「自分の舌にくつわをかけず、自分のこころを欺いているなら、そのような宗教はむなしいものです」(ヤコブ1:26)
20240512
今日は母の日の礼拝です。
母の日は、アンナ・ジャービスさんが母の死後2年経った1907年5月12日に、母を偲び、教会で記念愛を持ち、母が好きであった白いかネーションを参加者に手渡したことがルーツになっています。アンナさんは、友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、やがて州全体に広がり、ついに。 1914年には「母の日」がアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められました。
母のジャービスさんは、熱心なクリスチャンであっただけでなく 教会学校で子供たちに聖書を教え、神様の愛を伝えました。また言葉だけの人ではなくて、南北戦争の時には敵味方の区別なく、負傷兵たちの看護にあたり、女性の参政権運動のためにも活動した「行動の人」でした。社会に目を向け、 1人の女性として、言葉と行いが一致して、愛に生きた、 母への尊敬の思いが、この母の日の制定に込められています。
私たち一人ひとりも、自分の母を思い起こす時、母のどんな言葉と行いを思い出すでしょうか。あるいはやがて私たちの死後、残った子供たちや孫たちはどんなふうに私たちのことを思い起こすでしょうか。
・1人の兄弟は 伊勢湾台風の時に堤防が決壊し、押し迫ってくる水の中で、母が「この子だけは助けて」と必死に叫んで屋根の上に引き上げようとしていた母の真剣なまなざしを忘れられない、母親の愛を強く感じたと話してくれました。東京オリンピック女子柔道48kg級で銀メダルを獲得した渡名喜風南(トナキフウナ)選手のお母さんは彼女をいつも励ましたそうです。「死ぬこと以外はみんなかすり傷だ」と。このことばが彼女のエネルギー源になったそうです。演歌歌手の前川清さんは、大変ユニークな歌手ですけれども、お母さんがもう一つ変わった人だったそうです。彼には兄や姉がいたんですが弟がいなかった。それでお母さんに「赤ちゃんが欲しい」と頼んだそうです。するとお母さんは当時、町に1軒しかなかった「玉屋」というデパートで売っていると言ったそうです。彼はお小遣いを持ってデパートに行って「赤ちゃんください」と頼んだところ店員さんは何を思ったのか「キューピーの人形」を渡してくれたそうです。彼はそれを大事に抱えて家に帰ってきました。きっと大事にしてたら、赤ちゃんになっていくと思い込んでいた。まあ お母さんのユーモアというか、ゆとりというか、ちょっと天然というかそうしたところが彼のユニークな生き方にも反映されているようです。思い出す母のことばは、そのまま1人の人間としての生き方を映し出してもいるのだと思います。母への感謝を 私たちは「母の日」の今日、何らかの形で表したいものですね。
・もちろんこの世の中には母親によって虐待を受け、ネグレクトされたり暴言を吐かれたり暴力を振るわれたりといった、つらい暗い過去を背負っておられる方もいらっしゃいます。自分がやがて母親となった時に「どう子供を育てたらいいのかわからなくて、いつしか憎んでいた母親と同じように我が子を虐待してしまう」いわば、世代間連鎖の闇の中に巻き込まれてしまっている。 それがまた二重にも三重にも彼女を苦しめてしまうという悪循環の苦悩の中に置かれている方もいないわけではありません。けれどもキリストの十字架のもとにくるならば、かならず癒され、救われ、解放され、新しいキリストの生命に結び合わされ、連鎖を断ち切って母子ともに生きていくことが可能になります。 そのことを信じていただきたいと心から願ってやみません。
2. 舌にくつわをかける
さて 今日の聖書の箇所で、言葉と行いが分離せずに溶け合っていることの大切さをヤコブは強調しています。 26節には「もし自分が宗教に熱心であると思っていても、信仰に篤いと思っていても、礼拝に毎週熱心に通っていたとしても、自分の舌にくつわをかけていないならば、自分を欺いており、その信仰も熱心さも全てが虚しい」と記されています。
馬や牛はくつわや手綱(たづな)をかけないと、好き勝手に動き回り、制御がきかなくなるそうです。「自分の舌にくつわをかける」とは、自分の言葉に気を付け、コントロールすること、自分の言葉に責任を持つことを意味します。相手の話を聞かずに自説を喋りまくる、厳しいことばで圧をかけるなど、舌を制御できない状態といえます。
27節では具体的に「孤児ややもめたち」いわばこの世の小さな者たちへの愛の奉仕に生きることをヤコブは強調します。言葉を大切にし、愛の奉仕に生きてこそ、生きた信仰であるとヤコブは考えました。先週学びましたように、神の言葉を真に聞いた時、神のことばはあなたの魂を内側から突き動かし、愛の奉仕へと押し出していく。そういう霊的な力を神の言葉は持っています。何かを「しなければならない」、何かを「すべきだ」を動機とせず、そう「したい」から、それが「喜びだから」おのずと導かれていくのです。
お金のために一生懸命働くことをライスワーク、自分の好きなことを一生懸命やることを ライクワーク、神様から促されて小さな私のミッションとして受けとめて仕えることをミッションワークというそうです。「私が」ではなく、「主が」私を通して働らかれるのです。
聖書は「愛を持って真理を語りなさい」(エペソ4:15)、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロ4:6)と教えています。
私たちは教会で語る言葉と家庭やあるいは職場で語る言葉とが別であってはなりません。教会にいる時と外にいる時とでまるで別人が話しているようではいけません。言葉にくつわをかけ、自分の言葉に責任を持ち、お互いを敬うことによって、教会においても、家庭においても、真の交わりが創り出されていくのではないでしょうか。
3. 孤児や寡婦たちに
ヤコブは「孤児や寡婦たち」困っている人たちのお世話をしなさい、訪ねなさ、見舞いなさいと教えています。彼らはいわば困難と悲哀と孤独の中で踏みにじられている無力な頼るすべのない人々です。具体的な奉仕活動の前に、彼らのそばに立つ、彼らの味方になる、忘れないでともにいるとの思いやりと絆を保ち続けることが必要です。そのためには、この世的な「損得計算」「GIVE&TAKE」という価値観、肉的な考えから「きよめられる」聖別される(27)必要があります。「かき集める」ことがこの世の価値観、生まれながらの古い生き方とするならば、「与える」ことは神の子たちの新しい価値観です。 渡辺和子さんが、「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものではなく、我々が与えたものです」と語っています。
私たちはF・アイゼンバーグの「ホームレスの人々の中に共に立つイエス様」の絵を以前ご一緒に学びましたね。ヤコブが孤児ややもめたちのお世話をしなさいと語るとき、上から目線で援助するのではなく、彼らの中に共におられるイエス様にお会いしに行くのです。
これが 隣人への愛の本質です。一人一人の中に「人を見る」のではなく、「イエスさまを見る」、だから、分け隔てなく、喜びを失わず、仕えていくことができるのです。