【福音宣教】 泣きなさい、笑いなさい

「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」ヤコブ4:9) 

20240825

映画「ひめゆりの塔」の主題歌として採用された沖縄民謡調の「花」という名曲があります。「泣きなさい、笑いなさい、いつの日か、いつの日か、花を咲かそうよ」という歌詞が心に残っています。川は流れてやがて海へゆく、人は流れてどこへいくのだろう。でも人は花、泣きたいときは泣いて、笑いたいときは笑って、一人一人が花としてこの地上で咲いていこうと個人的に解釈していますが、作詞作曲家の喜納昌吉さんに尋ねてみたい気がします。

ヤコブは7-10で10の戒めを記していますが、その中で「苦しみなさい、悲しみなさい、泣きなさい、笑いを悲しみに、 喜びを憂いに変えなさい」(7-8)と書いています。

「あれ、ヤコブが書き間違えたかな」と思ってしまうような表現です。悲しみを笑いに、憂いを喜びに変えるのが励ましであり慰めであり、信仰による恵みの力ではないでしょうか。ヤコブは一体、何を伝えたかったのでしょうか。結論からいいますと、ヤコブは真の意味での「悔い改め」について強調しているのです。先週、私たちは、信仰とは「神に従うこと」と「主の御前でへりくだること」であると学びました。今週は二つのことを覚えましょう。

第一に、神の前でへりくだることを学ぶことが信仰の始まりとなります。

この世の人々に悔い改めといってもおそらくことばが通じないことでしょう。「何を食べなおしたらいいのでしょか?」と言われかねません。聖書の語る「悔い改め」は単に反省したり、後悔することではなく、人生の方向転換を意味します。神様抜きで生きてきた従来の生き方そのものを180度方向転換するという、一大人生改革とも言えます。

生まれながらの私たち人間は、神様を素直に受け入れるよりは拒んだり、反発したり、神などいないと否定したり、なにかと神様と争います。パウロはこうした状態を「私たちが神と敵対していたとき」(ロマ510)と表現しています。その原因は「私たちの傲慢さ、高ぶり」と「神よりもこの世を愛する」ふたごころにあります。私たち生まれながらの人間の最大の特徴は、神にとって代わって「自分が世界の支配者になる」という傲慢さにあります。自分の思い通リに周りを動かし、操作し、支配権をとろうとします。思い通りにならなければ力づくでも、争って奪い取り、自分の願望とプライドと欲を満たそうとします。親が子を思い通りに支配する、夫が妻を暴力と甘えを使い分けて依存性を高めDVを繰り返す出来事のなかに見ることができます。

かつてノアの時代、「地は神の前に堕落し、暴虐で満ち」(創611)、「悪が増大し、人の心に図ることがいつも悪に傾くのを見て、非常にこころを痛め」(5)、神様は大洪水をもって裁きを下そうとされたとき、神様はノアに山の頂上に大きな箱舟を造るように命じました。神様が忍耐して待っておられたにもかかわらず(1ペテロ320)、人々はヨブの言葉にまったく耳を傾けることなく、受け入れることもなく、信じることもせず、嘲り笑い、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました」(マタイ24:38)。彼らはこの世で楽しくおもしろく過ごせばよかったのです。ですから、生まれながらの人はなによりも、創造主である神の前にへりくだり、方向転換をすることが救いの一歩となります。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えてくださいます」。神に敵対して平安と幸福を得ることは期待できません。「さあ、あなたは神と和らぎ平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来る」(ヨブ2221

第二に、神を信じた私たちクリスチャンにもへりくだることが求められます。

すに救いを受けているクリスチャンにとって、悔い改めとは、「主の御前」(10)でへりくだることです。その目的は「主にさらに近づく」ためです。「主の御前で」と強調されていることに着目しましょう。主イエスの御前で、つまり主イエスの十字架の御前で、あるいは十字架の主イエスの御前でと読み換えることもできると私は思います。創造主なる、真の神の御前での悔い改めは「人生の方向転換」ですが、主イエスの御前での悔い改めは、「十字架の恵みを深く味わい知るため」です。

