「信仰ももし行いがなかったなら、それだけでは死んだも同然です」(2:17)
202405609
信仰も生きた信仰が求められています。ヤコブは2章後半で次々と鋭い問いかけをしています。行いが伴っていない信仰は、「何の役にも立たない」(14)、「その人を救うことができない」(14)、「死んだもの」(17)、行いが伴わない信仰があるなら見せてください(18)、行いのない信仰がむなしい」(20)。極めつけは24v「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」と強調しています。
これらは一見すると、救いは行いを必要とする、人は行いによって救いを受けるとも、受けとめかねない言葉のように思えます。 宗教改革者のルターは「ヤコブ書には十字架も、復活も、聖霊も、何一つ記されていない。行いが強調されている。福音が記されていない」として、福音的な内容から外れた「藁の書簡」と評しました。
人は行いによってではなく「信仰によって救われるのです」(ガラ2:16、ロマ3:28、4:25)と、クリスチャンは耳にタコができるほど繰り返し繰り返し、聞かされてきましたが、やっぱり、信仰だけじゃなくて行いが伴わないと天国へ行けないじゃないのですか? と不安になる方もおられますね。行いが伴っていなければ、そんな信仰は「死んだも同然」と聞けばドキッとしてしまうのではないでしょうか。いかがですか?
でも、大丈夫です。はっきり牧師として宣言します。「あなたの信仰が死ぬようなことはありません」。信仰はあなたを神の国に導き入れるその時まで、決して死ぬことがありません。あなたが臨終を迎えた時、同時に信仰もご臨終というわけではなく、あなたの信仰はあなたを天の御国で、イエス様に手渡すまで生き続けます。あなたの魂をイエス様の手に委ねてして、信仰は完成するのです。なぜならば、神様からの恵みの贈り物である信仰は、その役割を全うするまでは、あなたから奪われていくことも、離れ去っていくこともありません。神様からの贈り物である信仰はそんな軟弱、ヤワなモノではありません。
サタンは私たちをいつでも巧妙に揺さぶってきます。「あなたの信仰は死ぬかもしれない。危篤状態に陥るかもしれない。だから一生懸命自分で頑張って自分を救わなければならないぞ!」と。サタンはあなたの信仰を頑張らせることで、あなたを神様から遠ざけようちとします。自分で頑張って自分を救おうとすればするほど、疲れ切り、無力さに直面し、イエス様の十字架による贖いを見失わせてしまうのです。実に巧妙です。贈り物(GIFT)である救いを、人間的な努力や頑張りによる報い(報酬)にすり替えてしまうのです。
1. ヤコブはここで「救いは行いによるのか信仰よるのか」あるいは「人は行いによって義とあれるのか信仰によって義とされるのか」という、救いに関する二者択一の議論を語っているのではありません。この点に関しては「人は信仰によって救われる」と、すでに答えは明確に出ています。疑いの余地などは微塵もありません。したがってヤコブは、「生きた信仰は愛の実践を伴う」つまり「信仰と行いは一体化」していることを強調しているのです。
人間のお母さんのなかに、ゴリラや犬の子供が宿ることがないように、信仰という母は「愛」という子供を宿し、出産し、育み続けるのです。
教会に植えられている2本の葡萄の木があり、一本はイスラエルの葡萄、一本は日本の葡萄の木。今年も小さな実が付きました。ところがこの葡萄の木が一本はリンゴの実を結ばせ、一本はレモンの実を結ばせることはありません。葡萄の木はやはり葡萄の実を結びます。神様からの贈り物である「信仰」は「愛の実」、隣人愛というやわらかく美しい実をおのずと結ぶのです。おのずと結ぶことに注目しましましょう。「がんばって結ばせる」のではありません。慈しみと憐みに満ちた神様からの贈り物である信仰は、おのずと慈しみと憐み、隣人への愛を豊かに結ぶことができるのです。それは御霊の愛の働きです。
2. 兄弟愛から隣人愛へ
