「誰でも聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19-21)
20240428
今朝は 岩橋姉妹のバプテスマ 式が礼拝後に行われます。 皆さんの祝福と祈りを持ってこれからの歩みを見守り支えていただきたく願います。
・今日の礼拝のメッセージのテーマは怒りです。 怒りという感情は非常に扱いにくく、私たちを苦しめたり悩ましたりします。クリスチャンの中には怒りは罪であり、 決して怒るべきではないと考えている人も少なくありません。怒りは罪でも悪でもありません。悲しみや苦しみや不安や心配などと同様に、人間にとって生きていく上では不可欠な自然な感情の一つです。イエス様も時には激しい怒りをお示しになりました。神殿内の異邦人の庭と呼ばれる唯一の礼拝の場を占領し、商売をしている両替商人に対して、激しく怒り、鞭を振るって彼らを境内から追放されました。けれどもイエス様が用いられた鞭は人を傷つけてしまう刑罰用の皮の鞭ではなく、縄で編んだ鞭でした。 イエス様の怒りは理性によって コントロールされ、相手への配慮が失われることは決してありませんでした。 聖書は「怒っても罪を犯してはならない」 (エペ4:17 )と、怒りの感情と他者を傷つけてしまう罪とを明確に区別しています。
・怒り そのものは その強度によってレベルがあることを理解しておくことも大切です。 ちょっとカチンとくるからはじまり、思わずむっとなる、 ムカつく、腹が立つ、激怒する、絶対許せない、仕返しをしてやる、最後は殺してやるという最終段階までエスカレートしていきます。自分が今どのレベルの怒りを感じているのか、分けてみるあるいは数値化してみるというのも、 怒りに押し流されないで距離を取る方法だと思います。アメリカでは一流のプロスポーツ選手たちには「怒りのコントロール」 (アンガーマネジメント)というトレーニングが課せられているそうです。 英語で「怒り」はANGERと表現されますが、この怒りは瞬間湯沸かし器のように一瞬にして沸点に達してしまう性質をもっています。怒りのホルモンであるアドレナリンが収まるまで「6秒」待ちなさいと助言されるそうです。 あるいは100から3つ 引き算をしなさいとか、深呼吸を3回繰り返しなさいというようなトレーニングを受けます。思わずカットとなって暴言を吐いたり、手を出してしまえば即退場、試合出場停止などの処分がくだり、莫大な損失になってしまうからです。 あなたはあなたの怒りをどのように コントロールしておられますか。
・ヤコブは今日の聖書の箇所で「怒ることには遅くありなさい」(19)と語っています。 実はギリシャ語には怒りを表す2種類の言葉があります。スーモス(anger)とは、瞬間的な怒りの感情。 パッと燃え上がる怒りを指します。一方、オルゲー (wrath) は、根に持つ怒りで、恨みや復讐にも通じていく非常に根深く、そして断ち切りがたい強い怒りを表しています。ヤコブは信仰に生きる兄弟姉妹たちに向かって、後者の「根深い怒り」に対して、遅くありなさいと教えているのです。なぜなら、 人間的な怒りは神の義を決して全うしない、実現しないから(20)です 。
・このことをハマスとイスラエルのガザにおける戦争が物語っているように私には思います。イスラエルはイスラエルでナチス・ヒットラー時代の600万人にも及ぶホロコーストと呼ばれる大虐殺の歴史的経験を持っており、 国民的民族的なトラウマとなっており、いつ自分たちが全滅させられるかもわからないという恐怖心を抱いています。ハマスによる民間人に対する無差別で残虐なテロ行為によって数時間で1300人近い犠牲者がでたことから始まった戦争ですが、テロ組織の殲滅を目的に、イスラエルによる大規模な空爆や地上戦が行われ、死者の数は3万人を超え、負傷者の数は7万人を超えるまでにエスカレートしました。現地の多くの若者たちの激しい痛みと悲しみは、怒りと恨みと復讐に変わり、 立派なハマスの戦士になって敵をほろぼすのだと、復讐の連鎖が生まれ、終わりのない戦いが続いていくことが予想されます。イラク戦争の勃発に際して、ローマ法王が全世界に向かって「復讐の連鎖を止めよう」 と発した、和解のメッセージを今一度、聞くときではないでしょうか。
2. 聖書的な怒りの対処
