2010年度説教 1月10日 新年礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ(3)


題「失敗からまなぶ」

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11:24−27)

2010年を迎え、今年1年間の日々の信仰と生活が豊かに祝福されますようにとお祈りします。

さて、今年は「信仰の高嶺をめざして」というシリ−ズ名で、みことばを学んでゆきたいと思います。先週はまずアブラハムの信仰を学びましたが、今週はモ−セから学びましょう。

モ−セが生まれた時代には、エジプト国内においてイスラエル人は急激に人口が増加したため脅威を感じたエジプト国王はイスラエル人を奴隷として酷使し、さらに生まれてきた男子の赤子をみな殺しにせよとの命令をくだしました。イスラエルの民の中には嘆きと悲しみが満ちました。そんな時代にモ−セは誕生しました。兄の名はアロン、姉の名はミリアム。王の命令に逆らい両親は3ヶ月間モ−セを育てましたが、ついにこれ以上隠すことができなくなり、パピルスで編んだかごに入れてナイル川の岸辺に浮かべました。すると、川下ではエジプト国王の娘が水浴びをしており、かごの中の赤子を見つけ、我が子として育てる決心をしました。こうしてモ−セはエジプトの王族の一員として王宮で裕福な日々を過ごし、当時世界最高と言われた学問を学び、世界最強と呼ばれたエジプト軍を率いる軍事能力を身につけた若者としてたくましく成長しました。モ−セは「ことばにもわざにも力ある者となった」(使徒7:22)のでした。

そんなモ−セに転機が訪れたのは40才の時でした。エジプト人ではなくヘブル人でありイスラエル民族の一人であるという自分の出生を知ったモ−セは、信仰のゆえに、エジプト王女の子としてではなく、奴隷として苦難の道を歩む同胞イスラエル民族の一人として生きる決心をし、王宮を去りました。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(ヘブル11:24−25)

ある時、奴隷を容赦なく鞭打つエジプトの監督者を見てモ−セは激しい怒りを覚え、彼をうち殺し、その遺体を砂の中に隠しました。ところがモ−セの過激な行為は仲間にさえ受け入れてもらえず、むしろ非難されました。殺人事件はやがて王の知るところとなり、モ−セは殺人罪と死体遺棄罪をおかした犯罪者、エジプト国家への反逆者として追われる身になったのでした。

モ−セはなすすべもなく遠いミデアンの荒野に逃亡するしかありませんでした。彼はこの荒野で羊飼いの仕事をしながら、やがて神様が燃える柴の中から「モ−セよ」と呼びかけてくださるまでの40年の長い歳月を過ごすこととなりました。独りよがりの正義感では何もすることができませんでした。結局は罪を犯すしかなかったのです。

この出来事はモ−セの若い時代の大きな失敗でしたが彼の人生に大きな意味をもたらしました。

人生に失敗はつきものです。あなたも今まできっと多くの失敗を重ねながら歩いてこられたのではないでしょうか。失敗が失敗で終わってしまう者と多くの失敗を最大の成功へと変えてゆく者とが存在します。その違いは失敗から何を学び取ったかにかかっています。

「失敗そのものが失敗ではない。失敗したということは果敢に挑戦したことを意味する」

「失敗をしたということは、何もしなかったという最大の失敗をしなかったことを意味する」

「失敗をしたことはそこから何かを学んだことを意味する。最大の失敗とは失敗から何も学ばなかったことである」

ポジティブシンキング(肯定的な可能性思考)に立って、失敗を再出発のチャンスと肯定的にとらえ直すアメリカの経営学者のことばを少し引用しました。わたしも失敗の多い落ち込みやすい人間ですから、このようなことばをノ−トに書いて心の励ましにしています。自分なりのことばで否定的なことがらを肯定的に定義し直すことができるならば、心の健康状態を高める効果があることが「認知行動療法」という実践心理学の分野では実証されています。

何か失敗したり挫折したとき、神様を信じる前の私は「運が悪かった。運がなかった。だからあきらめようあるいは今度はうまくやろう」と考えるのが常でした。しかし、私はクリスチャンになったときに「試練と摂理」という聖書的なことばを学ぶことができました。

人間的な失敗や挫折を神様は「試練」ということばに置き換えてくださるのです。試練とはその苦悩を通して神様がより良い成長へ導いてくださることを意味します。失敗が失敗で終わってしまうのではなく、失敗を通して神様の深いご計画と愛の中に導かれ豊かな人間的な成長を遂げてゆくことを意味します。試練を中核に据えながら最善へとみこころのままに導かれる神様の取り扱いのプロセスを「摂理」といいます。つまり試練と摂理の根底には「神の愛」が貫いているのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」
(ロマ8:28)

