2014年度 主日礼拝
2014年7月6日
「天からの啓示にそむかず」(使徒26: 9-20)
1.天からの啓示
パウロがローマ市民権を持っていたため、エルサレムに駐屯する1000人隊長ルシアは地中海沿岸の港町カイザリアに居住するロ−マ総督ペリクスのもとへパウロを送るという判断をくだしました。パウロ暗殺を企てる敵からパウロを守るため、ローマ軍兵士470人が護衛につきました(23章)。ユダヤ教会側の指導者たちは、カイザリヤにまで来てパウロを総督に訴えましたが、決着がつかないままパウロは約2年間、カイザリアにて軟禁状態に置かれました(24章)。その後、シリヤ州総督に新しく着任したフェストによって裁判が再開されましたが、総督フェストは宗教問題には疎く、ガリラヤ領主アグリッパ2世に協力を求めました(25章)。パウロはアグリッパ王の前でも、堂々と証をしました。ダマスコに住むクリスチャンとキリスト教会を迫害するために意気揚々と出立をしたパウロでしたが、その道の途中で復活されたキリストに出会い、劇的な回心をして、ナザレのイエスを救い主キリストと信じたのでした(26:9-21)。その時からパウロはキリスト教の宣教師として福音をユダヤ・サマリア・地の果てにまで宣教するように変えられたのでした。
パウロはこの体験を証して、「天からの啓示にそむくことはできない」(19)とアグリッパ王に伝えました。
啓示とは、「カーテンを開いて隠れていたものを示すこと」を意味します。神様の側から一方的に神様の救いの真理や深い御心をあきらかにしてくださることを指します。ですから啓示は神様から示されるものであり、人間の理性や知性によって極め切ることができるものではありません。まさに「目が開かれる」(18)ことによって体験できる出来事なのです。
天からの啓示を「信じるか」それとも、天からの啓示に「背くか」の、二つに一つの選択しかありません。アグリッパ王は「あなたは短い言葉で私をキリスト者にしようとしている」(28)とパウロを叱責しましたが、アグリッパ王がパウロの証を聞いて心を動かされたからにほかなりません。真理にそむき真理に逆らうことなどは誰にもできないのです。
パウロの証を聞いた総督フェストとアグリッパ王は「あの人は投獄に価することは何一つしていない。カイザルに上訴しなかったら釈放されたであろう」(31-32)と意見が一致したほどでした。
2. 啓示の内容
では、天からの啓示とはどのような真理なのでしょうか。
「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって
御国を受け継がせるためである。」(22)パウロに語りかけたイエス様のこのことばに全てが凝縮されていると言えます。
1. 「闇から光への所属の転換
「闇から光へ」「サタンの支配から神に立ち返らせ」とは、明確で客観的な所属先の転換を意味しています。闇から光へ、罪の世界に生まれ、罪の中に生き、罪の中に死んでいく古い人間の世界から、いのち恵みに満ちた世界に、サタンの支配から神のご支配の中へ「神様の手によって移された」ことを意味しています。
救われるとは、主観的・感情的・現世ご利益的な事柄ではなく、私たちが所属して生きる世界の客観的な大転換を意味しています。まさに「死からいのちに」移されるという客観的事実を意味しています。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。」(1ヨハネ3:14)。 すでに「移されてしまっている」という神的事実、この客観的救いの事実をしっかりと受け入れること、確信することが救いの第1歩となります。
2.
キリストを信じる信仰
客観的な救いの事実、神の恵みのわざは、信仰によって、私たちの生きた現実となります。客観的事実が私たちに主観的に深く結びつけられます。いわば、なるほどと実感をともなって腑に落ちるのです。そこでは「生きた信仰」が求められます。信仰は打ち上げ花火ではありませんから、「信じたとき」(過去)が大事なのではなく、「今も信じ続けていること」(今ここで)が大事なのです。あなたの信仰は今、生き生きと生きているでしょうか。
マルコ9章に、てんかんらしき発作を起こして火の中、水の中に飛び込んでしまうので、幾度もそのいのちが危険にさらされてしまった息子を抱えた父親がイエス様の前に進み出て救いを求める場面があります。この父親は謙虚に「もしおできになるものならば」(9:22)、息子をお救い下さい」と願いました。イエス様はこの時、形だけの謙遜さよりも生きた信仰を彼に求められました。「できるものならば」と言うのかと、イエス様は父親に迫りました。その時、彼は「信じます、不信仰な私をお助けください」と祈りました。まさにこの時、父親の信仰にスイッチが入ったのです。いのちが流れたのです。彼は神の御子キリストを前にして、生きた信仰に立ったのでした。全能なる主、完全なる癒し主キリストの前で「もしできますならば」と祈ること自体が、不信仰であったと彼は自覚できたのです。
神様の客観的な救いの事実、キリストにあって闇から光へ、死と滅びから永遠のいのちと神の国へ、すでに移してくださっているという絶対的な恵み・・このことを生きた信仰によって、私たちの内的な喜びとさせていただきましょう。
3.
聖徒(クリスチャン)の交わり・教会の交わりに加わること
罪の赦し、聖徒の交わり、新しい神の国の到来を待ち望む希望が、ここでは一つに結び合わされています。 クリスチャン生活の三位一体が描かれているように思います。「聖徒」とは、いわゆる完全無欠なりっぱな人間を指す言葉ではありません。たといどんなに罪深い存在であっても、聖い神様の所有となった人々を指すことばです。神様が聖いおかたなので、その神様のものとされた者もまた聖いとみなされるのです。ですから一般のキリスト者・クリスチャンを指すことばです。
「聖徒の交わり」とは、教会の存在を指しています。罪赦された罪人の集まりにすぎない私たちですが、「私の目にあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と、神様に受けいれられ、聖徒と呼ばれ、信仰の共同体である教会に所属するものとされたのです。
イエス様は教会に新しいただ一つの戒めを与えられました。旧約時代のユダ民族にはモーセによって、してはならない戒律・するべき戒律あわせて365の戒めが与えられました。しかし、イエス様はご自分の民である教会とそこに所属するクリスチャンにただ一つの戒めだけを与えられました。それは「愛の戒め」と呼ばれています。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
ですから教会においてはなによりも、主が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合い、主が赦してくださったように赦しあうことが求められます。赦すとは犯した個々の罪の赦しというより、罪深い存在そのものがそのまま受け入れられることを意味しているのではないでしょうか。互いに受け入れあい、認め合い、赦し合いながら、やがて来たるべきキリストの再臨と御国を待ち望む姿が、教会のあるべき姿、本来のうるわしい姿といえます。
聖徒の交わりの中にあって、やがてきたるべき御国を共に待ち望むのです。それゆえ、教会を離れて救いはあり得ないことを心に覚えましょう。聖徒の交わりから離れて信仰の完成はありえないことを覚えましょう。どんなに真っ赤に熱く燃えている炭も一つだけではやがて熱を失い冷えていくものです。寄せ合い積み重ねられてこそ、炭はお互いを熱く燃え立たせていくのです。同じことが言えます。クリスチャンはともに交わりともに仕えあい、ともに愛し合うことによって成長するのです。
救いは、神様がご計画しご準備された客観的で歴史的で完全な恵みの事実です。私たちは生きた信仰によって神の事実を、私のこころの事実とさせていただくことが可能となります。
教会に結び合わされ、その一枝とされ、実を結び続け、聖徒とともにキリストの御国の実現の日を待ち望み続けるのです。
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