【福音宣教】 こころの泉から湧き上がる賛美

「賛美と呪いが同じ口から出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことはあってはなりません」(ヤコブ3:10) 

20240714

先週、「舌を制する者はこころを制する」(32)とのテーマで、私たちが口にすることばの重要性を学びました。言葉は人を生かすこともできれば、反対に人をつぶしてしまうこともできるほど、大きな影響力をもっています。良い意味で言えば、巨大なタンカー船も小さな舵で船が進む航路が決定され、長い航海を終え、無事港に着くことができます。

巨大なジャンボジェット機も小さな尾翼によって方向が定められ、安定して目的地に向けて飛び続けることができます。一方、悪い意味で言えば、小さな消し忘れのタバコの火が山火事を引き起こし、森林を焼き尽くして灰にしてしまうこともあります。体の中では小さな器官にすぎない舌ですが、「舌は休むことを知らない悪であり、死を来たらせる毒で満ちている」37-8)とヤコブは語っています。神学校の説教学の先生が冗談で言いました。昔、旅人を背負って川を渡らせる仕事をする人を人夫と呼んだが、「人夫殺すにゃ刃物はいらぬ。雨が3日もふればいい」という言葉があるそうな。そこで、「牧師殺すにゃ刃物はいらぬ、あくびの一つもすればいい」と。そうならば実際、牧師はかなりへこみますね。幸い私は、今日まで守られてきました。皆さんはほんとうに良き聴き手ですから。むしろ、「牧師生かすにゃ、説教恵まれましたとほめんでもいい、アーメンの一言で十分」ですと言いたいほどです。

1. 舌の持つ二面性

*さて、舌には毒だけではなくもう一つの罪深い性質があります。舌の持つ「2面性」俗にいう「2枚舌」です。右の人にはこういい、左の人には矛盾するような反対のことを平気で言うという悪意に満ちた行為です。単純に人を嘘でだますというよりもはるかにしたたかで、悪どい行為といえます。

ヤコブはこうした舌の持つ2面性を9-10で、具体的に「同じ舌で父なる神を賛美し、同じ舌で神にかたちどられた人間を呪ってしまう。こんなことが教会の交わりの中で、さらにはクリスチャン生活の中にあってはならない」と強調しています。

11-12節でも、繰り返し、「神が創造された自然界の中で、一つの泉から甘い水と苦い水が湧き出ることがあるだろうか。イチジクの木からオリーブの実がなったり、葡萄の木がイチジクの実をならせたりすることがあるだろうか」と問いかけています。神が創造し、良しとされた被造物の世界にそのような相対立するような意図的な2面性がみられるだろうか、答えはNOである。ところが人間だけが平気で二枚舌を使いこなす。

教会の礼拝において、創造主である神を賛美しほめたたえる一方で、教会の交わりの中において、その神のかたちに似せて創造された人間を、しかも同じ信仰に立つ兄弟姉妹を、貧乏だからいってえこひいきし、夫を失った無力な女性や生きるすべさえ知らない親を失った孤児たちや、重い病気や障害を負って社会の片隅に追いやられている人々に対して、さげすみ、軽蔑し、罵倒し、恨み、憎み、ついには呪うことさえしてしまうとすれば、神の創造のみこころに反する罪深い行為ではないかと、ヤコブは言葉鋭く問いかけているのです。

2. 人間の持つ二面性

さて、ここでクリスチャンとして考えてほしいことがあります。言葉というものはその人の心、つまり思いと感情と意思から湧き上がってきます。アダムが罪に陥って以来、生まれながらの人間は二面性を持つようになりました。こころの中で、良いこと正しいことを行いたいと思いながらも実際は願ってもいない悪や不正を行ってしまう。パウロはこの葛藤を「誰がこの死のからだから救ってくれるのか」(ロマ724)と切に祈っています。人を愛したいと願いながらも憎しみを同時に抱いてしまう。赦したいと祈りながらも怒りと恨みを覚えてしまう。ある子供が言いました。「先生、僕の中には良い天使と悪い天使一緒に住んでるの。たいがい良い天使が負けてしまうの」と。このように相反する二つの思いを同時に抱えて生きていることを「アンビバレント」(両価性)といいます。

これは生まれながらの人間が抱えている自己矛盾であり、2重人格かと思うほど、実に複雑な心境といえます。クリスチャンになれば二面性は解消され、いつでも澄み切った天使の心になりますと言うのは思い違い、間違いです。さらにそうならなければなりませんというに及んでは、人を苦しめる律法主義に他なりません。自分の中にいつでも葛藤があり、自己矛盾があり、アンビバレントな感情があり、その中で日々揺れ動いている、そうした二つの面を抱えながら社会的に失敗しないようになんとかふるまって生きている。完全でも完璧でもない、矛盾や弱さを抱えていることをそのまま、認めることが、「あるがまま」生きることなのです。

ところが、感謝なことに、そのままで終わらせないのが、福音の力です。イエス様を救い主と信じて生きる者たちには、神の恵みの力が働くのです。その天からの恵みの力を「聖霊のお働き」と呼びます。十字架で死なれよみがえられたイエス様が約束してくださった「もうひとりの助け主」(ヨハネ1416)が与えてくださる「天からの恵みの力」です。

