【福音宣教】 イサクをささげたアブラハムの信仰

私は全能の神である。あなたは私の前に歩み全き者であれ」(創世記17:1) 

20241623

ヤコブの手紙の著者、イエス様の弟でエルサレム教会の指導者であったヤコブは、この手紙を通して、繰り返し、繰り返し「信仰と行い」の密接な関係を強調しています。

信仰があれば行いはもう必要ないと極端な考えに走ってしまう教会メンバーに対して、ヤコブは「それは死んだ信仰のようなものだ」と勧告します。聖霊と共に今も生きて働かれるキリストを信じる信仰は、兄弟愛から隣人愛、さらには敵をも愛し赦し祝福さえ祈ることを教えられた「イエスの愛」の実践者へと私たちを押し出していきます。そのため、旧約時代の実例として、ヤコブは21節からは一人息子イサクを神にささげたアブラハム、25節からはヨシュアが派遣した偵察隊二人をもてなし、救い出したカナン人遊女ラハブの二人を取り上げています。まず、「信仰と行い」が完全に一致している模範として、今週はアブラハムを紹介します。

1. 信仰によって義とされたアブラハム

創世記12:1-4で、75歳のアブラハムは神の声に従い、家族を連れて、慣れ親しんだ緑豊かなユーフラテス川を越えてまだ見ぬ地、砂漠と荒野の地カナンへと旅立ちました。アブラハムに幾多の試練があり、いまだに跡取りが与えられませんでした。忠実なしもべを跡取りにしようとしたとき神は、「夜空の星を数えることができるなら数えなさい。あなたの子孫はそのようになる」(155)と語られました。「アブラハムは主を信じた。それでそれが彼の義と認められた」(6)。まだ見ぬ事実を、神の言葉、神の約束のゆえに、無条件で信じた。信仰のゆえに義と認められたアブラハムでしたが、その信仰が100%完全なものとなったわけではありませんでした。なかなか跡取りが与えられないため、86歳の時、妻サライの提案を受け入れ、彼女の女奴隷ハガルを通して子をもうけ、生まれた子イシマエルを跡取りにしようとしたものの、結果的に正妻サライと女奴隷ハガルの間に深刻な確執が生じ、ハガルとイシマエルが逃亡し、死に瀕するという失敗と罪を犯してしまった。神様も13年間沈黙を続け、アブラハムは神との親しい交わりを失ってしまいました。

99歳の時、再び神はアブラハムに「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全たきものであれ」(171)と語り、名前をアブラムからアブラハム(多くの国民の父)へ改名させ、翌年には、90歳になる妻サラに子が与えられる(1719)と約束してくださった。こうしてついにアブラハム100歳、妻サラ90歳の時に男子が生まれ、その名はイサクと名付けられました。アブラハムにはまだ苦悩が続きました。13歳になったイシマエルがイサクをからかい再びサラとハガルの間の確執が再燃したのです。その結果再び、アブラハムは苦しみ、悲痛な思いでハガルとイシマエルを荒野に追放せざるを得なくなったのでした(2111-14)。

こうしてみると、神のことばを信じ、神の約束を待ち望んだアブラハムですが、実際は信じ切れず、現実に流され、疑い、迷い、人間的な安易な方策に走り、失敗し、苦悩しました。義とされつつも彼はまだ未完成なのです。未完成ながらそれでも神の子としてくださる、これが神の恵みです。一流の陶芸家は窯から焼き上げた陶器が、満足できない場合割って捨ててしまうそうです。完成品でなければ捨てられるのがこの世です。しかし神は不完全な者をそれでも愛してくださり、終わりの日に完成してくださるのです。神の目にはすでにその日の完成した姿が見えている。だから私たちも、今の自分の現実を見て一喜一憂するのではなく、嘆き悲しみ自分を否定するのでなく、終わりの日に完成する栄光の姿の自分を信じましょう。信仰とはまだ見ぬ事実を信じることなのですから。

Ⅱ 信仰によってイサクをささげたアブラハム

創世記22章に入ると、神様はアブラハムに試練を与えられました。「あなたの愛する一人息子イサクをモリヤの山に連れて行き、彼を全焼の捧げものとして捧げよ」(221)と命じられました。驚くことにアブラハムはすぐさま翌朝にはイサクを連れて出発しました。妻サラにさえ相談することなく。モリヤの山まで3日の距離、アブラハムは何を考え、祈り続けたことでしょう。