イエス様は「あなた方は互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と、信仰に生きる者たちの互いの愛、兄弟愛をそだてることを命じられました。これはイエス様の新しい唯一の戒めです。ですからエルサレム教会の指導者であったヤコブは、教会の中で貧しい人々や夫を失った女性や両親に死なれたり捨てられた孤児たちを、さげすんだり、えこひいきしたりすることなく、その生活といのちを支えるようにと、十分配慮するように求めました。
イエス様の兄弟愛はやがてさらにキリスト教会の外のユダヤ人たち、サマリア人などの混血民族、さらにはユダヤ人が忌み嫌う外国人・異邦人にまで対象は広がり「あなたの隣人を愛しなさい」と語られています。そしてさらに「あなたの敵を愛し、あなたの敵のために祝福を祈りなさい」(マタイ5:44)とまで広がり、高められ、深められています。
なによりイエス様ご自身が、神に敵対している全人類のために、罪人のために、みすから進んで十字架にかかり、身代わりとなって死なれ、罪の赦しをもたらし、神との和解の道を開いてくださいました(ロマ書5:5-8)。
この十字架の愛は伝染します。志のある人々によって受け継がれていきます。そうしなければならないという戒律の基づくのでなく、キリストの御霊によって、愛の御霊によって、十字架の道を同じように歩む人々によって、受け継がれてきました。歴史に名を残すような有名な人々だけではありません、誰一人その名を知らない、空の星のように、浜辺の砂のように、数えきれないほどの無数の人々によって、それぞれが置かれた場所で、それどれが出会う人々の中で、受け継がれてきました。
私が尊敬する牧師がいます。信仰に満ちた母だったそうです。私もその教会で1年半、奉仕をさせていただいたとき、毎日朝6時から教会に来て祈っておられました。その部屋で私は寝泊まりしていましたから、5時には起きてカギを開けて迎えなければなりませんでした。そのお母さんが天に召された後、牧師が机を整理すると、引きだしから次々とお礼状や領収書が束になって出てきたそうです。クリスチャン関係のさまざまな福祉団体、宣教団体、施設など。朝の祈りに覚えてこんなに捧げものを隠れたところでしていたのかと改めて母親への尊敬の思いを新たにされたそうです。
私がたいへん好きなこんな話があります。紹介します。町の八百屋のご主人が大きな看板を掲げました。「世界一やすい店」と。ほとんど新しい客は来ませんでした。いかにも嘘っぽい。そこで彼は一工夫し、看板を書き換えました。「日本一安い店」。結果は同じでした。最後に彼はもう一度、看板を書き換えました。今度は新しい客が多く来ました。どんな看板だったでしょうか。そこには「町内一安い店」と書かれていました。
私はこの話が好きです。愛の実践は、大風呂敷を広げてもほとんど役に立たないからです。自己満足にすぎないとすればむなしい。言葉だけでしかなければそれもむなしい。
自分が置かれた身近な場所で、神様が自分を置いてくださった場所で、自分が出会う人々の中に、「コップ一杯の水を渡してやってほしい」と神様が願っている小さな貧しい人々がいるのです。そしてその中にイエス様もともにおられるのです。フィリツツ・アイヘンバーグの版画に記されているように、私たちがお仕えするイエス様はそのただなかにおられるのです。
渡辺和子さんの言葉を思い起こしましょう。「あなたの置かれた場所で咲きなさい」。置かれた場所にいる人は必ずしもあなたにとって、心地よい人ばかりとは限りません。普段ならあえて近づかないような難しい人、やややこしい人、めんどくさい人も多くおられることでしょう。でもそこが「あなたの置かれた場所」でもあるのです。そして、そこにイエス様がきっとおられます。あなたが喜びをもってお仕えする主イエス様がそのただなかにおられるのです。
あなたが置かれた身近な場所で、神が出会わしてくださる小さくされた人々を覚えましょう。足を運び、訪ね、手を差し伸ばし、「神があなたとともにおられます。私もともにいます」と、声をかけましょう。あなたの手にある一杯の水を携えて。
「私の弟子だというので、この小さな者たちの一人に、水一杯でも飲ませるなら、まことにあなたに告げます。そのひとは決して報いに漏れることはありません」(マタイ10:42)