愛に満ちた神様はわざわざ失敗や敗北や挫折へ追い込むことはなさいませんが、神様は愛する者たちが成長するためには、しばしば必要な涙を経験し、必要な痛みを経験し、必要な苦悩を経験することを許容されます。その痛みや涙を通して真実な悔い改めに導き、悔い改めた者を成長させ、新しい出発へと導かれるのです。先週、私たちは「信仰によって」(ヘブル11:8−9)というクリスチャンの行動基準を学びました。今週、私たちは「試練の時に学ぶ」という価値基準を学びましょう。モ−セは若き日の失敗と挫折を通して、何を学んだのでしょうか。

第1に、モ−セは「時を待つ」ことを学びました。

「モ−セよ」と神様からモ−セに呼びかけてくださる時がついに来ました。モ−セはこの時を40年間待たなければなりませんでした。

「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出3:9−10)

しかも、まずモ−セに対して神様は聖なる場所において「靴をぬぐ」ことを学ばせました。「神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出3:5)「靴を脱ぐ」それは彼が異国の地で忘れかけていたまことの神様への畏敬の念、信仰と礼拝をいきいきと回復することを意味しています。祈りの習慣や礼拝の姿勢を正しく回復することなくして神様のみこころに生きることはできません。モ−セは神様のご奉仕に用いられるにあたって、彼自身の信仰を整えられる必要がありました。

第2に、モ−セは「人を待つ」ことを学びました。

かつてモ−セは単独で行動して失敗しました。ひとりよがりの正義感で行動した結果は失敗と挫折だけでした。単独行動には限界があります。大きな仕事であればあるほどチ−ムの力が必要になります。イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から救い出すために、神様はモ−セのかたわらに兄のアロン、姉のミリアム、そして「ヨシュア」や「カレブ」といった若い後継者たちを配剤されたのでした。神様の備えられた「時と人を待つ」ことなくしてみわざは進みません。

第3に、モ−セは「柔和さ」を学びました、

「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数12:3)

口語訳では「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と「柔和」と訳されています。謙遜・柔和がモ−セの特質として明記されています。若い日、エジプトの王朝文化と教育さらに軍事訓練を受けたモ−セが柔和で謙遜であったかどうかは不明です。しかし40年に渡る荒野での羊飼いの生活を通して、モ−セのパ−ソナリティが謙遜と柔和に変えられたことは明らかです。王女の息子として王宮の生活で身に付いた高慢と権威主義は、神のしもべとしてふさわしい謙遜と柔和さに変えられたのでした。

エジプト人やイスラエル人の前では、王女の息子、王位を継承する権利を持つ者、冨や権力を有する者、最高水準の知識や語学力や指導力をもつ者という肩書きは立派に通用したことでしょう。しかしミデアンの荒地に住む「羊」たちの前では何の意味も価値もありませんでした。

羊飼いに求められることは「羊をよく知る」ことでした。羊を養い育て導くには、羊のペ−スを知り、羊のペ−スにあわせ、決して急がせたり焦らせたり脅したりしてはなりません。モ−セがエジプトから導き出したイスラエルの民は、奴隷の生活を前日まで送っていた人々でした。良くも悪くも奴隷生活に慣れ親しんでいた人々であり主体性が損なわれていました。ですから、困難があるたびに、「エジプトの生活のほうがまだましだった」と文句を言い不満をもらしました。

彼らはモ−セが若い日に接したエジプト軍の兵士たちのような訓練を受けた集団ではありませんから、上官の命令に絶対服従するという規律性等を身につけていませんでした。400数年、リ−ダ−も指導者もない奴隷生活を送っていましたからしかたないことでした。エジプトから脱出したその日から、指導者に反抗しさらには神にも背く不従順さを見せ始めました。

もし若き日のモ−セであったら怒りの感情を爆発させ、即座に彼らを叱責し、命令にしたがわない者を排除し、エジプト人を殺してしまったような暴力行為さえ行ったかもしれません。しかし今やモ−セは不従順な神の民に対して忍耐の限りを尽くしました。イスラエルの民が金の子牛を造って偶像を拝んだような時でさえ、モ−セは彼らが神の怒りを受けて滅びないように執り成しの祈りをささげ「私の名をいのちの書から消してくださってもかまいません」(出32:31−32)と祈ったほどでした。

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」   (詩篇106:23)

柔和さ・謙遜さ・忍耐これらは神の民の指導者として求められる最も重要な資質でした。家庭や教会は企業組織や軍隊組織とは異なり、人と人とのネットワ−ク、愛と信頼の絆の中で人が結びあっています。家庭や教会といったあなたのみじかなそして大切な人間関係世界で、求められる資質は「愛」「柔和」「謙遜さ」「神への従順さ」「献身」「感謝」といった人的な資質です。これらは御霊によって結ばれる実であり、試練のなかでさらに豊かに結ばれます。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22−23)

失敗や挫折という厳しい試練を通して、神様は神のしもべとしての資質を豊かに結んでくださるのです。
冬の厳しさを越えて春の草花が芽を出し花を咲かせるように。
モ−セのように。

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。




   

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