「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4)
20240811
1. 世の友となる者
「世を愛する者は世の友であり 自らを神の敵としている」(4)とヤコブは厳しい指摘をしています。「世」コスモスとはクリスチャンであるか否かを問わず、私たちが現実に生きているこの世界この社会を指す言葉です。ヤコブは、「この世は人間の欲望を中心に動いている世界」であり、「欲望を満たすことが人間の幸せの道である」という誤った価値観を提供している。その誘惑は非常に強列で、様々な罪と悲劇と争いと偏見と差別が生まれてくる温床となっている。ヤコブは「欲が孕んで罪を生み、
罪が熟して死に至る」と1:15で、警鐘をならしています。
1)欲を中心とするこの世に対して私たちはどのような態度で接していけば、向き合っていけばよいのでしょうか。大きく5つの形に分類されます。 1つ目は埋没型、 2つ目は対決孤立型、3つ目は背教型そして 4つ目は接ぎ木型、5つ目はこの社会の中で「地の塩・世の光」として積極的に役割を果たし共存していく両立型です。
背教型は結果的にキリスト教を捨ててしまうこと。埋没型はこの世の中にすっかり飲み込まれてしまうこと。パウロはローマ12章2節で「この世と調子を合わせてはいけません むしろ 心を新たにすることで自分を変えていただきなさい」と教えています。カメレオンのように周囲に合わせて自分の体の色を変化させていくありかたを指します。その結果、クリスチャンとしてのアイデンティティが薄められてしまうこと。
対決・孤立型
は、この世は悪であり偶像礼拝に満ち満ちている。
したがってできる限り世とは交わりを持たず、接触を避け、クリスチャンたちだけの世界で閉鎖的に生きていくことを意味しています。この世の経済問題や政治問題、国際問題や人権・福祉問題などに関わらないようにすることで清く正しく純粋な信仰に生きていけると考える傾向が特徴です
。
一見この考え方は聖書的のように思われます。ヨハネも第一ヨハネ 2章11節で「世を愛するなら神の愛はない」と教えています。宣教師たちによって持ち込まれたキリスト教は、対決型が多く、結果的に孤立してしまう傾向がありました。しかしイエス様の思いは「あなた方は地の塩、世の光であれ」(マタイ5:13)と期待しておられる 。接ぎ木型とは、この世の諸慣習をキリスト教文化へと変えていくスタイルで、ローマ帝国の太陽の祭りを、キリストの誕生日と置き換えたり、神道式結婚式を教会式ウエデングに変化させて土着化をうまく図るという生き方です。この5つの型のどこかに当てはめてパターン化してしまうことは避けたいですが、念頭に置いておくことは有益と思われます。航空機のパイロットが絶えず管制官と連絡をとり、自分の飛行位置を確認します。その時に、「リクエスト・ポジション」と問いかけるそうです。この世との向き合い方においても、今、自分がどの立場に立って行動しているか、そこにどんなリスクがあるか、常に自己確認をして、生きることは有意義です。
2)泉田昭先生はキリスト教倫理学の中で、「日本人であることとキリスト者であることは
この場合の福音的なあり方とは、「イエスキリストを信じる信仰とその信仰による救いに生きる」ことです。パウロはローマ3:22-24で 「イエスキリストを信じる信仰による神の義であって、全ての信じる人に与えられ何の差別もありません。全ての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリストイエスによる
贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と語り、これを「福音の真理」(ガラ2:14)と呼び、この信仰に生きることが、福音的なあり方であると教えています。
3)こう考えると、ヤコブは決してこの世と常に対決し、この世を否定するという極端な「対決」的な生き方を強調しているわけではありません。ヤコブは、この世は人間の欲望を中心に動いており、人間の欲望を満たすことが幸福を追求することだという誤った価値観を巧みに吹き込んでくるという本質をしっかり見極めつつも、この世界から完全に分離したような隠遁生活を送るのではなくて、むしろこの世にあって社会的な責任を担いそれを果たし、この世において神の御心が成就する世界となるように「奉仕していく」務めを私たちは担っていることを強調していると理解できます。しかしそのためには「人間中心的な欲から解放されて、心の自由を得ること」が必要となります。
まさにそれが「地の塩、世の光」として生きるキリスト者の自由であり、信仰は自由の翼を与えてくれるのです。
第2に ヤコブは欲望の満たしを追求めることを中心とするこの世の幸福論ではなく、神の恵みを豊かに受けて生きる幸いを語っています。この世は与えることよりも受けること、奪うことに固執させます。しかし神の国の恵みは、惜しみなく与えることにあります。
ヤコブは5節で「神は私たちのうちに住まわせた神の霊を妬むほどに愛しておられる」と語っています。神の御霊が私たちの内に住まわれる。これは仮に住まわれるという動詞ではなく永続、永住、定住を意味する動詞でありかつ、不定過去形は「生涯一度限りの確かな恵みという事実」を表しています。
キリストを信じることによって、神の御霊が神からの贈り物として与えられます(使徒2:38)。これは旧約時代において人々が熱烈に求めた神からの賜物でした。このお方は真理の御霊あるいは愛の御霊とも呼ばれ、私たちのこの世における信仰生活を支える大きな力となっています。私たちがこの世にあって、霊的な戦いを生きることができるのは、御霊の恵みの力に信頼することによって可能となります。
ヤコブは「神の御霊をいただくということ以上の素晴らしい恵みがさらに約束されている」(6)と私たちを励ましています。それは「神の御国を受け継ぐ永遠の救い」を意味しています。神の御霊を頂くということはいわば確実に所有することができる天国の「手付金」
のようなもので、先払い
先取りとしての性質を持っています。神の国に生きる、これこそが福音に生きる者たちの究極の希望と喜びです。
この大きな恵みをいただくことができるのは傲慢な者ではなく、謙虚な者です。神の前に遜るありかたを信仰といいます。この世の人々の大きな特徴は「神を否定する」ことです。 それは被造物が創造者にとって代わろうとする傲慢さでもあります。「高ぶり」という言葉は、聖書の中で200回以上記されているそうです。これはクリスチャンが高ぶらないようにという警告であるとともに、神を否定し、神に背きながら生きるこの世の傲慢な人々への警告でもあるのです。
神の敵になることは不幸なことです。神に敵対しても勝ち目はありません。敗北してしまうことは必定です。私たちは神の前にへりくだって、神と共に歩む道を選ぶべきです。こうした生き方そのものを「謙遜」といいます。この世にありながら、この世に埋没してしまうことなく、
極端な過激的対決と孤立に陥ることなく、地の塩、世の光として、天で御心がなるように、地においても御心がなるようにと祈りつつ精いっぱい生きることが、私たちに対する神の願いなのです。神の助けと臨在はそこにあります。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ57:15)