9/13 Ⅰヨハネ5:6-12「イエス様のうちにあるいのち」

序

イエス様がどのようなお方でしょうか。歴史上の偉人や宗教家の一人として捉えている人がいれば、預言者や教師の一人と見たり、あるいはもっと一般的な一人の人物と見なしている人もいるかも知れません。私が子どもの頃に読んでいた歴史の偉人をまとめた本の中では、イエス様がアインシュタインやリンカーン、仏陀と並んで紹介されていました。イエス・キリストという名前自体は世界中に知れ渡っていますが、イエス様を神の子としてみんなが受け入れているわけではありません。

本論

前回の聖書箇所では、神様の愛と神様に対する信仰の結びつき、そしてそれらによって得られる世に対する勝利について見てまいりました。私たちに与えられた「互いに愛し合いなさい」という教えは、私たちにとって難しく感じることもありますが、しかし私たちはイエス様を通して注がれた愛によって、イエス様を信じる信仰によって、愛を行うものとされます。罪と闇に満ちたこの世において、私たちは神様の愛を表し、行い、光の中を歩む神様の子どもとして生きていきます。イエス様が十字架の上で勝ち取った勝利が私たちにも与えられ、この世での信仰生活の中でも勝利を得続けることができることを神様が約束してくださいました。御子イエス・キリストが宥めのささげものとされた事実がその証しであり、私たちの確信となることを教えられました。

世に打ち勝つ信仰は、イエス様が神の子であることを信じることです。イエス様が預言者や教師ではなく御子として来られた根拠として、ヨハネは水と血によって来られた方と表現しています。水はイエス様の洗礼を指していて、血はイエス様の十字架の死を指しています。当時教会の中で伝えられた偽りの教えは、彼らは、イエス様がバプテスマのヨハネの洗礼を通して聖霊に満たされ、そこからキリストとしての働きを始めたことは信じていましたが、イエス様がキリストであったのは洗礼から十字架の死までの間だけであり、十字架の死の前にその性質は失ったと教えていました。つまり、イエス様が水によって来られたことは信じていたものの、血によって来られたことは信じておらず、イエス様はただの人間として十字架の上で死なれたと考えていました。

ヨハネがこの手紙においてずっと強調してきたポイントは、イエス様が神であるというご性質です。イエス様は神様でありながら、人としてこの世にこられ、神と人のご性質を持って救い主としての働きを十字架によって果たしたということです。イエス様の神様としてのご性質を認めていなかった偽りの教師たちに対して、ヨハネはイエス様こそキリストであり、神と人の両方の性質を持ち合わせたお方として手紙で証し続けてきました。イエス様が水によるだけでなく、十字架で血を流されたことによってその働きが完成したことが大切だと語ります。もし神の御子が人となって、人々の罪を背負われなかったら、神様と人の和解は実現しません。罪を背負い、身代わりとなることができるのは神様の御業だけです。神であり人であられるお方として十字架の上で血を流されたために、贖いは成し遂げられました。福音の中心となるこのイエス様の救いを、ヨハネは水と血によって来られたという言葉によって表明しました。

イエス様が神の御子であることを信じる者は、イエス様が水と血によって来られた方であると信じる者であるという点を明らかにした上で、ヨハネはさらに御霊という要素を加えます。ヨハネの福音書や手紙の中で、真理の御霊という表現が何度も登場します。御霊の重要な役割は、イエス様に関する証しすることにあります。そしてこの証しをする御霊ご自身が真理であり、そこには偽りがないことも語られています。イエス様が神の御子であるという真理は、私たちのうちに住んでいて、助け主として働きかける御霊によって明らかにされ、信じる者はすべてこの御霊によって信仰を確信されていくのです。この御霊を含めた三つによってイエス様についての証しが語られるのです。

1John 5:7  三つのものが証しをします。

1John 5:8  御霊と水と血です。この三つは一致しています。

旧約、新約聖書において、重要な事柄は二人または三人の証人を立てる必要があり、彼らの証言によって決定されてきました。ここでも、イエス様の証しについて御霊と水と血という三人の証人が挙げられています。イエス様は洗礼を受けた際、父なる神様から愛する御子であると宣言されました。また十字架の上で血潮を流して贖いの死を成し遂げられたことによって「この方は本当に神の子であった」と認められました。そして聖霊なる神様の働きによって救い主イエス様の真理が明らかに証しされます。この三つが一致して神の子としてのイエス様を示しているのです。

