2014年度 主日礼拝
  2014年5月11日 母の日礼拝


「母の愛そして神の愛」

                                    1コリント13:1−13


1905年アメリカのフィラデルフィアに住むアンナ・ジャービスさんがお母さんの召天記念日に白いカーネ−ションで祭壇を飾り、母をしのび、母に感謝する「母の日」を設けることを教会で提案しました。やがて賛同者は全米中に広がり1914年にウィルソン大統領によって5月第2日曜日が「母の日」と制定されました。母の日の制定と普及には、クリスチャン事業家でデパ−ト王と呼ばれたジョン・ワナメ−カによる尽力が大でした。日本でも昭和初期に、お菓子王と呼ばれたクリスチャン事業家森永太一郎の創設した森永製菓によって母の日は全国的に普及したといわれています。本題に入る前に、母の日にちなんだ愛の小話を3つ紹介します。

ジャ-ビスさんのお母さんは教会学校で子供たちに聖書を教える教師でしたが、南北戦争時には負傷した兵士を敵味方の区別なく看護する運動を推し進めた社会活動家であり、愛の実践家でした。娘のアンナさんはそのように社会的な高い意識を持って活動する母を心から尊敬していたのでした。また、赤いカネ−ションはヨーロッパでは「十字架に架けられるキリストを見送った母マリアがこぼした涙が落ちた地面に咲いた」という伝説があり、古くから母性愛の象徴とされていました。このことが「母の日にカーネーションを贈る」習慣につながったとも言われています。ちなみに父の日には「ばら」を贈る習慣があるそうです。さて小話の3つ目です。日本で販売されるカ−ネ−ションの5割は輸入品であり、67%に当たる約3億本は南米コロンビアからの輸入だそうです。その南米コロンビアは長年にわたり、貧困と内戦と麻薬組織の暗躍に苦悩していましたが、貧しい農民が麻薬の原料となるけしの花の栽培をやめてカ−ネ−ション栽培に転換することで新しい国づくりに貢献しているそうです。日本へのカーネ−ションの輸出が、「コーヒと花の国コロンビア」の新しいイメ−ジを創り出し大きく支えているのです。日本からみれば地球の裏側に位置するコロンビアとが1本のカ−ネ−ションの花で結ばれているのです。すてきな話ではないでしょうか。母の日にカ−ネ−ションが少々高くなっても目をつむりましょう。

本題に入ります。今朝は母の日にちなんで「母の愛そして神の愛」をご一緒に考えましょう。「ナルニア国物語」で有名なCSルイスは「4つの愛」(loves)という本を書いています。              

1.Storge ギリシャ語のストルゲ−は「好き(Like)」という愛情を指します。日本人的には「かわいい」と感じる感情と言い換えることができそうです。しかし、脳医学的にはストルゲ−の愛の持続力は平均3年、奇跡で5年だそうです。意外と短命であり移り変わりが激しいのです。 あきっぽい愛、移りゆく愛と言えます。                                             

2.Eros
 ギリシャ語のエロスは、特別な人への肉体的愛情、男女間の「恋愛感情(Love)」を指します。エロスは大変強烈な力をもっていますが、愛が裏切られたと思う時には、一転して憎しみや嫉妬やねたみや恨みや怒りに変化する可能性を秘めています。昔から愛憎は表裏一体関係にあるといわれている通りです。死ぬほど愛されますが裏切れば死を覚悟しなければならない時もありますから、結構、恐ろしい愛といえます。                                                                                                  3.Phileo ギリシャ語のフィレオ−は「友情」を指します。欧米ではしばしば「ベストフレンドと結婚しなさい」と言われるそうです。男女を超え、人間として互いに尊敬し、受け入れあう、おだやかな愛のあり方を指しています。ストルゲ-やエロスの愛のように燃え尽きてしまうことも、3年の賞味期限が来て、もろくはかなく終わってしまうこともなく、生涯にわたって良き友として存続していくことができます。しかしながらこころを打ち明けられる親友、腹心の友を見出すことはそんなにやさしいことではありません。周囲に多くの「人」はいても「友」と呼べる人がいなくて孤独を覚えることがしばしばあるのではないでしょうか。もっとも深い孤独は、「一人でいること」ではなく「群衆の中の孤独である」とも言われています。                                                    

4.Agape ギリシャ語のアガぺ−は「神の愛」を指します。CSルイスは「無条件の愛」と言いました。このアガペ−の愛を人間世界に期待することは難しくほぼ不可能といえます。なぜならば人間は自己中心でわがままで罪深い存在だから、自分以外の人を無条件で愛することができないのです。かならず条件が付き、見返りを求めようとします。「あなたがお利口で言うことを良く聴いてくれたらお母さんはあなたを愛しますよ」と、そこには「もし・・たら」という条件がついてきます。ですから、「こんなにしてあげたのにお礼一つ言わないなんて無神経な人!」と怒り出すこともあります。無条件の愛はそれゆえ、ただ神にのみ属する「神の愛」と言えます。

