2014年度 主日礼拝
2014年3月30日
題「慰めを与える教会」
使徒20:1-16
30年近く前の出来事ですが、教会の役員さんが会議のさなかに脳溢血で倒れ、病院にはこばれ即時、手術を受けましたが、天に召されるという悲しい経験をしました。礼拝中や集会中に突発的な生死に関わる深刻な事態が起こりうることも現代の教会は心しておく必要があると思います。人が多く集まれば当然リスクも高くなりますから、地震や火事などの緊急避難訓練や救急救命法の実地訓練も教会の年間行事として組み入れる配慮が必要ではないかと考えています。
1. 神様からの慰め
さて、今朝の聖書箇所は、港町トロアスの教会で日曜日に礼拝が捧げられていた最中に起きた出来事が記録されています。2000年前の時代には、日曜日が定休日というような制度はありませんでしたから、トロアス教会では一日中働いた信徒たちが夜集まって聖餐式を行っていたようです。翌日にはパウロがエルサレムへ向けて出発するため、夜遅くまでパウロを囲んでお別れ会的な集会がもたれていました。パウロの話が長く続いたことも影響し、窓際に座って話を聴いていた「ユテコ」という若者がとうとう睡魔に誘われ、居眠りを始め、なんと3階の窓から外へ転落してしまったのです。礼拝の時、ときどきコロンと鉛筆を机から落としたり、ドサと聖書をひざから落としてしまう信徒さんがおられます。お休み中だったのでしょうか・・。 椅子から転げ落ちた信徒さんにはさすがに今まで私は出会ったことはありませんが・・。
ユテコが窓から落ちたということで大騒ぎになり、すぐさま兄弟たちが急いで1階にかけ降りてみると、残念ながら落ちた場所が悪かったのか、打ち所が悪かったのかユテコはすでに死んでいました。その時、パウロが階段から降りてきてユテコを抱きかかえ、神様に祈りました。すると彼は息を吹きかえし癒されました。 パウロはユテコを家に連れて帰るように伝え、そのまま3階の集会室へ戻り、集会を再開し、夜明け近くまで兄弟姉妹と語り続けました。パウロの祈りによって生き返ったユテコは、家に帰り安心してベットでゆっくり眠ったことでしょう。
礼拝中に突然・転落死という悲しい出来事が起きてしまいましたが、ユテコの家族もトロアス教会の兄弟姉妹もみな「大きな慰め」(12)を受けることができたと聖書は記録しています。みことばが語られるところでは、かならず神様からの慰めが満ちていきます。
パウロの周囲には7人、ルカを含めると8名の宣教チ−ムが誕生しており、それぞれが教会のリ−ダ−として活躍していたようです(4)。初代教会にとってもパウロにとっても、若いリ−ダ−たちの存在は大きな喜びであり、希望であり、慰めであったと思われます。そして、パウロは、自分の説教中に居眠りをはじめ挙句の果てに窓から転落してしまうような若者ユテコに対しても、愛情深く接し、彼を死から生き返らせ、救いと癒しを与え、家族の手に渡しました。パウロを通してユテコの家族も教会も大きな慰めを受けることができました。小さな者、弱いもの、未熟な者をも大切な仲間の一員として受け入れ、愛しあうという交わりがここに見ることができます。ルカはこの一連の出来事を「ひとかたならず慰めを受けた」(12)つまり、大きな慰めを受けたということばで総括しています。
ここでは「慰め」と言う言葉が強調されています。慰めはイエス様がもたらしてくださる教会の大きな力のひとつだと思います。それゆえキリスト教会の交わりの中に「慰め」が満ちているか、それともこの世と同じような価値観、他人との競争や比較、宗教的な熱心さが評価され賞賛されるという風潮のために、慰めではなく負担が重くなっているようなことはないか、常に自己チェックすることは忘れてはならない大切なことだと思います。
イエス様ご自身が「助け主 慰め主」と呼ばれ、よみがえられたイエス様が遣わしてくださった聖霊も「もうひとりの助け主(慰め主)」と呼ばれています。教会はイエス様が御臨在され、御霊が満ちるところであるとするならば、慰めもまた豊かに満ちるところであることが、本来の教会のあるべき姿だと思います。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
(ヨハネ14:16)
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)
ギリシャ語で慰めはパラクレイシスといい、「助けるためにその人の傍に呼ばれる」ことを意味します。したがってヨハネはイエス様を助け主・慰め主と呼び、イエス様の御霊である聖霊をもうひとりの助け主・慰め主と呼んでいます。ですから慰めとは、基本的にモノによる慰めではなく「そばにともにいてくださる」ところからくる人格的な交わりを通しての「慰め」であり、励まし、勇気づけであるといえます。
そして神様はこのように呼びかけておられるのです。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザヤ40:1)
神からもたらされる真の慰め、それこそがキリストの十字架の死によってもたらされた「救い」と、よみがえられ今も生きておられるキリストとの交わりによってもたらされる「癒し」ではないでしょうか。
「私たちの主イエスキリストの父である髪、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに与えてくださる神がほめ讃えられますように。神はあらゆる苦難を通して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(第2コリント1:3-4)
