いに与れる人々には、神の力となるのであります。

同じ御言葉を聞きながら、その御言葉を受けとる側は、はっきりと二つの派に分かれるのです。何とも不思議ではないでしょうか。今、この時にも神様の言葉が私の口を通して語られていますでは皆さんは、それにどの様に反応されておられるでしょうか。必ずどちらかの立場に立っておられるはずです。なぜなら、絶対に真理に対して中立など有り得ないからです。それを認めるか、あるいは退けるかのどちらかであります。パウロは言うのです。「キリストは十字架に架けられ殺された。しかし、キリストは死んだが甦った。この方こそ救い主だ」と。前回、ピシデヤのアンテオケで語りました。そして今またイコニオムでも語ったのであります。それに対して人々は、二つに分かれました。信じる側と、反対する側に、であります。皆さんは、信じる側でしょうか。それとも、反対する側でしょうか。

パウロの書いたコリントの人に当てた第二の手紙6章14節から16節の中の14節、16節の一部を引用しますが、4節「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と闇とに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。そして16節「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう」とあります。ここでもパウロははっきりと絶対の真理の前に分かれることを述べております。繋がりがないのです。

イエス様もこう言っておられます(マタイ6:24)。「あなた方は、神にも仕え、
また富にも仕えるという事はできません。」とです。必ずどちらかを選び、どちらかに仕えるのであります。イエス様は又、嫁と姑が、息子と父親が、娘と母が仲違いするようになるとも言われました。(マタイ10:35-37)。

今までの日常の人間関係の中で何事もなかったその家庭にも、神様に対する姿勢の違いで二分される事も起きてくる。そういうことであります。「和」を大切にする私達日本人には、これは大きな問題となってきます。しかし、事実は御言葉が語る通りであります。「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心の色々な考えや謀りごとを判別する事が出来ます」(ヘブル4:12) とあります様に、神様の言葉が語られる時、そこには、神様の前に隠しおおせるものは何一つなく、従うか、それとも反抗するかに分かれてしまうのです。

ですから、この事は即ち、もしこうした分裂が起こらないとしたなら、それは真実に神様の言葉が語られていないからだ。そういう事さえできるのであります。私たちは一体、どちらの側について生きているのでしょうか。御言葉を聞きながら、真の神様の前に積極的に従おうとしておられないならば、それは中立ではなく、敵対している事を覚えていただきたいのであります。
イエス様はこうも言われました。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしと共に集めない者は散す者です。」と。(マタイ12:30 )何という厳しいお言葉でしょうか。
でもそれは事実なのであります。

第二の注目したい点は、3節の「それでも、二人は長らく滞在し、…」という点と、6節の「二人はそれを知って……」という点の比較であります。3節の「それでも」と新改訳で訳されている言葉は、直訳すれば「そこでとか、それだから」という意味になります。ですから、2節からの繋がりから言いますと、信じようとしないユダヤ人達は、異邦人達をそそのかして、兄弟達に対して悪意を抱かせた。それだから二人は長らく滞在し、……」となるのであります。

これは文の繋がりから言いますと不自然さを感じさせます。なぜなら、困難がある、だからここに留まるのはやめて他へ行こうとなりそうなものだからです。ところが実際はそうではなく、それだからこそ、そこに留まって「主によって大胆に語った。」となるのであります。そして実際、そう彼らはするのです。困難があったからこそ、ますます伝える事の必要を彼らは感じたのでありました。そして、神様はそれを助けて彼等の手にしるしと不思議な業を行わせ、恵みの言葉の証明、正しさを明らかにされたのでありました。その事が3節の終りの方に出ております。

ここで特に注意したいのは、彼らの手にしるしと不思議な業を行なわせる事が目的なのではなく、御言葉の正しさをあきらかにされた、ということこそが大変重要な点なのであります。他方6節の場合、「使徒達を辱めて、石打ちにしようと企てた時、二人はそれを知って、」他の場所へ、つまりルステラとデルベ、およびその付近の地方へと移動してしまうのであります。
一方は長期に渡り滞在し、他方は他の場所へと難を避けて移動した。これは、見方によっては、後者の場合、伝道に対する消極さを感じられる方もおられるかもしれません。前者の場合の勇気は、一体どこに行ったのだ、と思われるでしょうか。

かつて、私がバプテスマを受けたいと考えた時、不安に陥った理由の一つに、迫害が起きた時、私は果してクリスチャンとして正しい行動が出来るだろうかそういう思いが起こった事があったと以前にお話した事があります。もし、私が信仰をもった当初、今回のこの聖書の箇所を知っていたなら、それ程心配する必要はなかったと言えましょう。つまり、この箇所からも分かりますように、神様はその時その時に信仰者を最善の方向へと導いてくださるお方だと分かるからであります。

ある時には留まれ!またある時には進め!とされるのです。そして、この事はつまり、先の事は心配しないで、神様に任せなさいという事でもあります。まさにイエス様のお言葉であります(マタイ6:34)、
「明日の事は明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります」の聖書の言葉の通りであります。

ある人達は、身の危険を感じて去る事は不信仰だと、そう考えられるでしょう。留まって戦う事の方が強い信仰だというように、です。しかし私は信仰の色々な状況を画一的には決められないと思うのです。ここで大切なのは、そこに留まる事が御心ならば、留まらなければなりませんし、御心でなければ、御霊に導かれるままに、そこを去るという事が選択肢としてあっても良いし、また実際有り得ると言う事であります。

