2010年度説教 2月7日 主日礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ(5)
題「取るべき地はなお多い」
「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)
1.神の民の勝利と敗北
ヨシュアに引きいられたイスラエルはヨルダン川を渡り、最大の難敵と思われたエリコの城を落とし、さらに進軍しました。彼らの戦いには大きな特徴がありました。神に信頼し神に聴き従った時は勝利し、人間的な力に頼って神に不従順になった時は敗北を喫したことです。
一例として、エリコの城を落とした勢いにのって、彼らはアイの城を攻撃しました。たいした城ではないと見くびって3000人の兵を送り出せばそれで十分たやすく落とせるとヨシュアは判断しましたが、手痛い反撃にあい、36名者もの有能な部下や若者を失いヨシュアは深く悔いたことでしょう。そして、神の戦いの原則を肝に銘じたことと思います。
「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリア4:6)
さらに、軍の規律に乱れが生じた時にもイスラエル軍は敗北を喫しました。敵をうち破って得た宝物をかすめ取ることは禁止され、金銀青銅と鉄の器だけは神の倉にすべて奉納されましたが、アカンという兵がこっそり敵から奪ったぶんどり品(7:21)を隠し持っていました。そのためにイスラエル軍は敗北してしまいました。神のものは神のものとして聖別するべきであり、この原則に対する罪を犯したアカンは断罪されました。この教訓は後にイエス様によって弟子たちにも教えられました。
「そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
聖書の原則はシンプルです。主に従うときには平安・喜び・勝利があることを心に留めましょう。
2. 取るべき地はなお多い
ヨシュアは年老いても戦いをやめることが許されませんでした。ある時、神様は年老いたヨシュアに語りかけました。
「主は彼に仰せられた。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)
カナンの全地をすべて治めることがヨシュアに託された使命でした。結果的にヨシュアは生涯をかけて戦い、ついにカナンの7部族、31人の王(12:24)をうち倒して勝利を治めたことが記録されています。
普通ならば「あなたは年を重ね、老人になった。お疲れさまでした。あとはご隠居の身で余生をのんびりとすごしてください」とねぎらいの言葉が神様からあってもしかるべきところですが、ヨシュアに対して神様は「まだ取るべき地は多い」と働きの継続を求めたのでした。
1).神様への奉仕に生きるクリスチャン生活は「生涯現役」です。
クリスチャンライフに「引退」「ご隠居身分」はないのです。奉仕の仕方や奉仕ができる領域は年齢とともに変化してゆきますが、神様にお仕えする生活に「ご隠居」や「定年退職」などは存在しません。
ペンテコステの日に聖霊が注がれた時、何が起きたでしょうか。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』(使徒2:17)
年老いたヨシュアは、まだまだ取るべき地が目の前に広がっていると大いなる「夢を見」続けたのです。信仰が息づいているかぎり、聖霊の満たしがあるかぎり、神様のために大きな夢を見、神様からなおも使命を託され、神様にお仕えすることができるのです。このようにクリスチャンはこの地上で最後の息を引き取る瞬間までは生涯現役、奉仕続投の人生を歩むことが託されているのです。小泉首相が国会議員を引退しても朝青竜が横綱を引退しても、あなたは奉仕の人生を引退してはなりません。日野原先生は100才を超えた今も情熱をもって走り回っているではありませんか。
夢を見、幻を見、神様の栄光のためにお役に立ちたいと願う人々には、活力がみなぎります。自分にしかできない仕事や使命やライフワ−クを持つ人は不思議なことに頭も気持ちも体も活気が満ちています。そして考え方や人生のとらえ方が前向き志向という特徴がみられます。
ヨシュアの友でありヨシュアを助けた同労者にカレブがいました。85才のカレブはヨシュアに積極的に申し出ました。
「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、今日でもう八五才になります。しかもモ−セが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うこtができましょう。」それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。」(ヨシュア14:10−13)
85才になってもカレブはなお前向きに新しい地を「私に与えてください」と意気盛んに訴えているのです。主の御心に生きることを願う者には年齢を超えたいのちの力が、生き生きと豊かに働くのです。
2.年をとってもなお夢をもって神様に仕えることができることは幸せなことと思います。
夢をもって生きること、神様に仕えることは、決してひとりで達成できるものではありません。周囲の仲間や友とともに祈りあい語り合い励まし合いながら生きることを意味します。年をとってもするべき仕事があり共に奉仕できる仲間や友がいる、こんな幸せな人生がどこにあるでしょうか。
何もすることがない、誰からも必要とされていない、自分がもう社会にお役に立てることは何もない、あとは家族に迷惑をかけずひとりひっそり生きてゆくだけというのはあまりにさみしい姿ではないでしょうか。現代版の姥捨て山、おじ捨て山が心の中に存在しているとしたら悲劇だと思います。
先日、NHKで「無縁死問題」が取り上げられ報道されていました。自殺者が12年連続3万人を越えるという世界でもまれな危機的状況を抱え、自殺予防対策法も制定されました。ところが、一方では、都会の片隅で身よりもないまま一人でひっそり死んでゆく多くの人々の数も年間3万人以上に達しているというのです。彼らは人とのつながりを失ったまま、名前さえ周囲の人々から忘れられたまま、孤独な死を迎えた人々です。地域社会の絆をもう一度、回復する必要性が提唱されていましたが、私もその通りだと思います。教会にはそのような潜在的な大きな力があり、その役割を果たしうると信じています。
天国へ帰られた晩年の伊東さん夫妻や武田さんの生涯を見ていると、私は教会の交わりに加えられ、教会の仲間を信仰の家族として共に生き、生涯、神様にお仕えしてゆく生活はほんとうに幸せな人生だなとつくづく思います。そこには信仰の絆に生きる喜びが満ちているからです。
「取るべき地はなお多い」「この町には私の民が多くいる」「全世界の出て行って福音を野場伝えなさい」、年をとっても福音の宣教のために祈りと献金をもって仕え、「イエス様のからだである教会堂を建てあげたい」と最後までこころを熱く燃やされていました。
ヨシュアは万軍の主のことばに聴きしたがい、「取るべき地はまだ多い」と110才(24:29)の生涯を、神への奉仕に生き抜きました。私たちは、救い主イエス様のみこころに従い、生涯、主イエス様の弟子として、福音の宣教のために、神の国の到来のために「主よ、私を使ってください」と、仕える人生を歩みたいと願います。
ヨシュアは110才の生涯を次のことばをもって締めくくりました。
「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。
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