導入
イスラエル人を奴隷とし、あらゆるものを神として崇拝し、唯一の生ける真の神様を拒絶し続けたファラ オとエジプトを、神様は今までいろいろな形で裁いて来られましたが、今回はイナゴで裁かれます。今回も、神様はファラオの硬い心の罪と悪を裁かれます。
本題
モーセとアロンは主の言葉を受けて、ファラオの宮殿に行きました。
そして「いつまで神の前にへりくだらないのか、身を低くするのを拒むのか。」と核心を突いた質問をファラオに向けました。ファラオは以前、罪を告白し、神に従うと約束し神への頑なさを悔い改め、神の民を解放すると誓ったことがありました。しかし、その裁きが過ぎ去ると、すぐに告白と約束を忘れ、神から離れ、以前よりさらに頑固になり、神に対して屈服しない者となっていました。
そしてモーセとアロンは、いつも通り神の民を解放させ、主に仕えさせよと神の要求を伝えました。
そしていつも通り、もしそれを拒むなら、明日その裁きを下すと、ファラオとその民に悔い改め、神様に従う機会を与えました。
八番目の裁きが下されれば、イナゴは地の全面を覆い、雹の害を免れたわずかな植物を食い尽くし、王宮から、家臣の家、エジプトのすべての家にまで満ち溢れ、エジプトの歴史上最もひどいイナゴの被害をもたらすと警告されました。
王の家臣たちは、このままではエジプトが滅びるので、イスラエル人を解放し、イスラエルの人々の神を礼拝させるよう王に進言しました。
するとファラオはモーセとアロンを呼び戻させ、民を解放し、主を礼拝させることを約束しましたが、誰が行くのかを尋ねました。
モーセが、すべての民とすべての家畜が主の祭りのために行くと答えると、王は、「私がお前たち家族全員を行かせると思っているのか、お前たちの悪だくみは見え透いている。壮年の男だけが行って、主を礼拝すれば、お前たちが求めている目的は、それで十分達するだろう」と、壮年の男子だけが行くことを許すという妥協案を示しました。そして怒りながら、神の使者モーセたちを自分の前から追い出しました。
ファラオの悔い改めない姿勢を見て、エジプトの上に手を伸ばすよう、神様はモーセに命じられました。そして、イナゴが地を覆い、雹の害で残されたすべてのものを食い尽くすようにせよと命じられました。神の使いモーセは主に従い、杖を地の上に伸ばしました。すると裁きのしるしの東風はその地の上に吹きましたが、裁きはすぐに下りませんでした、エジプト人はまだ悔い改める時間を与えられていたのです。しかし、これが彼らが悔い改めなければならない最後の夜でした。もし彼らが悪い行いを悔い改めず、神様に向きなおらなれば、裁きは翌朝に下されることになります。
そして次の朝、イナゴが来て、裁きが下されました。
絶望の中、ファラオはモーセとアロンを急いで呼び寄せました。ファラオは主と使者モーセとアロンに対して罪を犯したと告白しました。そして「もう一度だけ」と赦しを求め、主が死に至る裁きを取り除いてくれるよう祈りを求めました。
モーセはファラオの宮殿から出て、主、大いなる救い主に祈り求めました。主のみがイナゴの災いを止めることができるお方です。主は東風を西風に変え、イナゴを葦の海に一匹残らず追いやってしまいました。
十の災いを通じて明確に示される事実の一つは、神様は全ての主権者であるということです。神様は全宇宙、自然、そしてすべての出来事を支配しておられます。
主は私たちの贖い主です。主だけが、私たちが受けるべき懲罰と裁きから救い出すことができます。そして、私たちが祈り、求めるなら、主はそのようにされます。
主はファラオの心を硬くされました。これは、心を頑なにするままにさせたとも言えます。すなわち、神はその心を人間の性質の赴くままに任せたのです。神様はファラオの拒絶が彼の心をますます硬くさせることをなりゆきのままに許されたのです。
その結果、彼の心は岩のように硬くなり、偶像崇拝と民を虐待することを悔い改めることについて拒み続けました。そして、神のご支配の中でファラオの心が硬くなったのです。
結論
この恐ろしいイナゴの災いが訪れた時も、自然に起こった出来事ではなく、神様が正義を行われた出来事でした。神様はファラオの罪深さと高慢を裁かれたのです。神の民イスラエルの人々を解放することで自らをへりくだらせず、神様への反抗を続けたら、最後には神様が彼をへりくだらせます。どちらにするか、その選択は彼が決めることでした。謙遜か、屈辱かです。
