序
私たちはこれまでヨハネの手紙を読み進めてきて、手紙の第一が今日で最後になります。ヨハネを通して私たちに語られた御言葉は、私たちがこの世において神様の信仰を守るために様々な方向から宣べ伝えられました。神様とイエス様、そして聖霊を通して私たちが罪から救われたこと、神様から計り知れない愛が注がれていること、その愛を互いになすこと、世の偽りの教えに惑わされることがないようにイエス様にとどまること等、神様に救われた信仰者としての歩みについて教えられました。
これらの御言葉を経て、神様は私たちに救いの確信を持つように教えて手紙を締めくくります。福音を聞いて神様を信じると告白した時は、その心に喜びや平安が満たされますが、信仰の歩みを進めていく中で、時にはその救いの喜びが薄れ、心が迷い、平安が失われることを経験することがあります。救いを信じて歩み出した時には燃えていたけれども、色んなことがあって心が沈み、悩み、神様の救いが当初よりも確信が持てなくなることもあります。そのように彷徨い、平安がない私たちに神様ははっきりと永遠のいのちの約束を示し、御子イエス・キリストにこそ確かな救いがあると語ります。本日の聖書箇所を通して、神様が語る救いの確信を共に見ていきましょう。
本論
ヨハネは手紙の他に福音書も書き記しました。ヨハネの福音書が書き記された目的は「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」と書かれています。それに対してヨハネの手紙が書き記された目的は13節でこのように語られています。
1John 5:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。
福音書はイエス様を信じるための入り口であるとすれば、ヨハネの手紙はイエス様を信じた後に歩み続けている人たちのために与えられたといえます。クリスチャンが信仰によって知らされるのは、信じる者たちはすでに永遠のいのちを持っているという事実です。どちらもイエス様を神の子と信じて永遠のいのちを持つことを目的としていますが、手紙の方はイエス様への信仰を揺るがす世の勢力を想定し、そのような力から信じている人たちを守り、励まし、確信を強めるために御言葉が届けられています。
この手紙が書かれた当時の信仰者たちは、偽りの教師と教えによって、自分たちの確信が揺るがされていました。ここであなたがたと呼びかけているのは、イエス・キリストという御名を受け入れ、初めから聞いていた教えにとどまり、自分自身を委ねて任せる人たちのことです。永遠のいのちを持ち、救いに与っているのは、偽りの教師たちではなくイエス様を御子と信じているあなたがたの方であることを疑うことなく知ってもらいたいという願いがここにあるのです。手紙の冒頭でヨハネは「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」と語りましたが、永遠のいのちを確信することが私たちの喜びの基盤となります。
永遠のいのちに対する確信について、ヨハネはまずクリスチャンと神さまとの関係についての確信、特に祈りにおける確信について私たちに教えています。
1John 5:14 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
1John 5:15 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
14,15節の原文のギリシャ語を見てみますと、「そして」と意味する接続詞が両方とも存在し、13節との明確なつながりを持っていることが分かります。14節の頭を原文に忠実に訳してみますと「そしてこれが確信です」という表現で始まっていて、私たちに示される確信が強調されつつ祈りとのつながりを明らかにしています。祈りが聞かれ、応えられる確信が私たちに与えられるのです。
祈りにおける確信は3:21-23でも見られました。3章の方では神様の命令に従うことによって神様に喜ばれることを行う信仰に関連して祈りが語られました。それに対してこの箇所では、永遠のいのちに関連して祈りが聞かれることが強調されています。祈りが聞かれるという大胆な宣言がなされる前提に「神のみこころにしたがって願うなら」とあります。ここでまず示されているのは、祈りは自分勝手な欲望を満たす手段ではないということです。確かに神さまは私たちに、いかなる時も祈るようにと勧めますが、人間側の要求が都合よく叶うご利益宗教として祈りが聞かれるのではなく、神様のみこころがなされる中でその祈りが応えられることを教えています。個人の願望を押し通すのではなく、神様のみこころに合致した祈りがささげられる時、何事も聞かれるのです。
みこころにしたがう願いは、真理の御霊によって導かれます。
Rom. 8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
Rom. 8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
私たちが祈る心を神様のみこころに合わせようとする時に、イエス様がゲッセマネでささげられた祈りのように聖霊が私たちの祈りを導き、助けてくださいます。私たちの祈りが神様のみこころにしたがう祈りとされたならば、その祈りを神様が聞いてくださることに確信します。祈りが聞かれることを確信できるからこそ、神様が祈りに応えてくださることにも確信できるのです。
私たちの祈りの確信が語られた後、具体的な祈りの例として罪を犯した兄弟の為の祈りへと掘り下げられます。ここでヨハネは、死に至る罪と死に至らない罪と二つの罪を並べています。この二つの罪について今日の箇所では具体的な内容は記されていませんが、これまでの聖書箇所から考えるとイエス様を神の御子として信じ、受け入れるかどうかが大きなカギとなります。この手紙が書き記された背景には、神の御子イエス様を拒み、イエス様の贖いの御業を否定する偽りの教師と教えの存在があるように、イエス様の信仰を意図的に拒み、全く受け入れない者たちについての罪の死がここで考えられています。ここでの罪の死というのは、霊的な死を意味します。
