2014年度 主日礼拝
2014年1月5日
題「しかしそれでも、黙して神を待ち望む」
新年、おめでとうございます。神様の豊かなめぐみの中を健やかに歩まれる日々でありますように心からお祈り申し上げます。
1.
黙って神を待ち望む
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」
イスラエルの偉大な王ダビデは1-2と5-6節で同じことばを繰り返して、神を賛美しています。強調されたこの1句がまさにダビデ王の信仰の基本(核心)だったからではないでしょうか。ダビデ王が神様を待ち望む理由は「救い」も「希望」も神様から来るからでした。ダビデ王にとって神様のみが磐石な岩、救い、櫓でした。しかも、盤石な岩の上に建てられた強固な櫓ですから、救いは決して揺らぐことはないと告白しています。
ダビデ王といえども彼の生涯を振り返れば、苦難と試練の連続でした。日本語で、「ただ」(1,5節)、「こそ」(2,6節)と訳されているへブル語を、宗教改革者・聖書学者のカルヴァンは「しかしそれでも」と訳しました。私はこの訳の方がふさわしく思います。否定しがたい厳しい現実がそこには存在しています。「しかし、それでも私は神を待ち望む」という力強い響きが伝わってくるからです。
詩篇62篇の背景には、ダビデ王が実の息子アブシャロムに王位を奪われ、エルサレムから逃げ出し、ユダの荒野に隠れるという悲しいできごとがあったのであろうと言われています。実の息子に王位を剥奪され、王宮を追放され、命までも狙われるという、家庭の悲劇・親子の断絶・晩年の最後の苦しみがそこにはあったのでした。
その中で、それにもかかわらず、しかしそれでも、ダビデ王は「恐れる心に、嘆く心に、恨む心に、怒る心に対して、我が魂よ、黙せよ、靜れ、それでもただ神だけを待ち望め」と、自らに語りかけていたのでした。自分で自分の心を静めることができる自制心は、王たる者にふさわしい特性でした。ダビデ王は多くの苦難を経験しつつ、信仰によって魂が、王にふさわしく整えられていたのです。
ある英語訳聖書の中では、「私の魂は神を待ち望む」という叙述表現ではなく、「私の魂よ、待ち望め」と自らの魂への呼びかけの命令文として表現されていました。My soul , wait thou only upon God 私はこの英語訳の方が強くこころに響きました。皆さんはいかがでしょうか。
私たちは、思いもよらない出来ごとに会うたびに、「なぜ、どうして」と原因や理由を求めようとします。そして、納得がいかなければつぶやきます。いらだちもします。なんとかしようと悪あがきもします。それでも簡単に答えを見出すことができません。やがて御旨がどこにあるか静かに祈りの中に求めることがもっともふさわしいことであると気づき、理解していくのです。それゆえ、信仰とは不安や焦りや苦悩のさなかで、しかしそれでも、ただ神様に信頼し、静かに御旨に身をゆだねおく姿といえるのではないでしょうか。
かつて預言者イザヤは、南ユダ王国がアッスリアの大軍に包囲された時、恐れと恐怖で戸惑う王と民に向かって「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と励ましました。しかし、王は人間的な頼みを求めて、エジプトのファラオ王に救いを求めて同盟を結んでしまいました。その結果、北イスラエル王国に続いて南ユダ王国への裁きと滅亡が決定的になったのでした。信仰は「しかし、それでもなお神を待ち望む」と私たちを導きますが、この世の知恵は「だからこそ、賢く有利に同盟を結ぶべきである」と私たちを誘惑します。
詩篇46篇は神殿の聖歌隊によって歌われた「神による救出の賛美」として有名です。その中で神への信頼が美しく表現されています。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。 セラ 」 (詩篇46:1-3)「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩篇46:10)口語訳聖書では、「静まって、私こそ神であることを知れ」と訳されている有名な言葉です。
目に見える状況がどれほど厳しく困難であっても、「しかし、それでもなお、私は神様のみを仰ぐ、いかなる偶像にもより頼まない。そこにまことの救いと希望があるからだ」と、ダビデは揺るぐことなく確信しています。
2. 待ち望むことは、神のみ前にこころを注ぎ出すことです
待ち望むことは何もしないことではありません。「こころを注ぎ出して祈る」という積極的な態度が求められています。こころを注ぎだしてということばは「空にして」という意味をもっているそうです。そうであれば、空っぽになるまで神様に向かって語りなさい、求めなさい、願いなさいという意味になります。それほど信仰の世界は積極的でありアクティブでありポジティブなのです。