第一ペテロ5章5節から6節に「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」と記されています。これは、私たちにも投げかけられています。今日の3節の「いつまでわたしの前に身を低くするのをこばむのか」は「いつまであなたはわたしに対してへりくだらないのですか?」と神様がファラオに投げかけたものです。他の表現もできます。「いつまであなたは罪深い生活を続けるのですか?いつまであなたは自分自身と愛する人々を滅びへと向かわせ続けるのですか?いつまであなたは悔い改めの日を先延ばしにするのですか?」と語られています。
ファラオは決して自分を低くしませんでした。彼は頑固な罪人であったため、へりくだる気持ちも力もありませんでした。しかし、彼の頑なな心さえも、全てをご支配される神様の主権的なご計画の一部でした。出エジプト記10章は「【主】はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。」という言葉で始まりました。そのように、出エジプト記を読んでくる中で、私たちは災いが神様のご計画の中で行われたことを見てきました。神様は災いを次々にファラオとエジプトにもたらすためにファラオの心を頑なにされたのです。最初から、神様は一つの災いではなく、十の災いを送ることをお考えになっていました。ファラオの心をかたくなにすることは、そのためでした。ファラオの心が硬くなになればなるほど、神様はエジプトにさらに災いを送り、自分自身に栄光をもたらされました。
それはつまり、エジプトで奇跡的なしるしを数多く行うためだったのです。ではなぜこれらの奇跡的なしるしを行ったのでしょうか?その答えは2節に記されています。「また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。」と神様はモーセに言われました。つまり神様がエジプト人に災いを送った理由は、イスラエルの人々が自分たちのこれらの奇跡を子孫に語り伝え、子孫が真の神様を知るためでした。
この物語は、子どもたちが喜ぶ他の多くの物語よりも興味深いはずです。出エジプトの物語全体が、壮大な冒険になっています。様々な材料が揃っています。悪い独裁者や、おやっと、言うような意外な英雄、スリルのある対立や大胆な救出劇、イスラエルの喜ばしい勝利や奇跡に満ちたハッピーエンドです。これはすべて、イスラエル人が子孫に伝えるための神様の偉大な目的の一部でした。
イスラエル人が神様を知るための大きな目的を持っていたのです。「私がこれをしているのは、あなたがたが子孫に語り伝えるためであり、あなたがたが私が主であることを知るためだ」と神様はおっしゃったのです。イスラエルの主なる神様は、すべての上に働く力と栄光の神様です。イスラエルの人々は神様の栄光のためにエジプトから救出され、救われ礼拝する民となったのです。神様の計画は、すべてのイスラエル人がエジプトからの脱出を語り伝えることで神様に栄光を帰すことでした。イスラエルの子どもたちが神様を自分たちの主であり救い主として知ることでした。エジプトからの脱出の歴史は、彼らの信仰を育てたのです。
私たちにも、子どもたちや孫たちに伝えるべき物語があります。それは、私たちの救いのモーセであるイエス・キリストによるいわば出エジプト物語です。イエス様は、私たちの罪のエジプト、罪の奴隷の状態から私たちを導き出されました。これは歴史上実際に起こったイエス様の本当の物語です。イエス様の処女降誕、つまり聖霊によってマリヤからお生まれになったこと、イエス様の模範を示されたご生涯、私たちの罪を担って十字架上で死なれたこと、そして死に打ち勝ち復活されたこと。全て感謝です。何という素晴らしい物語でしょう!これは、すべての子どもたちが本当に知るべきことです。私たちは神の民です。罪と苦悩に満ちた人生から救い出されたのは、キリストと共に天国の栄光の宮で生きるためです。神様は愛の神様です。そして、私たちは、キリストに仕えて生きることで神様に栄光を帰するためこの世に遣わされているのです。
この出エジプトの物語は、教えてくれています。周りの人々に伝えること以上に私たちの重要な任務はありません。それは家庭から始まります。親は、子供たちにみことばの真理を教える義務があります。子供たちは、教会で聖書の物語を学ぶだけでなく、家庭でも学ぶべきです。親が子供たちにみことばを教えることは、他に比べようもない宝物を手渡すことです。子どもたちの人生をつくり上げる聖書の物語を伝えることで、子どもたちは救いの遺産を受け継いでいるのです。
周りの人々や、次の世代へと福音を伝えてまいりましょう。