旧約聖書のダニエル書の中には、バビロンの王の造った像を拝む様に求められたダニエルの3人の友達が命をかけてはっきりと拒否した例がでています。(ダニエル 3:15-17 )また、エステル記にも、ユダヤ人を救うために、王妃エステルが自分の命をかけてペルシャの王アハシュエロス王に会いに行く場面があります。これらのケースは共に、勇敢に主の道を選び、そして主は彼等の歩みに勝利を与えてくださいました。

これらは、神様は必要な時には、勇気と力をくださった例であります。従って、ここで私達がいつも心掛けなければならないことは、自分の弱さによって、また自分の都合だけを考えて、次の行動の選択をしないということであります。そうではなく、留まるにしても、難を避けるにしても、主の側に立った選択と行動を取るべきであり、また取りたいものであります。

第三番目に注目したい点は、3節にありますパウロたちが行なったしるし、不思議な業と、信仰に入る、入らないとの関係であります。パウロとバルナバは困難の中にも、イコニオムに留まり、大胆に御言葉を語り、しるしと不思議な業を行ないました。ところが、町の人々は、二派に分かれたのでありました。しるしと不思議な業を見れば、誰でもが、その業を見て信じそうなものなのに、事実はそうではありませんでした。

ということは、見ても信じない者は、聞いてもなお信じないという事でしょう。信じる人は、どんなに短い真理を聞かされても、救われるということでしょう。ここに、神様の選びというものを私は感じざるを得ません。ですから、皆さんの中に、何か不思議が起これば信じるとか、何かしるしが与えられたなら信じるとか、その様な思いをお持ちの方がおられますなら、そんな思いはすぐにやめられる事をお勧め致します。

なぜなら不思議な業が、信仰を持つ決定的な意味を持つものではないからです。イコニオムで御言葉が語られました。そして結果は、町が二派に分かれたのです。この場合、煽動する者がいたという事は、大した理由になりません。御言葉の真理を、その人が聞いたかどうかが大切なのです。神様の言葉には力があるからです。イエス様は三日目に墓から甦られて現れられた時トマスに言われました「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」(マタイ20:29 )とです。

さて、第4番目に注目したい点は、どのような人が救われるのかという点です。何時の時代にも御言葉が語られてきました。そこには必ず、従う人と反抗する人がいました。神によって新しく生まれた人と罪に留まる、生まれながらの人とがそこにはありました。時代によっては、迫害と言う厳しい試練の時もありました。しかし、その様な時でもやはり、従い続ける人はいたのです。

ここで少し心配な点が出てきます。
私達のキリスト者生活に関する自分の考えが聖書の教える教えと根本的に間違っていたと、審きの日に分かったら、何と言う恐ろしいことだろうかという点であります。イエス様は言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私達はあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を沢山行なったではありませんか。』とであります。しかし、その時、わたしは彼等にこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」と。(マタイ7:21-23 )

これは、イエス様を主と告白する事を禁じておられるのではありません。(ローマ 10:9-10 )。口先の告白や単なる知識は、主の求めてはおられるところではないという事です。悪魔、サタンでも神様がどの様な方かをよく知っています。(マルコ1:24, ヤコブ2:19)。
また「主よ、主よ」と呼ぶ熱心さが、自動的に神との正しい関係を保証してもいません。あるいは、「主よ、主よ」という繰り返し自体に力があるのでもありません。しかしもっと深刻なのは、キリストの名において預言や悪霊追放、奇蹟までも行いながら退けられる人々です。主の名において「しるしと不思議」をしていても、神の側に立っていないという事態がありえるからです。

主の名をかってに語り、利用する者は、人を惑わす偽善者ですから、当然厳しい裁きに遭います。勿論、パウロやバルナバの行なったしるしと不思議な業は、3節にありますように、主が行わせて下さったから出来たのであります。パウロやバルナバに対して起こった反対者達は、自分達が間違っているなどとは少しも考えていません。むしろ、パウロやバルナバの方こそ、間違っていると考え、石打にしようと計ったのであります。ここにその恐ろしさがあるのです。

では一体、今回のような場合、私たちはどの様に見分ければよいのでしょうか。5節を見ていただきますと、「異邦人とユダヤ人が彼等の指導者達と一緒になって……」とあります。つまり、真の神様を信じているユダヤ人が真の神様を信じていない異邦人と一緒になって使徒達に立ち向かっている、ここに問題があります。彼等のこの様な行動こそ、御言葉に正しく従っていない、と分かってくるのであります。そして、私たちもまた御言葉に正しく従っているだろうかと改めて問われてくるのであります。

願わくは、御言葉に正しく、そして忠実に従える様に神様に願いたいものであります。私たちは、自らの罪深さと弱さを持っています。ですから、心砕かれて絶えず悔い改めさせていただきながら、謙遜に神様の側に立たせていただかねばなりません。御言葉は私たちを判別します。迫害は大なり小なり必ずあります。見えるものによらず、見えない神様にこそしっかりと目を向けて一歩一歩確実な歩みをさせていただきたいものです。


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