それでは、私たちクリスチャンは、どのように「怒り」に対処することができるでしょうか。 ヤコブは「聴くに早く、語るに遅くしなさい」(19)と、問いかけています。「聞くに早く」とはどういう意味でしょうか。 「誰か私の悪口を言ってるんじゃないか」と耳をそばだてたり、噂話やゴシップを素早く情報収集する「地獄耳」 と呼ばれるような持ち主を指すのではありません。 「聴くに速く」とは、端的に言えば、「神の言葉を聞くことを大切にしなさい」との教えに他なりません。聖書の言葉に耳を傾けることが優先されるべきだ。 聖書を開き、聖書に聞く、それはそのまま神の言葉を傾聴することを意味します。忙しい日々の生活の中で私たちはゆっくり聖書を読む時間がありませんと言い訳をしてしまいがちですが、 他にすべきことが多くあると考えそちらを優先してしまうためです。せめて日曜日には朝の礼拝が10時半に始まりますから、1時間前の9時半には教会に来て、聖書を開きゆっくりと静思通読をする。 それが聴くに速くという姿勢ではないでしょうか。 神の言葉に傾聴できるから、人の言葉にも耳を傾けることができ、人の心に触れ、理解し、 関係性を深めることができると言えます。 これは神の言葉を聞く者たちへの神様からの贈り物であると言えます。
・ さらにヤコブは、聴くことに早く、「語ることに遅くあれ」と付け加えました。 この2つは1セットになっています。「語ることに遅く」とは どういうことでしょうか 。反対を考えればよくわかると思います。 世の中には、思ったことを後先考えずにパッと 口にしてしまう人、あるいはそんなことを言えば「相手がどう思うかな」などと考えもしないで口に出してしまう人も少なからずおられます。箴言17:27では、「唇を閉じていれば悟りのある者と思われる」と教えています。
・語るに遅い人とは、聞いた神の言葉をじっくりと黙想し、 思い巡らす人のことです。 聞いた神の言葉あるいは主イエスの言葉あるいはイエスを通して神がなさった御業に対して、真理の御霊である聖霊が豊かに働き、私たちの心を耕していくまで、ゆっくりと時間を委ねて待つことを意味します。聖霊が働く時に、聞いた御言葉は「心に植え付けられた神の言葉」(21)となり、魂を救う力を発揮してきます。 傷ついた心に癒しをもたらし、希望を失いかけた心に再び希望の光が差し込み、 折れてしまった心が継ぎ合わされ、囚われや迷いから吹っ切れるというようなリアルな経験となっていきます。 その時、根深く激しい怒りや恨みや憎しみや復讐の思いすら薄れて行き、かつてのように激しくその人を苦しめなくなります。もちろん完全に0になって全てが消え去ってしまうとまで理想的な状態になりませんが、少なくとも、もうそれ以上、心を深くえぐられることからは解放され、心に自由と平安が生まれてくるでしょう
イスラエルの中にもこれ以上戦争を続けるのではなく、和平の道を求めようとする人々が増えてきている。アメリカのユダヤ人社会の中にも和平を求める穏健派の人々の声が高まってきています。 彼らは痛みを知る人々です。痛みを知る人々の中から祈りが生まれ、神の言葉に聞く「柔らかさ」が芽生え、和平への静かなうねりが大きな潮流となり、復讐の連鎖を断ち切ることへとつながっていくものと信じます。
ヤコブは結びとして、「イエスキリストの言葉を素直に受け入れよう」と呼びかけています。 キリストの言葉を私たちは素直に受け入れる時、 そこに魂の救いが、傷ついた人間関係の心にも、癒しと平安の道が開かれて行くのです。 「素直になれない」のは「素直になろうとしない」からです。 素直になりたくない理由があるからです。 それは私たちの心の中に残っている悪しきプライドや自己を正当化する残りカスが心の中にあるためです。人はみな、自分は正しく相手が間違っていると、思い込んでしまいやすいからです。 スイスの牧師であるトルナイゼンは「素直であるとは罪の許しの御言葉を従順に喜んで受け取ることに他ならない」と語っています。イエスキリスト、この方こそ 十字架の上で、怒りと敵意を取り除き、和解をもたらしてくださった(エペソ2:16)恵みの根源者です。このお方のもとに集いましょう。繰り返します。十字架で死なれ、敵意の隔てを取り除き、罪の赦しのみか、和解をもたらしてくださったイエスキリスト、彼のことばを「聴くに早くなりなさい」。これがヤコブのメッセージなのです。
トルナイゼンは呼びかけています。「御言葉の教会になりなさい。 聖書の周りに集いなさい。 この御言葉を聞いて救われるために、み言葉を受け取りなさい」と。 み言葉にはあなたの魂を救う力があるのです。