この証言という観点はさらに広がります。

1John 5:9  私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

1John 5:10  神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。

先ほども触れましたように、聖書の律法によれば、一人の証言では有効な証言とはみなされませんが、二、三人の証人を立てて証言してもらえたら正当性が認められていました。人からの証言であっても二、三人によって信じることができるのであれば、それよりもはるかに偉大な証言を信じることは当然できるのだと断言されます。福音書の中には、イエス様が神の御子であるという神様からの明確な宣言が二度記されています。イエス様の洗礼の場面と、変貌山でモーセとエリアと語り合った場面です。もし誰かが自分自身を神の子だと一生懸命に主張しても、本人の言葉だけでは信用は出来ません。しかし神様ご自身がイエス様を御子であると証言し、さらには水と血によって証しされ、御霊によって今も私たちの心のうちに証しをしてくださっているのであれば、これ以上ない確かな証言になるのです。10節の証しされたという言葉は、原文のギリシャ語で見てみますと完了形という形になっています。ギリシャ語の完了形は永続性の意味合いを持つので、この箇所では神様が証しされた証言が今日まで生きていることを示していることが分かります。歴史の中でイエス様が世に来られ、水と血において御子であることが証しされ、今もなおその証しが御霊によって証言され続けているのです。

神様ご自身によってイエス様は神の御子であることがこのようにして証しされた今、この証言をどのように受け取るかが私たちに問われています。これらの証しが私たちに示されているのは、イエス・キリストに対する信仰を生み出す目的があるからです。これらの証しを信じて受け入れるかどうかが信仰の分かれ道となるのです。ここでの信じるという言葉は、頭の中で知識的に知るということではなく、自分自身を委ねて任せ、信頼することを意味します。

一方でこの証しを信じない人々のことも対比されて語られています。「神様を偽り者としている」という表現は大げさに思えるかも知れませんが、神様への信仰は、イエス様がキリストであるという証しを受け入れなければ成り立ちません。この手紙が書かれた当時の教会にいた偽りの教師たちは、神様を信じていてもイエス様をキリストと認めていませんでした。父なる神様を通して、真理の御霊によって証しされた神の御子であられるイエス様以外に私たちが救われる道はなく、父子聖霊の結びつきによって私たちは唯一いのちの道を歩むことができるのです。

ヨハネはこの証しについて11節でこのようにまとめています。

1John 5:11  その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

これまでは、肉となってこの世に来られたイエス様の御姿と水と血によって来られたイエス様の御業について見てきました。それらを踏まえた上でここではイエス様を通して私たちに与えられた御恵みに関する神様の証しが強調されています。それは、御子なるイエス様のうちにある永遠のいのちが私たちに与えられるという約束でした。私たちに示された証しは、ただ神様とイエス様が父と子の関係にあるというだけでなく、その関係を通して神様は私たちに永遠のいのちを与えてくださるということです。私たちが永遠のいのちを与えられたのは、2000年前にイエス様が十字架の上で罪を贖ってくださったからです。イエス様の十字架による贖いは過去の出来事にとどまらず、現在も御子イエス様のうちにあります。イエス様を信じる信仰こそ、この永遠のいのちを得るカギになり、神様からの賜物なのです。

最後の12節でヨハネは「御子を持つ者」とそうでない者を区別しています。御子を持つということは、福音書や手紙の中で何度も記されている御子にとどまることを意味します。イエス様にとどまるというのは、イエス様に対する継続的な従順さを意味しますがそれだけでなく、イエス様が私たちのうちにおられ、自分のうちに宿ることです。ぶどうの木と枝がつながるとき、木の表面の皮だけつながっていても意味はありませんし、木から十分な栄養を枝が受け取ることが出来ません。枝がぶどうの木から栄養を得るには、木にしっかりととどまる必要があります。神様は、私たちがイエス様にとどまる時、イエス様も私たちのうちにとどまってくださると語られました。御子を持つということは、永遠のいのちであられるイエス様と互いにとどまり、深く結びつくことによっていのちを持つことになります。

イエス様の信仰の土台はあかしです。イエス様が神の御子であること、そして御子のうちにいのちがあることが証しの内容です。それは、水と血と御霊によって私たちに示されています。この証しを受け入れるかどうか問われる時、御子を持つことによっていのちの道を歩むことになるのです。神様はイエス様の信仰以外には永遠のいのちを持つことは出来ないとはっきり語られます。

結

私たちはこのお方によって、罪によるさばきから赦され、死からいのちへと移ることができます。世の中には様々な分野で活躍されている方や、大きな影響を与える権力者、富や力を持つ方がたくさんおられます。しかし私たちにいのちを与え、愛に生きる道を示してくださるのはイエス様のみです。私たちの生活を豊かにしたり、幸せを与えてくれるような物や人もいますが、イエス様以外には真のいのちの道はありません。人となって来られたイエス様が十字架の上で贖いの死を成し遂げられたことによって、私たちは罪という束縛から解放されて、神様と一緒に永遠に生きることができます。神様は、私たちがこのお方を持ち、共に歩むことを願っています。罪に沈み、ほろびに至る道ではなく、時間が経つといずれ消えてしまう形あるものでもなく、私たちが本当の意味で愛に満たされる道がイエス様のうちにあります。イエス様が示してくださったいのちを共に持って生きていきましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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