2. 神からの慰めを提供する教会
具体的に、私たちの教会はこの地域の人々に、キリストの福音と兄弟姉妹の愛の交わりを通して、どのような価値あるものを提供できるのでしょう。教会ができうることは多くはありません。それはただ一つかもしれません。キリストの「救いと癒し」をこの地上でもっとも価値あるあるものとして提供することと私は信じています。もっとも価値あるものをもっとも価値あるあるものとして自信をもって、喜びをもって、人々に提供すること、これこそ「福音の宣教」ではないでしょうか。
救いとは、キリストによる罪の赦し(十字架)と、新生(新しいいのちへの解放・復活のいのちにあずかること)をさしています。救いと新生は神様からの恵みとして、救い主イエスキリストを信じる信仰を通路(パイプ)として与えられます。このめぐみはどんなに罪深い者にも、無条件で与えられます。
癒しとは、体や病気に関する癒し(ヒ-リング)と心の癒し(やすらぎ リラクゼ-ション)をさしています。本来、体とこころはバラバラではなく心身一如と言われるように、一つに結びついていますから、医療(CURE)と看護(CAER)とセラピ−(療法)は相互補完的に働いているのが自然のありかたといえます。
病院はキリスト教会が旅人や病める人や孤児たちを受け入れてお世話をしたホスピス(もてなし)として発展してきたと言われています。治療の場だけではなく、さまざまな癒しの場、休息の場、あるいはリトリ−トと呼ばれるような静かな黙想の家としても用いられてきました。のちにその専門性と社会的役割によって、教会と病院は分離していきましたが、本来は相互交流をもっていたとも言えます。病める人、傷ついた人にとって、教会と病院はまさに癒しの場であり、神からの慰めを受ける場でもあったのです。
3. 今後の3年間の基本方針
私は宇治バプテスト教会の2014年度総会のために、次期3年計画を祈りの中に覚えています。新会堂へ移った最初の3年は地域への浸透をはかることを目標にして、新しい地を耕し、種をまく期間と考えてきました。2014年からの次期3年間は、地域の人々とともに活動を広げることを目的としたいと導かれています。蒔いた種が発芽し成長し、さらに地植えをして一層の成長をうながす期間と考えています。2017年からはいよいよ「収穫の時期」を迎えることを願っています。
成長を願うこの3年間において具体的にイエス様のもとにある「救いと癒し」が豊かに展開していくためにどのような方策が求められているのだろうかと祈りつつ考えています。宇治バプテスト教会は「あなたの街のこころのオアシス」をモット−としています。では実際、オアシスとして何を提供できるのかを考えたとき、
第一に、キリストによる永遠のいのちへの水が提供されることは言うまでもありません。福音が語られ、人々がキリストのもとに招かれ、キリストの臨在があふれる礼拝を通して、悔い改め・罪の赦し・信仰の告白・新生の喜び・神の国の希望、感謝と献身・神の無条件の愛への応答としての奉仕へと導かれることです。
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
第二は、からだとこころの癒しが提供されることです。天地の創造主である神様は私たち人類に3つの豊かな贈り物を与えてくださっています。それは、自然と植物のめぐみ、自然と音楽のめぐみ、自然と人と人のふれあいのめぐみの3つです。この3つは教会において今もなお提供できる大きな価値ではないでしょうか。
植物を通して癒しを提供することを「フィトンセラピ-」と言います。ギリシャ語で植物をフィトンと言います。そしてセラピ-(療法)はギリシャ語に由来していますが「奉仕」という意味をもっています。天地を創造された神様が与えてくださった自然からの贈り物である、植物の色、香り、効能成分、土に親しみ花を愛でる、野菜を中心とした健康な食生活など、クリスチャンからこれらの贈り物の価値を見直しをしてもよいでのではないでしょうか。幸い宇治教会には専門家がいますので、アロマやハ-ブを用いいた各種教室、栄養教室、料理教室、園芸教室、ハンドケア教室などを開いて、人々に奉仕していきたいと思います。
音楽を通して癒しを提供できるならばそれもすばらしいことです。さらに、「教会ならではの人と人とのふれあいの場」をぜひ、今年は創り出していきたいと願っています。日曜日の午後だけでなく、プログラム化された集会の時間だけでなく、平日に誰もがほっとできる憩いの場、安らぎの場、語り合いの場、現代社会が失いつつある「なごみの場」としての「居場所」(愛の交わり)を提供することができればと願っています。
これらを通して、宇治バプテスト教会が、「この街のオアシス」として機能し、比類ない価値を提供でき、人々に奉仕することができるならば、
私たちの大きなよろこびであり、小さくても価値あるビジョンであると考えています。
神はあらゆる苦難を通して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(第2コリント1:4)
Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」 All rights Reserved.