【福音宣教】  神の憐みはさばきに優る

あわれみはさばきに向かって勝ち誇るのです」(213) 憐みはさばきに勝るのです
202405602

1. 最高の律法

ヤコブは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(28)という旧約聖書の戒めを、「最高の律法」(8)と位置づけています。「神の国の王の律法」という意味です。ヤコブは、神の愛の戒めを単に「知っている」というだけでなく、具体的・実際的に相手と関わり、手を差し伸べ、実践することが神の子たちに託されている隣人愛の戒めであると繰り返し強調しています。愛は知識ではなく、形容詞でもなく、いつも動詞として表現されます。

・イエス様のもとを裕福な若者が訪ね、(マルコ1017-22)。どうすれば永遠のいのちをえることができますかと問いかけました。しかし彼は悲しげな顔をして立ち去ってしまいました。なぜなら、隣人を愛するという戒めを真に行うためには、身をけずること、犠牲が必ず伴うことを理解したからです。若者は宗教的な戒めや対人間的な戒めは、「幼い時から守っています。ほかに何が足りないでしょうか」とイエス様に尋ねました。

彼が戒めを守れたのは、親が裕福で親の庇護の中で、豊かさの中から貧しい人や孤児を助けることができたからであったと思われます。けれども「あなたの全財産を売り払って貧しい人々に施せ」とイエス様からチャレンジを受けたとき、身をけずって、犠牲をはらって隣人を愛することの損失と痛みを覚え、身を引いてしまったのでした。自分を愛することはできても、隣人を愛することとの間には、垣根があった、壁があったのです。真に隣人を愛するためには、痛みや犠牲を伴う垣根や壁を超える必要があります。

・当時、もっとも貧しくされた人々の代表は、やもめや孤児たちでした。彼らを分け隔てなく愛し、信仰の家族として大切にするためには、理解し、寄り添うという精神的な支援ばかりでなく、金銭的に生活面において支援する必要がありました。つい先日、読んだ人権擁護団体の機関誌にこんな記事が掲載されていました。父親に虐待され心傷つき、心療内科に数年通う若い女性が、自立しようと地元の女性相談や市役所、県の女性センターに相談した。相談に乗ってくれた女性たちは優しく話を丁寧に聞いてくれた。「それは大変でしたね、つらかったですね」と。自分の話を信じてもらえるだろうかと怯えていた私はとても嬉しかった。今まで怖くて他人に助けを求めるということができなかった私は、優しい対応には救われた気持ちになった。しかし解決策は何もなかった。「あなたの状況ではシェルターには入れない、家に帰りたくないならホテルにでも泊まるしかない、お金を貯めて自分で家を出て行くしかない」と言われた。私は絶望した。彼らはみな優しいが、それは優しいだけであった。言葉は言葉だけでしかなかった。社会が私を生かす理由がないと知った。・・お金や行動でしか救えないものがある。」という切実な訴えが赤裸々に綴られていました。

これが現実社会の実態であり対応の限界なのです。心理師として相談業務に携わりながら、私も幾度も資源的な限界を感じました。地方自治体や国の公的機関もそれぞれ限界を抱えています。重荷をもった無数の民間ボランティア団体が最後の受け皿になって精いっぱい生活支援を行っているものの、それでもネットワークからこぼれ落ちてしまう人々の数は少なくありません。

だからこそ痛切に思うのです。神様により頼み、神が守ってくださるから、「大丈夫だ」という平安をもたらす信仰を、心の支えにして生きていくのでなければ、「社会が私を生かす理由がない」とまで追い詰められ、絶望の淵に投げ込まれてしまうのではないでしょうか。最後のセーフティネットは、神様への信仰でしかないと、私は痛感しています。そのため、教会は心を込めて、「信仰による十字架の救い」を語り、キリストと神のもとに導くことに全精力を注がなければなりません。と同時に、自立したくても自立できない小さくされた人々に目をとめ、できうることをさせていただきたいと願う「祈り」を分かち合う必要があります。教会にそのような祈りがあるならば、神様は重荷と使命を持った賜物とネットワークを持つ働き人を教会に遣わしてくださると私は信じています。