この無条件の愛は、第1コリント134-7において豊かに表現されています。積極的表現からいえば、寛容です・親切です・真理を喜び、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びますと、合計7つ記されています。一方、消極的表現からいえば、人をねたまず、自慢せず、高慢にならず、 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずと、合計8つ、合わせて15の愛がここではあげられています。そしてアガぺ−の愛に対しては「愛は・・決してたえることがありません」(8)と「永続性」「永遠性」が最大の特徴として強調されています。神の愛は無条件の愛ですから永遠に続くのです。限定のある愛は続かないのです。                                       
しかも、よく考えると、13章の愛の章には「赦し」という言葉が入っていません。私には意外でした。「愛はすべてを赦します」と定義されていてもよいはずだと思います。みなさんはどのように思われますか? 私たちは確かに他人から受けた仕打ちや心の傷の一部分を許すことができるかもしれません。しばらくの間は「忘れたかのようにふるまう」ことができるかもしれません。しかし「すべてを赦し、永遠に赦す」ことは人間には不可能なことではないでしょうか。そう考えれば、まさに「完全な赦し」はただ神にのみ属する愛ともいえます。13章に記され15の愛の表現の一部を私たちも生きることができるかもしれません。しかし神の愛のすべてを自らのうちに持ち、十字架にかかって「父よ彼らをお赦しください」と祈られたのは、神の御子イエス様ただお一人なのです。ですから、神の愛の豊かさをイエス様の中に見出すことができ、なによりも愛の極みである「赦し」を、私たちはキリストの十字架のうちに見出すことができるのです。聖書は繰り返し、この愛の事実を私たちに教えています        

エペ 1:7「 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
   コロ 1:14 「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」

ここで一つの質問が浮かんできます。では私たち人間は、限定的で条件付きの3つの愛にしか生きられないのでしょうか?神の愛にあずかり、生きることは不可能なのでしょうか。いいえ、2つの道が用意されています

第1は、私たちが神の愛すなわち神の赦しを経験することです。                

コロ3:12-13「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、                     互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

ポイントは「主があなたがたを愛してくださったように」ということばにあります。イエス様が十字架において身代わりとなって死なれたこと、それほどまで愛してくださったこと、キリストの十字架の愛の深さ、広さ、高さ、長さを十分に味わうこと、感謝することが新しい始まりとなります。「あなたがたも互いに赦しあいなさい」という愛の命令の前提として、「まず、この私が神様から愛された」という経験と感動を体験することが提示されているのです。神様から愛されていることを知った喜びと感動こそが、私たちの人生を変える力・いのちとなるのです。人は自らが赦されただけ赦すことができるのです。人は自らが愛されただけ愛することができるのです。                                             

第2は、愛を今までのように人の中に求めるのではなく、神様の中に求めそして見出すことです。神様の本質は「神は愛なり」(1ヨハネ48)と啓示されているようにアガペ-の「愛」です。ですから、神様の中にまず真実な愛を求めましょう。そうすればかならず見出すことができます。決して失望させられることはありません。人の愛はあなたを裏切ることがあるかもしれませんが、神の愛は決してあなたを裏切りません。聖書はすばらしい約束を、神様を信じる者に与えてくださっています。         

ロマ55「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ここで使われている「注がれている」という動詞は「ダム湖の水のような水量」を指すそうです。アガペ−の愛はキリストの御霊を通して、受けるに値しないような罪深い私たちにもあふれるばかりに注がれてくるというのです。なんと大きな喜びでしょう。自らの愛の貧しさを自覚している者にとってなんという福音でしょうか。


富士山の頂上に降り積もった雪は溶岩の中に溶け出し、目に見えない地下水脈を通って、静岡県の三島町にある日本一の清流と呼ばれる柿田川の源流となって川床からこんこんと湧き上がってきます。湧水量はなんと1日100万トンだそうです。無尽蔵と水量です。ですから柿田川の水が枯れることは決してありません。神の愛はカルバリの丘の十字架のもとから流れ出てきます。聖霊という目に見えない水脈を通して、信じる者ひとりひとりに注がれてくるのです。アガペ-の愛の量は無尽蔵です。尽きることはありません。あなたが祈り求めるならばあなたの中にアガペ-の愛の泉は湧き上がるのです。

私たちはいろいろな苦しい状況、つらい状況のなかで、思わずつぶやくのではないでしょうか。「私は悪くない、悪いのはあの人だ」「あの人が変わればすべてがうまくいく」「変わる必要があるのは私ではなくあの人だ」と。けれども人は過去と他人を変えることができません。変わることができるのはあなただけです。「変えることができるのはあなた自身しかいません」とよく言われます。しかし今朝、私はあなたに「変わることではなく、満たされること」をお勧めしたく思います。神様が願っておられる順序は、あなたが神の愛に満たされることです、なぜならば満たされるときにあなたが変えられるからです。そして変えられたあなたが他の人を変えていくことができるからです。神様はそのようになされます。

この母の日に、お母さんへの愛と感謝をこころを込めて伝えたいものですね。できればカ−ネ−ションの花を添えて・・。そして貧しさの中に今もある遠いコロンビアに住む農民と子供たちの上に、平安と平和がありますようにと祈りをささげましょう。なによりもすべての愛は神様からあふれ出て、永遠の赦しとなって私たちに注がれていることに感謝しましょう。

コロ3:14 「すべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」     



   

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