2014年度 主日礼拝
2014年1月19日
題「突然 偶然 それとも必然」
新年、おめでとうございます。神様の豊かなめぐみの中を健やかに歩まれる日々でありますように心からお祈り申し上げます。
NHK朝の連続ドラマの主題歌「雨のち晴ルヤ」が好評だそうです。「突然 偶然 それとも必然 始まりは気付かぬうちに」という歌詞で歌が始まります。人生には良いことも悪いことも突然、起こりやすいものです。それは単なる偶然なのだろうかあるいは必然だったのだろうか、もし必然だとすると、では誰がそれを定めているんだろうか、そんな素朴な思いをこの歌詞は私たちに問いかけているように私には思います。
今日のメッセ−ジを通してみなさんは、きっとその答えを見い出されることでしょう。
パウロは弟子のシラスとともに第2回目の伝道旅行へ出発しました。当初の計画では小アジア半島(現在のトルコ地方)の地中海沿岸の主要都市を旅行し、第1回目の伝道旅行で設立された諸教会を訪問して信徒を励ますことを目的としていたようです。
デルベ・ルステラ・イコニウムへと進んだところで、若い伝道者テモテが加わりました。イコニウムからそのまま西へ進めばアンテオケさらにはエペソへと道は通じていきます。ところが急にパウロ一行は北上してフルギア・ムシアへと進みました。その理由は「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたから」(6)でした。パウロたちは、ムシアの先には黒海に面したビテニア州が広がっていましたから、魅力的なこの地方で伝道を進めることを神様は導かれていると考えたようです。ところが「イエス様の御霊がそれを許されなかった」(7)ため、反対方向の西へ再び進路を取り、海沿いの港町トロアスへと向かい、この港町に数日滞在しました。10節から「私たち」という表現に変わりますから、ルカの福音書と使徒行伝の著者である医者のルカがトロアスで合流しました。ちなみにトロアスの港からはエ−ゲ海を超えて対岸のヨ−ロッパ・ギリシャ地方(当時はマケドニアと呼ばれていました)へ向かう船が頻繁に出航していました。神様はどのようなご計画と導きを、パウロ・シラス・テモテ・ルカの宣教チ−ムに抱いておられるのでしょうか。興味深いところです。
1. 神様の導きは突然ですが必然です
ある夜、パウロはマケドニア人が私たちのところに来て助けてくださいと懇願する不思議な夢を見ました。これは神様が海を超えマケドニアへ渡って伝道するように招いておられるに違いないと、4人は祈りの中で確信しました。西ではなく北へ、東ではなく西へ、さらにアジアからヨ−ロッパへ海を渡って進みなさいと、思いもよらない導きが突然、このようにして与えられたのでした。
「突然、偶然、それとも必然」と主題歌で歌われていますが、人生には予報通り、想定通り、計画通りの出来ごともあれば、良いことも悪いことも含めて、思いがけない想定外の突然の出来事も起こるものです。単純なひとつの原因だけで大きな事故や出来事が起きるわけではなく、小さな出来事がいくつも偶然重なり合って1つの重大なできごとが起きるのだとよく言われます。確かにその通りですが、神様の存在を考え合わせるならば、単なる偶然の重なり合いではなく、神様の「愛に満ちた必然性」によって導かれていると私たちは信じています。
聖書的には神様の愛の必然性を「摂理」と呼びます。摂理とは「愛なる神様が究極において最善へと導かれる愛を基調にした導きとご支配」と定義することができます。西から北へ、東から再び西へと進路変更を余儀なくされ、いったいどうなるのだろうか、あたかも振り回されているかのように思えますが、確実に神様はパウロたちを、アジアからヨ−ロッパ大陸への宣教へと導かれたのでした。その目的は、ユダヤ人ばかりでなく助けと救いを求めているヨ−ロッパに住む多くの人々にも、福音をもたらすためでした。
2. 神様の導きは多彩で多様です
西へ向かおうとしたパウロたちの行く手を「聖霊が禁じてとどめ」(6)、東へ向かおうとした計画を「イエス様の御霊が許さず」(7)、彼らをトロアスの港町に導き、神様は最終的に彼らをヨ−ロッパへと導きました。ここで用いられる異なる3つの表現、「聖霊・イエス様の御霊・神様の導き」はみな同じことを意味しています。聖霊はあるときには積極的に道を示し、進みなさいと命じ、導かれます。またある時には禁じたり、押しとどめたり、許可を与えなかったりされます。直接語りかける場合もあれば、御使いを通して導く場合もあります。あるときには預言者という一人の人間を通して語りかける場合もあります。またあるときには特別に夢や幻を通して御心を示されることもあります。