2. 終末における神の審判

ヤコブは「一つの罪を犯すことは律法すべてに違反すること」であると強調しています。貧しい人や夫を亡くした妻や孤児たちを差別したり、さげすんだり、排除する「えこひいきの罪」は、「愛の律法」を破ることであり、それは「神の律法全体を破る」ことに等しく、「違反者」として、終末の審判の時に、裁きを受けることになると問いかけています。

終末時における神の審判には2種類あります。未信者は「キリストを信じる信仰を持っているかもっていないか」によって裁かれます。行いや倫理的高潔さ、この世での功績や業績も一切問われません。基準は信仰です。一方、すでにキリストを信じた者たちは、聖霊を心に宿し、神の愛に満たされた者として、この世の貧しくされた人々、小さくされた人々を、えこひいきすることなく隣人として愛をもって接し、奉仕する実を結んだかによって審判を受けると教えています。それは審判というよりは神様からの「報い」あるいは「神様からのねぎらい」「神様からの感謝」とさえ表現できうると私は思います。マタイ25:40-45では、「これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは私にしたのです」と、イエス様が、たとえ小さな奉仕であってもこの上なく喜んでおられることからも明かです。主に喜んでいただくことは、クリスチャンの喜びではないでしょうか。

3. 憐みは裁きに優る

私たちの主イエスキリストは地上での33年半の生涯において、「貧しい者、孤児、夫に先立たれた妻、離縁された妻、薬など買えない病人、在留異邦人、旅人、犯罪歴のある者、遊女」など、社会的に弱くされた者、見放された者を「友」と呼び、彼らに居場所を与え、神との交わりを回復させ、癒しと救いを与えました。人間としての尊厳を回復され、そればかりか、さらに神の子としての身分を与えてくださり、天の御国の民としての誇りと喜びをも与えてくださいました。栄光のキリストの愛の御霊を宿す、私たちキリスト者だからこそ、兄弟愛と隣人愛の実を、身近な生活の場で結ぶように召されていることをこの朝、覚えましょう。

では、どのように実践することができるでしょうか。どこかえ出かけていく必要があるでしょうか。

スイス改革派のトュルナイゼンは、「主は貧しい者、苦しむ者に、私たちを幾度も繰り返して出会わせることによって、そのことを成し遂げてくださる」と語っています。神様は苦しむ者、貧しい者、病める人を身近においてくださるというのです。繰り返し出会わせてくださっているというのです。ところが、私たちは、あの良きサマリヤ人のたとえ話に登場する、祭司やレビ人たちのように、見て見ぬふりをして脇を通り過ぎてしまったり、無関心になってしまっている。ここが問題なのです。

けれども主の憐みの霊は私たちに繰り返し語りかけ、私たちに気づきを与え、促してくださいます。神の憐みは私たちの愚かさ、愛の乏しさ、無関心にはるかに勝ります。ロバから降りて、駆け寄り、声をかけ、傷ついた者をロバに乗せ、自分は歩いて宿屋まで行く隣人への愛の「道」を導かれます。主の憐みが、主と共に歩む者を包むのです。主の憐みは裁きに優る、勝利すると約束されています。

私たちにはわからないことや限界も多くあります。しかしわかっていることは、主が今も働いておられること、そして主にはできないことはなにもないということです。

あなたが置かれた身近な場所で、神が出会わしてくださる小さくされた者たちを覚えましょう。訪ね、手を指し伸ばし、「神があなたとともにおられます。私もともにいます」と、声をかけましょう。あなたの手にある一杯の水を携えて。

「私の弟子だといううので、この小さな者たちの一人に、水一杯でも飲ませるなら、まことにあなたに告げます。そのひとは決して報いに漏れることはありません」(マタイ10:42)

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