1妻にも誰にも相談しなかったのは、アブラハムと神との二人だけの直接的な関係の中で、神に問いかけ、神に聴き、祈るためであったと思います。周囲の意見を聞くことはとても大事なことです。しかし神のしもべには「密室でとことん祈る」ことが最優先されるべきです。跡取りのないアブラハムは、しもべを養子に迎えようと考えたり、女奴隷ハガルから子をもうけようとしましたが、みな失敗でした。そうした失敗から彼は学んだのでしょう。

信仰はあくまで「神と私」との関係であり、第3者を入れる余地は本質的にはないこと。余分なことばを遮断し、雑音を締めだして祈ることを、幾多の失敗や痛みを通して、アブラハムは深く学んだことと思われます。

2モリヤの山への3日の道のりは、アブラハムが神の約束を確認するための道のりでした。アブラハムがあれこれ神様と取引をしたり、どうしてですか?とつぶやいたり、イサクを連れどこかへ逃げ出そうとした様子は見受けられません。「星の数のように子孫が増え広がる」との神の約束は「永遠の契約」(177)とさえ宣言されている。イサクを全焼のいけにえとして捧げることで契約が途絶えてしまうことがありえるだろうか。試されているのは「イサクを捧げる」という行為そのものよりも、神の約束を「信じ切れるか否か」にあるのではないでしょうか。信じるだけでは、すぐに疑いや迷いという不信仰が湧きあがってきますが、信じ切ることによって、神の約束は永遠の契約であることに揺らぎがなくなるのです。ヘブル11:19には、アブラハムはイサクの復活さえ信じていたと記されています。その証拠に従者の者たちに「私たちは礼拝をささげ、お前たちのもとに戻ってくる」(225)と告げていることはその証拠といえます。

3)いよいよ祭壇を築き、薪を用意し、イサクを縛って寝かせ、イサクの胸元にナイフを振り降ろそうとした瞬間、主の使いが現れ「何もしてはならない。今私はあなたが神を恐れていることがわかった。あなたは自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(2212)と語りかけ、イサクの代わりの雄羊まで用意してくださっていました。アブラハムの信仰がついに完成したのです。

一人息子を神にささげることは、アブラハムとサラとイサクという信仰の家族、神の約束の言葉に生きる家族にとって「危機的状況」でした。アブラハム一族が崩壊・消滅しかねないビッククライシスでした。しかし、信仰に生きる民として大きく成長するまさにターニングポイントとなりました。こころに深い痛みや傷といったトラウマを残しかねないほどの「危機」が、そのひとの人生に、新しい力や強さや絆といった大きな成長をもたらすことを「トラウマティックグロス」(深い傷から生まれる成長)と言います。

アブラハムは夜空の無数の星を見あげ、神の約束を信じました。イサクをささげるという行為をもって信仰の完成へと導かれました。そして、信仰の完成された姿を、模範として後の世に示したのです。この信仰による実践のゆえに、神はアブラハムを「友」(イザヤ418)と呼ばれました。

ヤコブは、信仰が現実生活の中で生き生きとした働きを創りだし、教会内の小さくされた人々に対して、愛の実を結んでいくことを願いました。神様は木にとまっている蛹ではなく、生きた蝶々をご覧になりたいのです。セミ殻ではなく鳴き続けるセミの声をお聞きになりたいと願っておられます。すべてのクリスチャンはキリストにあって新しくされた神の作品です(エペソ210)。

キリスト者にとってのすべての良き行いは、救いの手段ではなく、恵みによる御霊が結ぶ実、救いの結果なのです(ガラ522)。神の作品としての私たちをお皿に例えるなら、少々古びていても、ひびやかけがあっても、どこか一部が壊れていてもかまいません。お皿自体の価値ではなく、そのお皿に何が盛られているかが大切です。御霊の実が盛られていることが神の喜びであり、価値あるすばらしいことなのです。ロマ4:24-25は、アブラハムの信仰は、私たちがキリストを信じて信仰と愛と希望に生きる歩みのひな型とされていると教えています。

「すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせたかたを信じる私たちも、魏と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」(ロマ4:24-25)

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