2014年度 主日礼拝
2014年1月12日
題「福音に仕え、教会に仕え、キリストに仕える」
新年、おめでとうございます。神様の豊かなめぐみの中を健やかに歩まれる日々でありますように心からお祈り申し上げます。
「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」(23)
今日は新年の第3週ですので、私たちが所属する日本バプテスト教会連合(略して連合)のスライドを見ていただきその後、2014年度の連合の主題聖句(コロサイ1:23)から学びたいと願っています。連合には、北は北海道から南は南紀勝浦、東は千葉県、西は兵庫県西明石に至るまで全国に67教会・衛生チャペルが加盟しており、バプテストの精神に立って互いに協力しながら福音の宣教に励んでいます。牧師数79名、信徒数2533名(2013年6月現在)が、地区単位で交流と学びを深めあい、お互いの教会のために祈りあっています。連合の一員としてクリスチャン生活を送り、連合の一牧師として同労の先生方と共に、主にお仕えできることを、私は喜びとし誇りとしています。
では、コロサイ1:23節を中心に学びましょう。
1.福音がもたらす希望を理解する
まず、「福音の望み」という言葉が用いられています。福音とは「良い知らせ」(グッドニュ-ス)という意味です。良い知らせはこの世界に多く存在しています。大学に合格しました。就職が内定しました。今年、結婚します。赤ちゃんがうまれました。主人がついに重役になりましたなどどれも嬉しい良き知らせです。きわめつけは、年末には7億円の宝くじが誰かにあたっていることです。当選者には人生最大の良い知らせとなったことでしょう。けれども7億円が当たったその人がもし、癌の末期状態だったとしたら、どうでしょう。7億円全部つぎ込めば死から100%救われるでしょうか。その保証はどこにもありません。ですから残念ながら、私たちが見聞きするのは「限界付き」の良い知らせと言えます。
真の意味での良き知らせは、神様がイエスキリストにおいて成就してくださった、神様の恵みとしての、「永遠の救い」以外にはありえません。パウロは救いの希望をこのように語っています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
(1:13-14)、
「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(1:19-20)
罪の赦し、神との和解、闇の力からの解放、復活された御子の恵みのご支配に移されていること、さらには受け継ぐべき天の富(神の国と永遠のいのち)が約束されています。これらの救いは、たたとえ7億円を積み上げても得られるものではありません。天の父なる神様からの「贈り物」として受け取ることが許されている、「条件なし」の良い知らせなのです。
2. 福音を信じる信仰に踏みとどまる
23節には、「踏みとどまる(固執する)、堅く立つ、動かない」という三つの動詞が使われています。福音を信じる信仰、キリストを信じる信仰、聖書を信じる信仰に、とどまり続け、固く立ち、動かない、動かされないという「こだわり」「頑固さ」「一途さ」がキリスト者に求められています。
福音を信じる信仰に踏みとどまる霊的な「頑固な力」はどこからくるのでしょうか。23節に秘訣があります。
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」(23)
小アジヤ(現在のトルコ地域)全域に、エペソの町から福音は広まっていきました。そのほかの地域でも、世界中で福音は「実を結びつつ」広がり続けています。私たちもイエス様の福音が、宇治教会が存在する「開町8番地2」を起点に開町全域、宇治市全域、南京都全域に広がっていくことを願ってやみません。福音が実を結びつつ広がるためには、2つのことが求められています。第1に、福音を聞くことです。第2は、福音を理解することです。
福音が世界中に伝えられ実を結ぶためには、福音を「聞くこと」と、福音を「理解する」ことが求められています。福音は聞かなければ信じることができません。ですから福音を聞くためには福音を伝える人の存在が不可欠です。さらに聞いた福音を、理解すればするほど、福音の価値の絶大さに私たちは目が開かれ、どんなすばらしい贈り物を神様からいただいたことかと感謝が溢れ、贈り物を大切にしたいと強く願うようになります。そして、大切な贈り物を誰にも奪われたくないと強く思うことでしょう。「女は弱しされど母は強し」という言葉があります。女性としては力もなく弱いけれど、ひとたび愛するわが子を守るためならば鬼にも夜叉にも、虎にも龍にもなれるほどだそうです。きっと大切なものを大切にしたいという思いがそのような力を与えるからでしょう。
福音を理解する深さによって、私たちにも、「踏みとどまる(固執する)、堅く立つ、動かない」という確かな思いと力が湧き上がってくるといえるのではないでしょうか。踏みとどまるのは私たち自身の意志の強さや信仰の強さ、努力や頑張りといった私たちの「肉の強さ」に基づくものではなく、福音の理解度にあるのです。福音の理解が浅いと、動かされ流され、福音からいつしかずれて行き、この世が与える条件付きの他の福音に移ってしまう危険性も生じます。
生涯かけて、福音の望みの絶大な価値を黙想し、御霊に教えられつつ学び、生活の中でこころゆくまで味わい、いきいきと体験させていただきましょう。
3.福音の宣教に仕える
23節で、パウロは「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです」(26)と自らの使命を語っています。
1章全体を見るとパウロは仕える対象を3つ挙げていることがわかります。「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました」(29)弟子のエパフロテを「忠実な、キリストの仕え人」(7)と紹介していますが、パウロ自身も同様でした。パウロは自らをもっとはっきり「キリストのしもべ」(ピリピ1:1)と自己紹介しています。パウロにとって、キリストに仕えることは福音の宣教に仕えることであり、教会に仕えることでした。「福音に仕え、教会に仕え、主に仕える」、この3つは3位1体のように、しっかり結び合わされ、一元的にパウロの中でひとつに統合されています。パウロはこの3つをバラバラではなく一つのことと自覚していました。こうした信仰のありかたを「一元的信仰」といいます。日曜日だけのクリスチャンで後の6日間は別人、教会だけのクリスチャンで、家庭や職場では別人であっては、イエス様は喜ばれません。神・教会・社会的な仕事や生活がばらばらになってしまうというのではなく、どこにいても何をしていても、呼吸のように自然体で力をいれない、特別に意識しない信仰、それがもっとも望ましいすがたなのです。
「さあ、伝道するぞ、4つの法則を使うぞ、いのちの架橋を用いるぞ、ヨハネ3章16節伝道をするぞ!」(これらは宇治バプテスト教会の弟子訓練コ-スの中に組み入れられ、多くの教会メンバ-が学び終え、自分で使うことができます)と、意気込む必要はありません。むしろ、福音に生きるものとして、生かされている者として、さりげなく語っていることば、意識せず自然に内側からにじみ出てくることば、どこにいてもそのままありのまま自分を通してにじみ出てくるようなことば、思い、行い、それが相手のこころに響き、伝わっていくのです。
伝道説教のなかにではなく、日常会話の中に「主はともにおられる」のです。日常生活の場こそが、教会以上に、福音がひとりひとりに宣教される場なのだと私は思います。
さあ、この1年間も、主イエス様に仕え、教会に仕え、福音の宣教にお仕えしていきましょう。ことばをかえれば、一人でも多くの人々が、イエス様の福音を聞いてくださるようになることを願い求めましょう。地域の人々と教会とのあいだに大きな壁が存在してはなりません。気さくに教会に足を運んでいただき、教会の存在を身近なものとして受け入れていただくことが大切になってきます。
私たちの手には福音がすでに与えられています。イエス様が「私たちの中に生きて」(コロサイ3:16)おられます。そして、私たちは心から「キリストにある平安と希望を皆さんの人生にお届けしたい」と願っています。イエス様が導いてくださいますように。
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