イエス様の一番の弟子でありながら、臆病と恐れから、「イエスなど知らない、関係ない」と大祭司カヤパの官邸の中庭で3度も否んでしまったペテロに対して、イエス様が振り向いて彼を見つめられた時(ルカ2261)、ペテロは主の言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました(62)。どんな言葉を思い出し泣いたのでしょうか。「朝、夜明けを告げる鶏が鳴く前に3度あなたは私を知らないと言います」(34)というペテロの弱さをイエス様がわかっておられただけでなく、「あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)というイエス様の変わらぬ愛と励ましの言葉を思い起こして号泣したのではないでしょうか。「あなたのためなら牢であろうと死であろうと覚悟はできています」(33)というような勇ましいペテロではなく、無力さに打ちひしがれて大声で泣くしかなかったペテロの姿は、「主イエスの前で」砕かれた姿でした。

トゥルナイゼンというスイス改革派の牧師は、「自分自身に涙を注ぎなさい。軟弱な誤った涙もあるけれど、流すことの赦される強い涙もまたあるのだ。神に対する私たちの反抗の深さに対して涙を流すことは許されている。自分自身を喜ぶその浅薄な喜びと縁を切り、この世と仲良くなるのをやめなさい。悲しみの涙の流れるに任せよう。そのような悲しみの中で、キリストの憐みの全権は私たちの上に、大きくなりうるのである。」と語っています。薄っぺらな笑いや喜びではなく、失敗や弱さや愚かさや罪深さに打ちのめされて流す涙は、神の子たちの涙であり、主イエスの十字架の恵みを覚えて流す涙です。そうであれば、泣くだけ泣き、流れるだけ涙を流すことはゆるされています。主イエスの十字架の赦しの深さを知るとき、真の意味で「悲しみは喜びへ」と変えられるのです。

黙示録には小アジア(トルコ地方)にある7つの教会へのメッセージが記されています。1番目はエペソ教会。「あなたは初めの愛から離れてしまった。どこから落ちたか思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい」(黙24-5)とのメッセージが告げられています。神の子供たちにとって、へりくだりと悔い改めは、「初めの愛に立ち返ること」を意味します。クリスチャン生活はキリストの十字架の恵みから新しく始まるからです。

七番目はラオデキア教会。「あなたは暑いか冷たいかであってほしい。あなたはなまぬるいから、吐き出す」(315-16)。「あなたは自分は富んでいる豊かになった、不足はないと言うが、自分がみじめであわれで貧しく裸であることを知らない」(317)とのメッセージが告げられています。

ラオデキアは一大商業都市で、銀行の数が最も多く、ニューヨークのマンハッタンのように小アジア地域の金融の中心地でした。そのうえ有名な目薬(粉状の塗り薬)の産地でもあり、医学と製薬業が栄えていたため、豊かな富を地域と住民にもたらしたそうです。大地震で町が壊滅した時、ローマ皇帝が復興資金を贈ろうとしたとき、町の人々は「私たちは豊かで、なにひとつかけているものはありません」と、皇帝の申し出を断ったという記録が残っているほどです。

ラオデキアの教会は、富の豊かさが「生ぬるさ」を生み、物の豊かさと裏腹に、自分がみじめで裸であることさえ見えなくなってしまっていたようです。真の豊かさとは「私たちの内に住みたもう奥義なるキリスト、栄光の望みです」。このお方こそが永遠の宝であるという大きな恵みの事実が、見えなくなっていたようです。

笑いを悲しみに変えよ。喜びを嘆きに変えよ。嘆け、悲しめ、泣け。主のみ前に低くなり、へりくだりなさい。そうすれば、いよいよ主イエスの十字架の恵みを味わい知ることができます。

神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えたもうお方です。

「罪科の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の座に座らせてくださった。」 エペソ2:4-10

HOME  NEXT