つまり、全能者なる神様はあらゆる方法を用いて、御心を私たちに明らかに示してくださいます。ですから、自分の人間的な関心や熱心さや「これしかない」「こうあるべきだ」という思い込みで、決めつけて走りだしてしまわないようにこころがけましょう。
パウロが見たマケドニア人からの招きの夢は、他のチ−ム仲間たちにも報告されたことでしょう。彼らは情報を共有し語り合い、ともに祈り、同じ理解と確信に立つことができました。「確信する」(10)と訳されたギリシャ語は「一緒に結び合わす」という意味を持っているそうです。榊原康夫先生は著書の中で、このギリシャ語は「いろいろな証拠からひとつの結論を出すことを表している」と解説しています。今に至るまでの状況をいろいろ考えると、神様は私たちをアジアやビテニアではなくマケドニアに招き寄せられているという結論と確信に彼らは至ったのだと先生は解釈しています。クリスチャンが神様の導きを考える上で、ひとつの大切な視点だと思います。
繰り返しますが、神様の導きは実に多彩であり多様です。導きは多様でも、みこころは不変です。そこで求められている大切なことは、「神様のみこころにすなおに従う」信仰を養うことです。神学校で学んでいた若い頃、恩師が「君たちはやがて教える立場に立つことになるが、教える前に、教えられやすいこころを持ち続けなさい」と訓戒してくださったことがあります。教えられやすい心とは、柔らかい柔軟な姿勢、神様に「はい」と従う従順さを指しています。
3. 神様の導きはひとりの人を救いに導くためです
トロアスから船出してエーゲ海を渡りヨ−ロッパに上陸したパウロたちはマケドニア地方第一の大都市であったピリピへ進みました。そしてルデアという女性と出会います。彼女は高価な最高級品といわれた「紫色に染めた布」を販売する貿易業を営んでいる女性経営者でした。彼女は熱心なユダヤ教徒であり、祈りの人でした。裕福な家柄で、多くの従業員を抱える資産家でした。ルデアは、パウロの語る福音に耳を傾け、イエス様を救い主と信じ受け入れました。ルデアのみならず、一族みなが、パウロが語る福音を受け入れ、バプテスマを受け、全家あげて信仰に導かれました。のみならず、ルデアは自宅を解放して家庭集会を開き、ピリピ教会の礎を据えました。ヨ−ロッパの一大都市ピリピに播かれた福音宣教の最初の種は豊かな実を結び始めたのでした。ピリピ教会のクリスチャンの捧げる献金と祈りによってパウロたちの宣教旅行は支えられ、コリントやアテネのギリシャ地域にまでパウロは福音を宣教することができました。
ですから、パウロはピリピの教会を思うたびごとに神様への感謝に満たされたのでした。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」(ピリピ1:3-5)
神様の導きは多彩であり多様ですが、神様のみこころは変わりません。神様の変わることがないみこころは、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19)というイエス様の宣教命令に明らかに示されています。ではなぜ、宣教するのでしょう。目的はどこにあるのでしょうか。それは一人も滅びることなく、永遠のいのちを、救い主キリストから神様の贈り物としてすべての罪人が喜びをもって受け取るためです。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
神様は多様で多彩な導きをもって、一人の人を救いに導き、その一人の人を用いてさらなる大きな救いの御業を進められます。あなたはいつ信仰の告白へと導かれましたか。あなたは偶然、教会に導かれたのではありません。必然性をもって、神の御霊が救い主キリストのもとへあなたを導かれたのです。それはやがてあなたが、「私が救われたのは、この事のためだったのだ、この日のためだったのだ、この人の救いに用いられるためだったのだ」と、大きな感謝と深い喜びをもって、神様の必然性をほめたたえるためなのです。
予期せぬ突然の出来事というものは私たちの人生にいつも伴います。しかし私たちの存在は、偶然の中にではなく、神様の愛の必然性の中におかれていることをこころに覚え、神様のなさる良きことを待ち望みましょう。
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