「世の人はこの方を受け入れることもできず、見ることもできず、知ることもできない」(ヨハネ1417)とイエス様が言っておられるように、神の子たちに与えられる隠れたシークレットパワー、恵みの力です。聖霊は、古い生まれながらの肉に属する自我を徐々にご支配してくださいます。イエス様のご性質をいわば聖霊が「おすそ分け」してくださるのです。こころがイエス様の愛で満たされるとき、私たちの思いと感情と意思が、イエス様のようにおのずと、いつしか、自然に変えられていくのです。人の努力ではありません。

神様が創造された世界には、イチジクの木はイチジクの実を結び、葡萄の木はブドウの実を自然に結ぶように、イエス様を信じ、イエス様を救い主として心に迎えた者たちは、イエス様に似る者へと、多くのアンビバレント性や自己矛盾や葛藤や弱さを抱えながらも、成長し、終わりの日に完成するのです。その日までは私たちは「未完成作品」なのです。未完成作品ながら、神様は私たちを喜んでおられ、私たちに期待しておられるのです。なぜなら私たちを完成させてくださることこそが、創造主なる神様の大きな喜びだからです。私たちの信じている神は裁きの神ではなく、子の成長を見守る父なる神であることを感謝しましょう。

昨日(2024/7/13 再放送)、黒柳徹子さんが幼いころ学んだ小学校「トモエ学園」の番組をNHKが放映していました。戦前の全体主義・軍国主義に教育現場が染められていく中で、もっと子どもたちの個性を伸ばしていきたいと音楽教師の職を辞してフランスで学んだ小林宗作青年が、日本に帰国後、志を同じくする教師たちと設立した学校でした。集団教育から弾き飛ばされた子供たちの中でも、とびっきり落ち着きのない手を焼かせた子が徹子さんだったそうです。あるとき汲み取り式のトイレの中に大事にしていた財布を落としてしまった。彼女は長い柄のついた柄杓を物置から持ち出し、中庭の汚物槽のふたを開けて、せっせと外にくみ出した。あたり一面強烈な匂いが漂いだした。たまたま通りかかった校長の小林先生は、たった一言だけ彼女に、「終わったらもとに戻しておきなさい」と、ことばをかけたそうです。「何してるの!、やめなさい、きたないでしょう」など一言も叱らなかったそうです。

「どんな子どもも素晴らしい才能を持っている」、それを見出し,伸ばすことが、小林先生の教育信念でした。だから、徹子さんにも「君はいい子なんだよ」と言い続けたので「嘘をつかない小林先生のいうことならほんとうだ」と自分でも信じるようになったそうです。小林先生は、欧州旅行で新渡戸稲造と出会い、帰国後には小原國芳にこわれて玉川学園創設に尽力したそうです。小原が開いた玉川学園の教育方針は「神なき教育は知恵ある悪魔をつくる」でした。相通じるものがあったのではないでしょうか。教会もそうでありたいと心から願っています。個性の豊かさと多様性を喜び、ともに生きる場でありたい。

3. 新しい泉となられた内なる主イエス

皆さん、ヤコブは「一つの泉から甘い水と苦い水は湧き上がらない」と言いました。イエス様は新しい一つの泉となっていのちの水を湧き上がらせてくださるお方です。生まれながらの私たちの中からは甘い水も苦い水も塩水もいろんな水が絶えず湧き出て来ます。落ち着いているときは澄んでいるように見えても、環境の変化が起きて少し揺さぶられれば、たちどころに底にたまった泥が浮かびあがってきてしまいます。そんな私たちの内に住んでくださる「聖霊」は、変わることなく神への賛美と感謝の言葉を湧き上がらせてくださいます。「誰がこの死のからだから救ってくれるだろうか」と祈ったパウロへの答えは、コロサイ316に記されています。
「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせて、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」と。キリストこそ私たちの内に開かれた新しい泉なのです。

旧約聖書において、新しい一つの泉がメシヤによって開かれることが預言されています。

イザヤ 41:18 「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」

ゼカ 13:1 「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」

まさに、イエス様こそが天から贈られた新しいいのちの泉であり、荒野のような不毛の心に、砂漠のようなすさんだ心に、泉を開いてくださり、御霊の生命と平安と愛を尽きることなく湧き上がらせてくださいます。この新しい泉からは、神への賛美と感謝の水のみが湧きあがります。神を賛美し、神をほめたたえることなど知らなかったかつての古い生まれながらの私たちからは、苦い水や濁った水がごぼごぼと流れ出たのではなかったでしょうか。「神などいない」という傲慢な思いや、神への不満や不信や愚痴のことばしか出てこなかったのではないでしょうか。

今も決して安全、完璧ではなく、欠けや失敗の多い愚かで罪深い私たちですが、それでも今、感謝の心をもって神をほめたたえ、主イエスの十字架の御業を賛美する者とされていることを、感謝しましょう。

「踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある」と言おう」(詩篇877


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