復活のキリストと出合った弟子たち (5)
2006年5月28日 「主にある働きは空しくならない」 ヨハネ21:1-14
「イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」 (ヨハネ21:6) |
エルサレムでの過ぎ越しの祭りに期間が終った後、お弟子たちは生まれ故郷のガリラヤに戻りました。大都会エルサレムで弟子たちが経験した過ぎ越しの祭りの最中に起きた一連の出来事は異常なまでの混乱と緊張を彼らに強いました。しかしのどかなガリラヤに戻ってくると全てが夢・幻のようなはかなさ空しさが心を包みました。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネそしてマタイら船に乗り込んでガリラヤ湖で漁を始めました。夜通し仕事をしても労苦の甲斐も無く1匹の魚も獲れませんでした。特別な興奮も無く、大都会のような刺激も無く、目をみはるような成功ばかりが続くわけでもなく、むしろうまくいかない日のほうが多い平凡な日々。それが私たちが生きている現実場面です。そんな平凡な日々のただ中で、よみがえられたイエス様は再び弟子たちに出会われました。
1 復活のキリストと出会う場は日常生活の只中
元漁師であった弟子たちにとって、ガリラヤ湖で漁をすることは特別な場所での特別な出来事ではありませんでした。ごくごく普通の平凡な生活の延長上の出来事でした。この世の宗教は神との出会いを経験するために何か特別な演出を行うかもしれません。しかしイエス様は平凡な生活の場の中で出会って下さいます。神様と出会うために特別な場所、特別なことことを必要としません。まぜならば、私たちがイエス様に会いに行くのではなくイエス様が私たちの元を訪ねてくださり出会って下さるからです。
2 「網を右に降ろしなさい」−−イエス様の言葉に従うこと。
特別な場所は必要ありませんが、一つの出会いの道ははっきりしています。それは主の言葉に従うことです。プロの漁師が1晩かけて網を降ろしながら何の収獲も無かったわけですから、今日は水温が低いのか、潮の流れが合わないのか、こんな日はもう網を引き上げ港に帰るしかありません。その時、岸部に立たれたイエス様は「網を右に降ろしなさい」と声をかけました。「素人さんに何がわかるものか」と無視もできたかもしれませんが、彼らは従いました。するとおびただしい数の魚が網に入ったのです。ペテロが後に数えてみると153匹の魚が網の中に入っていました。イエス様の言葉に従ったら、大逆転が起きた。成功を得るために神様に従ったのではありません。イエス様の言葉に無条件で従った時に、イエス様がご用意された答えが備えられていたのです。
かつてイエス様に始めてガリラヤ湖で出会った時にも、彼らは魚が取れませんでした。その時イエス様は「沖へ漕ぎ出し網を降ろしなさい」と命じました。このときも彼らは従い同様に大量の魚を得るという経験をしました。沖へ漕ぎ出す経験も船の右に網を再び降ろす経験も根底は同じです。人間的な考えや判断や経験が「困難である」「不可能である」「意味が無い」「時間と労力の無駄」と訴えても、主のみ言葉を聞いたならば無条件で従うことです。一度の経験で私たちは霊的なレッスンをマスタ−できるわけではありません。大切なことをイエス様は繰り返し愛するお弟子たちに学ばせてくださいます。私たちが「ア−メン」と告白するまで。復活されたイエス様がガリラヤでもう一度弟子たちとの関係を新たに作り直すにあたって最初に学んで欲しいと願ったことは「主のことばに従う」という信仰の原点でした。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」
(ロ−マ10:17)
3 網は破れなかった
イエス様に従ったとき、なんと153匹もの魚で網は一杯でした。ここで大切なことは魚の数の多さではありません。本来ならばこれほどの魚が入ったならば網が破れてしまうはずなのに網が破れなかったことに眼目があります。網が破れたらそれまでの働きがまったく無駄になってしまいます。たとえ153匹の魚が入ったとしても網が破れていたらそこから魚はみな逃げてしまいます。網が破れなかった――それは主にある働きが決して無に帰し無駄に終ることはないとのイエス様の約束のことばです。
主にある働きは数を喜び、数を誇ることではありません。働きが破れてしまわないことにあります。永続的に働きを継続してゆくことではないでしょうか。
肉のわざには破れが伴うことを聖書ははっきり教えています。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」詩篇127:1
さて、網についてマタイ13:47では「天国は海に下ろしてあらゆる種類の魚を囲いいれる網のようなものです」と解説されています。網は終末における神の国そして教会を現しています。主にある働き、神様と教会に仕える働きは、み言葉に従い続ける限り決して破れることはないのです。
「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
(1コリント15:58)
4 さあ、朝の食事をしなさい
主に仕えた者をイエス様はねぎらってくださいます。弟子たちが岸に着くとイエス様みずからが炭火で魚を焼き、パンを用意してくださり、「さあ、朝の食事をしなさい」と振舞って下さいました。その時、彼らはよみがえられたイエス様がここで出会ってくださっていることがわかったのです。この食事はイエス様が用意してくださる食卓-聖餐を現していると歴代の教会は理解してきました。昔から聖餐式を「パンとぶどう酒」ではなく「パンと魚」で象徴することも多く、そのような図案が残されているとのことです。
教会は主の聖餐を重んじてきました。宗教改革者は「聖餐がみ言葉に従い正しく執行されていることを健全で福音的な教会のしるし」と強調したほどです。復活して今も生きておられるイエス様からパンと魚を与えられ養われる喜び、主の食卓を囲む幸いを世々の教会は受け継いできたのでした。
聖餐のよろこびは主にあって神様に仕えた者たちへの豊かな慰めでもあるといえます。次週の聖餐式を新しい感謝の想いで迎えましょう。
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