まず語られている「死に至らない罪」について、神様に祈りによって求めることを命じられています。私たちは自分の罪についてだけでなく、兄弟の罪についてもまたとりなしの祈りをすることが必要です。そして14,15節で語られたように、そのような祈りは神様に聞かれ、とりなしが受け入れられ、神様のみこころによっていのちが与えられると約束されます。神様は、罪を犯したが悔い改めたクリスチャンたちに対して、約束された永遠のいのちを与えます。自身の罪を悔い改める祈りも重要ですが、兄弟をとりなすための祈りもまた教会の交わりの重要な部分を成しています。イエス様を信じた後も罪によって道に迷ったり神様から遠ざかろうとする兄弟を立ち直らせる助けがこの交わりの中で与えられるのです。いのちの源である神様がその願い求めを聞いて下さり、応答してくださいます。
もう一つの区分である「死に至る罪」について、願うようには言いませんと消極的に語られています。祈りは聖霊によって神様のみこころにしたがって願う中で聞かれます。
しかし祈ることをここで禁じているわけではありません。原文のギリシャ語においても願うことについて勧められてはいませんが、禁じられているわけでもありません。神様が私たちの祈りを聞かれるのは、御心に従った時においてです。そして、誰が永遠のいのちを得ることができるか、救いを拒んでいのちを得ることが出来ないかは私たちに明らかにされておらず、神様だけがご存じです。「死に至る罪」に対しての消極的なこの表現は、私たちが祈り求めたとおりに誰しもが救われるのではなく、救いにおいても神様のみこころに従った祈りであれば応えられるということを示しています。私たちは誰が「死に至る罪」にいるか、判断したり裁いて決めつけることは出来ません。私たちは御心によって救いがなされるようにお委ねしつつ、兄弟のために絶えず互いに祈り求めることが必要なのです。
祈りにおいて信仰の確信が語られた後、この手紙は最後の結びへと移ります。この結論においても、イエス様を信じる者たちが救われる確信を得るために、三つの恵みのポイントを通して、クリスチャンがいのちを得る特権を見ています。「私たちは知っています」という表現は、手紙を書いているヨハネも共に救いの事実を思い起こすように一つ一つ確認しています。
一つ目は、神から生まれた者である私たちは世の罪と分離されていることです。罪は世に存在し、満ち溢れていますが、神の子どもたちは罪から解放されています。その理由は、「神から生まれた方」であるイエス様が守っていてくださるからです。イエス様は地上におられた頃、父なる神様が与えてくださった方をすべて守り抜くことを約束されました。また、彼らをこの世から連れ去るようにではなく、悪者たちから彼らを守るようにとイエス様は祈られました。クリスチャンはイエス様の十字架の贖いによって罪が赦されたことを信じ、悪者であるサタンの支配から解放されて生きる道を進むのです。3:8に通り、悪魔のわざを打ち破るために、神の御子は現れました。私たちは他でもないイエス様によって罪の中に生きることなく、罪の支配から守られるのです。
二つ目は、私たちが世ではなく神様に属する者であることです。18節では神から生まれた者と悪い者の対比が描かれていました。そして私たちと呼びかけられているように、イエス様を信じる者たちは世の罪から離れ、悪の支配下にはもはや身を置かないのです。神の子として神様が与えてくださるいのちの約束を受ける特権があるのです。そして18節でみたように、神に属する者であるならば悪の手が触れることもないのです。
三つ目は、私たちは真実な方である神様を知る理解力をイエス様からいただいているということです。神の御子は悪い者の支配下にある世を救うために来られました。世の罪の中にいた私たちに、神様はイエス様を通して真実なる方がどなたであるかを教えたのです。歴史の中で表されたイエス様の救いのわざは、現在においても働き続けています。そして私たちは父なる神様を知ることができます。イエス様を通して神様を見上げ、神様の中に生きていくことが赦された私たちはもはや悪の中にいることはありません。真実な方はただ一人父なる神様だけです。そして永遠のいのちの源も父なる神様です。その神様から離れて偶像礼拝に進むことは罪であると警告もされています。私たちは信仰によっていのちを得ていますが、この世においては真実なりお方から私たちを遠ざけようとする力が働きます。私たちは神様の救いを意図的に拒み、これらの偶像礼拝に進んだり、御子イエス様を受け入れないのならば救いの道を歩むことは出来ません。しかし、御子イエス様を信じる者は、御子によっていのちを確かに得ることが約束されています。イエス様によって私たちは贖われ、神様との交わりに生き、いのちの道へと進むことで、私たちは世の罪から完全に離れていくのです。
結
私たちはこの世に身をおくとき、信仰を持っていても揺るがされたり、偽りの教えによっていのちを得ているという事実が失われるように思います。しかし、他でもないイエス様が、私たちのために十字架にかかられた贖いのわざは決して覆ることはありません。ヨハネは最後の20節で御子イエス・キリストこそまことの神であり、永遠のいのちであることを明らかにしています。手紙の最後において、父なる神様と子なるイエス様が同一であり、このお方によって私たちのいのちが確約されていることが示されました。私たちはイエス様にとどまり続ける限り、神様との交わりに生きる恵みを損なうことがないのです。このお方のうちにあって、永遠のいのちを得られる恵みに感謝していきたいと思います。私たちはすでに救われており、そしてその事実をすでに知っています。私たちに揺るがない救いの道を与えてくださったイエス様を見上げながら、罪から離れ、光の道を進んで行きましょう。


