キリストの復活シリ−ズ2 (2006年4月30日) 
よみがえられたキリストとエマオ村の2人の弟子
 
「わたしたちの心が燃えたではないか」(ルカ24:1-35)

「そこでふたりは話し合った。道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちのこころは内に燃えたではないか」
(ルカ24:7)


イエス様の復活の出来事をしばらく連続して学んで行きます。今日の箇所は深い失意の中でエルサレムの都を離れ、生まれ故郷に帰ろうとした二人の弟子たちとよみがえられたイエス様との出会いの物語です。

1 クレオパのつまずき

「 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」(24)
エマオ村出身のクレオパともう一人の弟子(妻ではなかったかと推測されています)は、エルサレムで起きた一連の出来事にショックを受け、「つまずいて」しまい、失意のうちに故郷に戻ろうと重い足取りで歩いていました。

一体彼らが何につまずいたかといえば「イエス様の十字架」につまずいてしまったのです。神様の最大の恵みである「イエス様の十字架」につまずくなんて!と今の私たちから見れば驚きかもしれませんが、「現世的な救世主・メシアとして大きな期待をかけていた」弟子たちにとって、メシアであるはずのイエス様の無残な十字架の死は最大のつまずきとなってしまいました。信仰者であってもは神様からの最大の恵み、最大の贈り物にさえ当初は大きくつまずいてしまうという弱さをもっていることを心にとめておきましょう。

クレオパともう一人のお弟子は「このかたこそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました」と、イエス様に対する期待が非常に大きかったことを告白しています。ですから期待が大きかった分、自分たちの思い通りに行かなかった場合に、その反動としての失望も人一倍大きかったと思われます。

期待が大きいことは悪いことではありません。しかし人間的な期待の強さはしばしば、相手にプレッシャ−をかけたり、思うようにならなかったときに大きな失望感やときには怒りさえ引き起こす場合もすくなくありません。もし期待を寄せるとするならば、「大きな期待」よりはむしろ「継続的な期待」のほうが有益といえるでしょう。たとえばお母さんが子供に対して多少の失敗やあやまちがあっても「大丈夫、あなたならできると信じてるわ、お母さんはいつでもあなたを誇りにしてるわ」とかわらずに励ますことができたなら子供はどれほど勇気づけられるかわかりません。「あなたに期待してるんだからね。御父さんみたいになちゃだめだから。しっかりしてよ。もうあなたがたよりなんだから」こんな親の押し付けの期待は、こどもにとってはありがた迷惑以外のなにものでもありません。

そして本当に大切なことは人間的な「大きな期待」ではなく、イエスキリストを信じる「信仰の真実さ」にあると思います。イエス様は「イスラエルを贖うことがおできになる唯一のお方」であると信じ、十字架の死を超えた先に復活のみわざが待っていることを信じることです。信仰は失望に変わる期待とは異なります。真実な信仰は愛と同様、信じ続けることができるのです。そしてイエス様は決して信じる者を空しい失望の中に置き去りにはなさらないおかたであることをいよいよ深く知るようになるのです。
ローマ10: 11 「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

2 イエス様とわからなかったクレオパ

よみがえられたイエス様は十字架につまづいてしまった二人の弟子たちを決して見捨てられませんでした。失意の中を歩む者をそのまま置き去りにはされませんでした。イエス様みずから彼らと出会ってくださり、道々語り合い、求めに応じて家庭を訪ね、食事を共にし、何よりも「みことば」を説き明かしてくださいました。このようなイエス様の愛の中でじつは私たちの信仰というものは支えられ守られてきていることを忘れてはならないと思います。

不思議なことに、この二人の弟子はイエス様と一緒にエルサレムからエマオまで約11キロ近く歩きました。イエス様をお客様として自宅にまで迎え、ゆっくり顔をあわせて食事をしながら、それでも向き合っている相手が「イエス様」だとわからなかったのです。なぜでしょう。

ある注解者は夕日が強く照らしていたのでまぶしくてイエス様の顔が見えなかった、家の中でも燭台の灯りが暗かったのでイエス様の顔が判別できなかったと合理的に解釈し解説していますが、すこし無理があると思います。

第1に、失意の中にあると「ありのままの姿」が見えなくなることが起こりえます。
気持ちが暗く落ち込んでしまっていたり、もうアップアップの状態の時や、集中力を失っているような場合に、見ているようで何も見ていない、聞いているようで何も聞いていない、覚えているようで何も思い出せないというようなことがしばしば起きます。
「イエス様は死んでしまった」と強く悲しみ失望し、復活などありえないと「信じ込んでしまっている」彼らには、その思い込みの強さのゆえにありのままの事実が事実として認識できなかったのではないでしょうか。

