2014年度 主日礼拝
2014年4月6日

題「パウロのお別れ説教 牧師の涙」
使徒20:17-38

長期にわたるアジア・マケドニア地方への宣教旅行を終え、いよいよエルサレムへ旅立つパウロは、3年間、心血を注いで伝道牧会に励んだエペソ教会の長老たちを港町ミレトに呼び集めました。エルサレムに戻った後、ついにとらえられ、その後は囚人生活を送ることになるとの御霊の導きをパウロは受けていたため、最後のお別れのメッセ−ジを伝えようとしたのです。るため、彼らを呼び集めたのでした。長老たちは涙を流しながらパウロのメッセ-ジに耳を傾け、別れの挨拶をかわしました。

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。」(使徒2024-25

「こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。」(使徒2036-38

1.全生涯をかけるに値する奉仕

パウロはお別れ説教の前半部分では、福音の宣教に全生涯をささげたことを語り、後半部分では、教会の形成に全生涯をささげてきたことを語りました。イエス様の救いの素晴らしさを伝え、イエス様の体である教会をたてあげていく2つの奉仕は、パウロにとって全生涯をかけるにふさわしい価値をもつ感動的な仕事でした。前半部分には、宣教師としてのパウロの活動の様子が報告されています。

パウロは「主の奴隷として主に仕えてきた」(19)と、宣教師としての根幹の姿勢を告白しています。ある程度の自発的権限が委ねられている「しもべ」とは区別し、しもべ以下の立場である「奴隷」に過ぎないとパウロは自ら自覚していました。奴隷であるパウロのただひとりの主人は「主キリスト」でした。主のしもべ、主の奴隷であるパウロということばには、最高の主人であるキリストに仕える大きな喜びと誇りがみちているのです。

パウロは、最初にエペソに来たその日から(18)、昼も夜も(31)、主に仕え、働いてきたと語っています。しばしば牧師の仕事は「1日24時間営業、年中無休」と言われていますが、働き者のパウロの姿が目に浮かぶようです。人々の前(公の集会)でも家々(家庭集会)でも、公私の区別なく、機会があればいつでもだれにでも福音を伝えて来たと振り返っています。しかも謙遜の限りを尽くして(19)、涙を持って(31)、信徒たちを励まし、語り合い、指導し、導いてきたと語っています。

「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください」(31

牧師の仕事は説教するという口の仕事、カウンセリングをする耳の仕事、信徒の手本となるという背中の仕事のほかに、信徒の苦楽にともに寄り添うという涙の仕事があります。わたしも信徒のみなさんと喜びも悲しみもともに分け合って歩んできました。信徒の涙は牧師の涙でもあるのです。返すことばも見つからなくてただ手を取り合って涙を流すしかなかった時もしばしばありました。しかしそれは無力さを嘆く時ではなく、「あなたが弱い時にこそ私は強い。わたしのめぐみはあなたに十分である」(2コリント1210)と語られるイエス様のめぐみをしずかな沈黙の中で分かち合うひと時でもありました。

今年、私は宇治バプテスト教会の牧師に就任して30周年を迎えます。学生時代に召しのことばをいただき献身し、開拓教会のお手伝いをしながら聖書を学び、東京の神学校を卒業して宇治バプテスト教会の2代目牧師として就任してから、早くも30年が過ぎ去りました。誇るようなことはなにもありませんが、30年間、ひとつの仕事を全うできていることを神様に感謝しています。こんな楽しいこころわくわくする仕事を日々、過ごさせていただいていることを私は幸せだと思っています。いつまで牧師の仕事を続けることができるのかわかりませんが、主が許してくださる日までは、全力を尽くして、主イエス様と教会と社会にお仕えしたいと願っています。

2. みことばの宣教は、2つの主張に要約できる

パウロは宣教師として人々に語り伝えてきた福音の内容を簡潔に表現しています。神に対する悔い改めとまことの救い主イエスキリストに対する信仰告白です

天地を創造された神(永遠なる全能の神)と私たちを造られ日々活かしてくださっている天の父なる神様のもとに立ち返ることがパウロの第1の主張点でした。

まことの創造主なる神様に背を向けて、人間の手によって作り出された偽りの神々を仰いだり、「神などいない」と嘯き、豪語するような「的外れな生き方」をしてはいけません。このような神様をないがしろにし、背を向けて自己本位に、エゴイズムのかたまりとなって生きる生き方そのものを、聖書は「罪」と呼んでいるのです。英語では小文字複数形のsinsと大文字単数形のSINを区別しています。ですから罪を悔いるとは、法律上、あるいは道徳上のもろもろの犯罪あるいは不完全さとしてのsinsを、反省したり後悔したり懺悔したりすること以上に、なによりも神様に向かって方向転換をして、神様を信じ、神様とともに生きることを選択しなおすことを指します。

