2014年度 主日礼拝
  2014年5月4日

                         

「神ご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:26-38)

パウロはエペソ教会の監督(今日でいえば牧師や役員や教会リ--)たちを招いて最後のお別れのメッセ−ジを語りました。教会の活動や運営を委ねられたリ−ダ-たちに対して、28-32節で「神の教会という」重要な真理を語っています。教会は単なる信仰者たちの集まり、宗教グル−プや宗教団体というのではなく、御子イエスキリストの血によって買い取られた「神の教会」という独自性霊性を持っていることをパウロは強調しました。今朝は「神の教会」ということばを3つの観点から学びましょう。

1.    神の教会とは「神によって召された人々」の群れです

日本語で教会と訳されたギリシャ語エクレシアは、もともと「召し出された者たちの群れ」「呼び出された者たちの群れ」という意味をもっています。それでは誰に召され、誰に呼び出されたのかと言えば「神」ご自身です。私が電話帳やインタ-ネットを検索していて教会を探し、私が教会に車で来たというのではなく、神様が私に先立って働かれ、神様が私を教会に招いてくださった、迎えてくださった、呼び集めてくださったという意味になります。信仰生活はつねに、「私が」という世界ではなく初めに「神が」という世界です。すべては神によって始まるのです。

ロマ 11:36 「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」                       パウロは天にある祝福とは、永遠の神の選びであると教えています。神様がみこころのままに永遠の愛に基づいて、私たちをはじめに選んで招いてくださったのです。                               
エペソ14-6「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

2.    神の教会とは「キリストの十字架の血によって買い取られた人々」の群れです。

28節には「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という表現が出てきます。「買い取られた」ということばの本来の意味は、奴隷商人に奴隷の代金が支払われて、奴隷が買い取られ、新しい主人の手に渡されることを指すことばです。罪と死と滅びによって人類を支配しているサタンという奴隷商人のものであった私たちのために、神様が代金を支払って、買い戻し、神の所有としてくださったことを指します。想像を超える代金が支払われました。いったいどんな代金が支払われたのかと言えば、神のひとり子イエスキリストのいのちが身代わりに支払われたのです。キリストが十字架で流された血は、キリストの尊い身代わりの死を意味します。つまり、神によって召された人々の救い、すなわち罪の赦しと罪からの解放が成就するために、「キリストの身代わりの死」というかけがえのない代価が払われたのでした。

1954(昭和29)年に洞爺丸台風のために青函連絡船が沈没し1430名が死亡するとい世界第3位、日本海難史上最大の悲惨な事故がおきました。連絡船に乗り合わせていたカナダ人のA・スト−ン宣教師は、自分がつけていた救命胴衣をはずして溺れかかっていた若者に渡したそうです。「私はすでに永遠の命をもっています。もしあなたが助かったら教会へ行ってください」と語りかけたそうです。のちにこの青年が教会を訪ねたことからスト−ン宣教師の最後の様子がわかり、北海道の新聞でも取り上げられ大きく報道されました。溺れかかっていたこの青年はスト−ン宣教師の身代わりの死によって救われ、新しい命を得ることができたのです。

ヨハネ1513 「人が友の為に命を捨てる・・これほど大きな愛はない」

イエスキリストの十字架の死がなければこの世界にキリスト教会は存在せず、クリスチャンも存在しませんでした。キリスト教会はキリストの十字架の血の中から生まれたのです。クリスチャンはキリストの十字架の死によって、罪の赦しと新しいいのちを得ることができたのです。

もし誰かが私のいのちの値段をつけたらいったいいくらになるでしょう。少なくとも私の体そのものを構成する原料(カルシウム・マグネシウム・鉄・硫黄・水分その他)費は合計しても1000円にならないそうです。けれども。私は答えることができます。私のいのちの価値は「神の御子キリストのいのち」の値段ですと。私のいのちの価値はキリストのいのちと同じだけの価値をもっているのです。それほどまで神様に愛されたのです。このことは、教会に集うすべてのクリスチャンたちにとっても同じです。お年寄りであっても子供であっても一人一人はキリストのいのちと同じ価値、同じいのちの重みをもっているのです。だから、教会では、互いに尊重し、互いに愛し合い、互いに赦しあうことが求められるのです。

教会が単なる人間の集まり、宗教サ−クル、信者の集いであれば、いい加減なことも許されるかもしれません。しかし、神の血によって買い取られた神の教会であるとするならば、教会の存在意義を認め、恐れ敬い、礼節を尊び、決していいかげんな態度で接したり、不遜な態度や不誠実な態度で接してはならないことに意識が向くことでしょう。神を恐れ敬うように、神の教会も恐れ敬う心を大切にしたいものです。

3.    神の教会とは「神のめぐみのことばにゆだねられている人々の」群れです。

神社にはご神体が、お寺にはご本尊が安置されています。教会にはそのような偶像はありませんが、伝統的な大きな教会では、教会の正面の講壇の上に大きな聖書が置かれているのを見かけます。(小さいと牧師が置き忘れたかと錯覚されますので注意がいりますが・・)。 このことは、キリスト教会の中心は常に聖書であることを意味しています。聖書の真理の言葉の上に、神の教会は築かれています。ですからパウロは「あなたがたをみことばにゆだねる」と語ることができたのでした。

「みことばはあなたがたを育成し、約束の御国を継がせることができるのです」(32)とパウロによってみことばの持つ2つの目的が明確にされています。神様に召された者、神に愛された者は、「みことばを通して育成され、やがて天国を確実に受け継ぐことができる」のです。

「育成」ということばはもともと建築用語で「築き上げること、建てあげること」を意味するそうです。つまり、育成されるとは霊的な意味で「信仰と信仰生活が育まれる」ことを意味し、もうひとつは「教会が形成され建てあげられることに仕える」ことを意味します。信仰の成長や成熟は、教会形成のための奉仕とひとつに結び合わされているのです。小さく思えるような働きであっても、教会を建てあげていくためにはなくてはならない大事な奉仕であり、教会づくりのために何かのご奉仕にいそしむことができるならば、ますます祈りや学びに励むように動機づけられ導かれます。

御言葉な学び(WORD)と礼拝出席(WORSHIP)と奉仕(WORK)は、一つなのです。                                                                        

「御国を受け継ぐ」ことは神の教会に属する者たちの究極のゴールと言えます。御国を受け継ぐためには、教会を離れ、みことばを離れてはなりません。天国を受けつぐことはできません。キリスト教会では昔から「神を父として、教会を母として持つ」と言われています。赤ちゃんは母の存在なくしては生きることができません。 教会を離れても信仰は維持できるなどと間違った考えをもってはなりません。自己流や我流の信仰はかならずゆがんでくるからです。聖書を読まなくても学ばなくても私はやっていけるというのは傲慢さのあらわれです。私は教会がなくてもやっていけると、もし思いはじめたら、黄色信号が点滅し始めていると思いましょう。赤信号になる前に、謙虚に教会を探し、集い、へりくだってみことばに耳をかたむけましょう。聖霊はあなたをきっとふたたび神ご自身の血をもって買い取られた神の教会」の交わりに迎え入れてくださることでしょう。

キリストの十字架の血に信頼し、神のことばに導かれて歩む、そして賜物をささげて教会の形成にお仕えする、このシンプルなありかたこそが、「神の教会」に召された者たちの本来のあるべき姿なのですから。

「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒2032



   

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