他にも、「万事が無意味に終ってしまった」と嘆く彼らの会話はすべてが「過去形」になっていることにも着目しましょう。失意の中にあると未来を語ることができなくなるのです。先の見通しや希望に満ちた将来像を描くことができなくなります。何をしても「無意味」という一種のしらけ感に支配され前向きなエネルギ−が生まれてこないのです。さらに失意やつまずきの中にあると、「孤立」します。エルサレムに留まっていた弟子たちから2人は離れ、故郷に帰ろうとしました。交わりを失い孤立することは、失意をさらに深め、励ましを受ける機会を自ら放棄することと等しいといえます。一人でいると「自分の考え」にますます凝り固まり、時には勝手な思い込みや決めつけで物事を見るようになり、悪循環のスパイラルに巻き込まれてしまうことにもなりかねません。

第2に、復活されたイエス様の御姿が普段、弟子たちが慣れ親しんだ姿とは異なっていたからだと考えることができます。この世界に天よりくだり人となって地上を歩まれた神の御子をナザレのイエスとして直接肉眼で見ることや、直接その話しを聞くことや、その体に触ることも可能でした。しかしよみがえられたイエス様は新しいからだ、栄光の体を得ておられますから、心の目が開かれないとイエス様だとわからないということが起こりえるのです。肉眼で神を見ることができないからです。

心の目が開かれるとは、祈りの中でよみがえられたイエス様と出会うということを意味しています。御言葉が読まれ、御言葉が語られ、御言葉が説き明かされ、御言葉が聴かれ、さらに神の御霊である聖霊が豊かにお働きになるところで、よみがえられたイエスキリストとの出会い、交わりが生起すると私は信じております。

大切なことはあくまで「みことばが開かれる」ことです。みことばなくしてイエス様との出会いはありません。あるとすればイエス様からの特別な例外的ともいえる働きかけか、妄想ないしは神秘主義に陥っているといっても過言では二と思います。今日の箇所でも、よみがえられたイエス様はクレオパに奇蹟を見せられたわけではありません。繰り返し繰り返し彼らの心の目が開かれるまで「聖書を説き明かしてくださった」のでした。御言葉が開かれると真理を悟り、神様との霊的な出会いを経験し、復活されたイエス様の臨在に触れてゆくことができるのです。みことばと聖霊が働くところでイエス様は出会ってくださる、これが神様との出会いの原則です。

3 イエス様の導き

復活されたイエス様と出合った2人の身に何が起こったでしょうか。

彼らは「こころが燃え」そして大急ぎで仲間のもとに帰り「失われた交わりを回復」しました。変化が現れたのです。心が燃えるとはどのような経験なのでしょう。パウロは心が燃えることの大切さを以下のように語っています。
 ローマ 12: 11「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」
 2テモ   1: 6  「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与え       られた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

聖書はこのように「心が燃える」という霊的な刷新状態が存在することを教えています。それは人間的な熱心さや宗教的な活動力とは異なります。「霊に燃えている」人と「活動的な人」とは決して同じではありません。活動が外側の働きを意味するならば霊に燃えるとは内的な充実・生命力を指しています。外側の働きには終わりのときがありますが、内的ないのちは決して燃え尽きてしまうことがありません。なぜならば、聖霊の供給が絶えることがないからです。

さらに霊に燃えている人は他の人をも燃やすことができます。あの人といると「元気づけられる」「落ち込んでいてもいつしか明るい気持ち、前向きな気持ちになれる」「人間的な思惑や計算ではなく、いつも信仰をあの人の生き方の中に感じる」、そんな思いが相手に自然にわいてくるのです。このように霊に燃えている人は「神の恵み」を周囲の人々に「伝導」してゆくことができます。よみがえられたキリストは私たちの心をいつも熱く燃え立たせて下さるのです。

今から20数年前の宇治教会の開拓時代に、60歳を過ぎて救われたひとりの婦人が生まれて初めて自転車に乗れるように一生懸命練習をはじめまました。思うように自転車を操縦できず、あるときには頭から用水路に落ちてしまい、びしょびしゃに濡れたまま教会に来られました。彼女がそこまでされたのは、教会に集って、開拓教会の御手伝いをしたいという強い思いからでした。まさに「霊に燃えて」おられたのです。今年で90歳近くになられますが、その霊は消えかかるところか静かにますます燃え続けておられます。

「こころが燃える」経験をしたクレオパはすぐさま仲間が待つエルサレムに引き返しました。御言葉と聖霊のお働きの中で「心が燃える」経験をする者は、決して交わりから離れ孤立することはありません。御霊はかならず愛の交わりを築き、高め、豊かにし、そして完成にまで導くからです。

「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、
    あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

霊に燃え、主に仕え、主の体である教会の交わりを深めてゆきましょう。

    

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