生駒めぐみ教会の櫻木茂伸兄に先日宇治バプテスト教会に来ていただき、教会の婦人会と英会話教室の合同集会で「聖書なかの植物」というテ-マでお話をしていただきました。櫻木兄弟は若い日、熱心な無神論者でした。クリスチャンが路傍伝道していると議論を挑み、たいがいやり込めて満足していたそうです。「信じる者はみな救われる」という有名な聖歌をクリスチャンが歌っているとそのそばにわざと立って、彼らよりも大きな声と合唱部で培った美声で「信じるものはみな騙される」と歌って妨害したそうです。しかし、そんな兄弟も神様の不思議な導きの中で、心砕かれ人生の方向転換をする時を迎えました、神様の存在を受け入れ、クリスチャンとして生きる決心をされました。今では心の底から「信じる者は救われる」と賛美し、ご自分のテ-マソングにされているそうです。

パウロもきっとそのように方向転換をしていく多くの人々を導いたことでしょう。

第2番目の主張は、「救い主イエスに対する信仰の告白」にありました。イエス様への信仰告白は、以下の3点を1セットにしています。

@  イエスさまこそまことの救い主と信じること

A  自分の口でイエスは主であると告白すること

B  イエスの名によってバプテスマを受けること

ペテロはあなたこそ「生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と告白しました。告白の順番は、キリスト(救い主)、神の御子、生ける神となります。多くの求道者から、「天地の造り主なる神の存在や父なる神の存在を受け入れることはできますが、どうしてイエス様が神様なのかわからない」という質問をしばしば受けます。多くの日本人にとってイエス様=神様と結びつけるのは難しいことかと思います。まずイエス様は神様が世に遣わされたまことの「救い主」であることを知ってもらいましょう。生老病死という4つの世の苦しみから民を救うお方として仏教世界には「観音様」の存在があると聞きました。「千手観音様」ともなれば、世の苦しみを知り、苦悩から民衆を救い出すために1000本もの手を指し伸ばしてくださるありがたい救い主として作られているわけです。それは民衆の願望であり願いの象徴ではありますが、実体がともなっていません。イエス様は神がこの世に遣わされた全人類のための尊い救い主(キリスト)です。人としてこの世界にお生まれになり、33年半の清い生涯を歩まれ、十字架にかかり自らの死をもって全人類の罪を償い、「罪の赦し」と「永遠の裁き」からの救いの道を切り開いてくださいました。墓に葬られましたが3日目に死の中から約束通り復活され、永遠のいのちを明らかにされました。したがってキリストは今も生きておられ、この世界で私たちが経験するあらゆる人生の苦難、試練、困難の中にもともに歩んで下さり、恐れにかえて平安を、悲しみにかえて喜びを、失望にかえて希望を与え、励まし勇気づけてくださることができるのです。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(1ヨハネ414-15

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

罪と滅びから救い出してくださるまことの救い主、人生のあらゆる重荷から解放してくださる救い主、このお方の名は「イエスキリスト・神の御子」なのです。イエス様が神の御子であるならば、おのずとイエス様も神ご自身であることを抵抗なく受け入れることができるのではないでしょうか。

イエス様を「わたしの救い主」と信じ、心に迎え、口で告白するならば救いは完成します。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ109

そして、その信仰の証しとして、私たちはイエスの名によって水のバプテスマを受けるのです。

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒238

今年のイ-スタ-(キリストの復活記念日)は4月20日です。日本全国でそして世界中の教会で喜びに満ちた記念礼拝がささげられることでしょう。そして多くの教会でバプテスマ式が行われることでしょう。人生の方向転換を選択し、イエス様をまことの救い主と信じ、イエス様の名によってバプテスマを受けたクリスチャンたちが誕生します。

あなたもそんな仲間の中の一人として、新しい歩みを踏み出しませんか。

                  「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)



   

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