「求めても得られないのは自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」(ヤコブ4::1-3)
20240804
ヤコブは初代教会内のさまざまな闘いや争いごと(複数)にこころを痛め、この手紙を記しています。
2章では、教会内の貧しい人、夫を亡くした女性たちや、親を亡くした孤児たちといった生活するすべのない無力な人々、病人を顧みないで裕福な人々ばかりに目を向ける「えこひいき」つまり、差別や偏見の問題を取り上げました。3章では、「体の中の小さな器官である舌がもたらすわざわいは、消し忘れた小さな火がやがて森を焼き尽くす」というたとえを用いて、言葉による暴力、言葉による中傷誹謗の問題を取り上げました。さらに、この世の知恵では「悲しいかな神を知ることができないという限界」と、違いを排除したり抑え込むのではなく、多様性として受け入れ尊重し合う「寛容さこそ平和を生み出す神からの知恵」であることを懇ろに語りました。
4章に入り、教会の生命線でもある祈りの問題を取り上げ、1-3節では「祈りと人間の欲」との関係に焦点を当てています。5章13節以降、再びヤコブは「祈りと癒し」「祈りと神の奇跡」「祈りとリバイバル」の問題を取り上げています。
1. 祈り合うかわりに争う教会
教会は聖霊による平安と平和が満ちるところであり、何か問題が起こればともにまず祈り合う世界です。ところがヤコブはあなた方の中に多くの「戦い」と「争い」(両方とも複数形)があると嘆いています。4:11で「悪口を言い合ってはならない」と命じられているように、もめごとが多く、議論し、激しく言い合い、相手を責め、あたかも戦争状態になってるとさえ誇張しているほどです。
何が原因なのか詳細は記されていませんが、根本的にあるのは「自己中心な欲望(ヘードナイ 複数形)」-すべては自分の思い通りになるはずだという湧きあがる欲求-にあると指摘しています。
世の中で起きている多くの恐ろしい事件の背景には、自分の思い通りのものを手に入れようとする欲、得られない妬み、うらみ、そして怒りが背景にあることが動機として挙げられています。
2. 求めても得られないのは悪い動機で求めるから
教会は祈りの場とされています。主イエス様もそのように願っておられます。「私の父の家は祈りの家と呼ばれるべきだ」(マタイ21:13)と。「台湾の教会は賛美の教会、韓国の教会は祈る教会、日本の教会は会議ばかりしている懐疑的な教会だ」としばしば揶揄されていますが、私たちは謙虚に考えなければならないかもしれません。イスラエルのある教会を訪ねたとき、観光客がいる中で、一人の女性が会堂に入ってきて片隅でっ静かに祈っていた光景を忘れることができません。私たちは祈りからすべてを始めなければならないと痛感します。
祈らなければなにも起こりません。しかし祈っても何も起こらない。確かにそのような現実があります。でも「だから祈っても仕方がない」とつぶやいては決してなりません。それはサタンがあなたの祈りの世界に幕を引く策略です。もし祈りの世界に幕を引いてしまったら、神様のすばらしいドラマを観ることができなくなってしまいます。これほど残念でもったいないことはありません。
祈っても祈りがきかれないのには2つの大きな理由があります。
第一に、「まだあなたが熱心に祈り続けていない」からです。主は「あきらめず」「失望せず」祈りなさい、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)。あるいは「信じて祈り求めたものは何でも受けるであろう」(マタイ21:22)と教えられました。信じて失望しないで祈り続けているか否かを、まずチェックしてみましょう。祈ったことさえ忘れているような淡白な祈りになっていないでしょうか。本当に必要なものであればあっさり引き下がることはないはずです。信じてあきらめず、祈り続けるほど大事なことを、神様に祈り求めているのでしょうか。
第二に、祈っても与えられないのは「悪い動機で祈っているから」そして「自分の快楽のために使おう」としているからですと、(3)ヤコブは断言しています。動機と目的が外れているからです。神の栄光のために、主キリストの御名があがめられるために、地に平和があるようにと願われる父なる神の御心が地において実現するために、一人でも多くの人々が福音を聞き、信じ、神の子として誕生し、地に満ち満ちるために、という目的からそれてしまっているからです。私利私欲のための祈りに対して、神様は答えなければならない義務を負ってはおられません。聖書の神を「ご利益の神様」扱いしてはなりません。「手のきよい人は力を増し加える」(ヨブ17:9)とあります、「聖い手」(聖い動機と目的)をあげて祈りなさい。
第三からは、もうすでに祈りがきかれているけれどまだ実現していない領域です。今までの2つは消極的否定的側面でしたが、以後の3つはたいへん肯定的な側面です。私もいつも思いめぐらし励まされていいます。
第三は、「まだ神の時が来ていないから」です。「すべての業には時がある」(伝道の書3:1)と聖書が教えるように、祈りはすでに聞かれているものの、あなたの外的環境を神様が整えてくださっている最中だからです。こんなエピソードがあります。赤穂藩の家老大石内蔵助が塩田開発の嘆願に来た農民たちの願いを許可しなかった。ところが、十数年後に農民たちを呼び出し、「あの時から植林を命じ、浜辺に松林を造るように命じておいた。松が育ってきたので今、許可を与える」と語ったそうです。人間でさえこれだけ先を見通せるとしたならば、力と知恵と思慮に満ちた神様はいったいどれほどのすばらしいことを成し遂げることがおできになるでしょう。神のなさることに間違いはありません。間違いがないばかりか、それは「時にかなって美しい」(伝道3:11)のです。美しも壮大な神様のドラマに、信じ祈る者たちは招かれているのです。
第四は、「人知をはるかに超えた神の御心がほかにあり、神が他のご計画を立てておられるから」です。私たちの一時的な祈りや願いが私たちの人生にとって最善のものであるかいなかはわかりません。
神様が私たちの祈りにすべて100%答えてくださっていたとしたら、「あの祈りはしなかった方が良かった」と後悔するようなこともないとは言えません。すべてをご存じなのは父なる神様おひとりです。神の永遠のご計画に沿うことが、私たちにとっていつまでも続く喜びではないでしょうか。
第五に、神がその祈りを実現してくださったときに、あなたがそれにふさわしい「神のしもべであるようにと、今もうあなたの中に良き御業を進めてくださっているから」です。
神様のみこころの中心は常に「人材」です。「器」です。「僕」です。「弟子づくり」です。イエス様は3年半の歳月をかけて12人の弟子たちを育てることに集中されました。復活されたキリストは代々の教会に「弟子とせよ」(マタイ28:19)と命じました。パウロは「聖徒たちを整えて」(エペ4:12)奉仕のはたらき担うと語っています。旧約時代の多くの神のしもべたちは、遣わされる前に多くの静かな準備の時を過ごしていました。ダビデも多くの苦難を経て王に立てられました。モーセも荒野で40年間に及ぶ羊飼いの生活と神の沈黙の時の中で整えられ、エジプトへと遣わされました。
「まだ与えられない」と私たちは口にしますが、「もうすでに」与えられています。人間の側の視点から見るのでなく、神の側の視点から見ましょう。信仰とはこの世界を見るあたらしいレンズをもつことです。私たちの「まだ」は、神においては「もうすでに」となっているという事実を信頼しましょう。信じてあきらめず熱心に祈り続ける限り、その目的が私利私欲のためではなく、神の栄光のためである限り、もうすでに、神様は祈りを聴かれ、働いておられます。そこで、私たちに求められるのは「待ち望む」ことです。
祈りの恵みは、祈ることを知っている者たちへの神様からの贈り物です。
「信じるならば、神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)