ちなみに、旧約聖書で最も重要な戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申6:5)という言葉です。ここでは、神様に愛されることを求めるよりも神様を愛することが強調されています。同様に隣人から愛されることを求めるよりもまず隣人を愛することが求められています。イエス様自身も「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と教えられました。ご存知でしょうか。人間の呼吸の基本は、息を深く吸い込むことではなく、むしろ息を一度吐き出してしまうことにあります。吸って吐いてではなく、吐いて吸ってです。この順序は体に与えられた神様からの法則であり、幅広く応用ができる法則ではないでしょうか。与える−受ける−さらに豊かに与える−さらに豊かに受けるが信仰者にふさわしい順序と言えます。
キリスト教の祈りの世界は決して受け身ではありません。何もせず棚からボタモチを待ち望むご利益祈祷ではありません。心を注ぎ出して、神に願い求め続ける積極的でアクティブな祈りの世界です。今年の元旦礼拝で私たちは「朝の祈り・・沈黙の中の祈り」を学びました。礼拝堂は「祈りの家」「祈りの座」として聖別されています。神様は静かな沈黙の中で語ってくださいます。一人、神様の前に進み出て、神様と深く交わり、黙して神を待ち望みましょう。まず、祈りましょう。まず祈りの座に座りましょう。騒ぎ立つくちびるとこころに、「黙せよ」と命じましょう。聖霊が私たちを大祭司キリストの前に導かれることを待ち望みましょう。
3.
待ち望みの祈りは傾聴の祈りです
「神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。」(11)
「神はひとたび(一度)語られる」と、あるように、神様はかならず祈りに答えてくださいます。神様は思いつきや場当たり的に何かをおしゃべりするようなお方ではありません。ご自分のことばに責任を持たれます。そして神様のことばは移り変わることがなく永遠です。それゆえ神様は二度繰り返し語る必要はありません。一度で十分なのです。しかし、私たちは二度聞かなければ、神様の御旨を正しく理解できないようです。神様の御旨はしばしば私たちの願いや思いを超えることが多いので、一度聞いただけでは理解できないためです。時には、内容を理解できても、受け入れることができない、あるいはすなおに従えないこともあります。だから、幾度でも聴きなおす必要があります。イエス様でさえ十字架の死を前に、ゲッセマネの園で三度も祈られたではありませんか。
神を待ち望むことは、祈りの中で神の御旨を聴き続けていくプロセスに他なりません。二度三度、四度五度、祈るたびごとに神の御旨にますます近づいていくことができるのです。
二度でも三度でも何度でも、「主よ、お語りください。しもべは聞きます」(第1サムエル3:9)と、若き日のサムエルのように、聴く祈りを学ばせていただきましょう。語ることを少なくし、聴くことを多くする祈りを学ばせていただきましょう。
そのようにして傾聴しつつ聞くことは一つのゴ−ルを目指しています。
ダビデ王は「私の望みは神からくる」(11)とさりげなく語っていますが、実はとても深い意味があります。「神から与えられる望み」と「私が願う私の望み」との間の大きな隔たりが除かれているからです。ダビデ王においては両者が分離ではなく一致しているのです。私の望みはそのまま神の望みですとの一致に達しているのです。
私の望みと神様が望まれる御旨との間に、美しい一致ではなく溝が存在しているのが生まれながらの私たちの現実ではないでしょうか。私がこうしたい、ああしたい、これもしたい、あれもしたいと私の希望を強く抱きながら、私たちは熱心に祈ります。そうです、時にはまるで神様を脅迫しているかのごとく、強く自分の願いという名の要求を突きつけていることさえあります。少しもこころがからっぽではありません。
しかし、心を注ぎだすような祈りはやがて私たちを、「私の望みは神からくる」との告白へと導き入れます。私の望みと神からの望みが一つとなるのです。神からの望みが私の望みとなるのです。それは神様にすべてを渡し切って、主導権が神の手に移った瞬間と言ってもよいでしょう。
新しい祈りの1年が始まります。
黙して、ただ神様だけを待ち望みましょう。
黙して、ただ神様の御旨を繰り返し聴き続ける祈りを深めましょう。
黙して、ただ神様の望みは私の望みですとの告白へ、御霊に導かれるほど、ゆだねましょう。
あなたの祈りがそのように導かれ、「主よ、力だけでなく、めぐみもまたあなたのものです」(詩篇46:12)との告白に至りますように。
そして、あなたの祈りが叶えられ、神様の栄光が現されますように。 ア−メン
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