「むしろあなたはこう言うべきです。主みこころならば私たちは生きて、このことをまたあのことをしよう」(ヤコブ4:15)
20240908
10000円札が明治の思想家で慶應義塾大学を設立した福沢諭吉から、渋沢栄一に代わりました。友人が飼っている猫の名前が福を招く猫になってほしいと「諭吉君」と名付けました。栄一君に名前変更する?と質問を思わずしてしまいました。渋沢栄一といえば、明治時代、日本の経済発展の礎を築いた人物で、日本最初の銀行(みずほ銀行)、日本鉄道(JR東日本)、王子製紙、東急不動産、東京ガス、東京電力、帝国ホテル、キリンビールやサッポロビールなど、500もの会社の設立や経営を関わり、医療教育分野でも多大な業績を残した傑出した人物です。渋沢が会社をつくる目的は「人々の暮らしを豊かにすることであり、得た利益は人々の幸せのために使う」という理念を実践したと言われています。
ヤコブの時代にも大きな野望を抱いて大事業を展開していく人々がいました。13節に「商売をして」とありますが、これは「大事業家」を意味することばで、まさに地中海をまたにかけて次々と貿易を中心とした大事業を行い、巨万の富を築く人々を指しているようです。彼らはチャンスと金儲けの才能を生かして、ち密な計画を立て、「今日か明日」とあるようにスピーディに精力的にエネルギッシュに休むことなく日々活動し、事業を世界規模にまで展開していきました。渋沢は社会のためという理念を持って商売をしましたが、世の多くの実業家は自分の欲のため、名誉名声のため、権力を得るため富を築き、おごり高ぶって傲慢な態度をとっていたようです。ヤコブの周囲にも、「商売の才能」を持ち、多くの事業を展開している人物がいたかもしれません。もちろんクリスチャンで大きな事業を営むことは悪でも罪でもありません。しかしながらヤコブは2つの大切な警告あるいはアドバイスをしています。
第一に、人間の無力さとはかなさについて自覚を忘れないことです(14)。
「あなたがたには、明日のことはわからないのです」(14)。私たち人間のいのちは、明日どころか次の瞬間さえわからない存在であり、湯気や霧のようにたちまち消えゆくはかないものであることをわきまえ知りなさいとの警告です。
中世カトリックの修道院の挨拶の言葉は「メメント・モリ」だそうです。「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「死を想え」という意味を持つラテン語でした。いつも忘れることなく死を想えと問いかけています。ものごとが順調に運び、事業が成功し、物質的に豊かになると、いつしか自分の命も幸福も、未来永劫ずっとつづくと錯覚をしてしまいがちになります。イエス様はそうした錯覚、思い違いをしている人々に対して「どん欲に警戒しなさい。どんなに豊かな人でもその人の命は財産にあるのではない」(ルカ12:15)と諭しました。豊作で収穫した穀物を蓄えるためにもっと多くの大きな蔵を建てよう。そうすれば何十年も安心して楽に暮らせると考えた農夫に対して、「愚かな人よ、今晩、あなたの魂が取られたら、あなたが蓄えたものは一体だれのものなるのか」と神が問いかけたという農夫のたとえ話(ルカ12:20)をイエス様は語っています。
人間の持つ強さ、勝利、成功といった輝かしいいわば「光」の部分ばかりでなく、人間の持つ無力さ、無知さ、はかなさ、弱さといった「暗さ」の部分にもありのまま目を向け、わきまえ知ることから「信仰」は始まります。神を忘れ果てるほど世的に繫栄し豊かになったとしても、死は例外なく人生に幕を引きます。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをくださるお方」です。人は土の器にすぎません。永遠なる神を敬い恐れることは、真の人生の始まりであり、同時に信仰の始まりなのです。
私の父は、最愛の母の重い病に直面し、手術室の扉の前では何もできない自分の無力さ、人のいのちのもろさはかなさを思い知らされ、信仰に覚醒し、神の前にひざまずいて心の底から「助けてください」と祈ったそうです。父の信仰はその時から、リバイブしました。人は強さの中にではなく、むしろ弱さの中において神の恵みを知ることができるのです。「私の恵みはあなたに「十分である。私の力は弱さの内に完全に現れるからです」(2コリント12:9)
第二に、ヤコブは、「あなたがたはこういうべきです。主のみこころならば、生きていてこのことあのことをしましょう」(4:15)と。
この世の事業家たちの原動力は自分自身の能力、商才、努力、人脈、あるいはチャンスをつかむ運の良さにあると語るかもしれません。しかしクリスチャンにとっては、世的な実業家たちとは異なる視点、立ち位置があります。それは、「主のみこころならばあのことこのこもしましょう」(15)、「主のみこころならば」がその原動力です。「主の御心ならば」ということばは「うまくいかなかったのは、御心でなかったからです」「御心かどうかはっきりしないので何もしません」という、言い逃れや弁解や消極性の意味に用いてはなりません。主の御心があるところには私たちの献身と情熱が呼び覚まされ、大きく引き出されます。主の御心であるならば、主からの供給が絶えることはありません。亀の粉は尽きず、瓶の油は絶えません。主の山に備えありです。主の御心であれば、一人一人の力は小さくても、次々と良き仲間たちが神から送られてきます。主の御心であるならば、弱い者も青銅の弓矢を引くことができる勇士と変えられます(2サムエル22:35)。主の御心であるならば、主が味方となられるがゆえに、敵する者は退けられ、恐れが私たちの胸中から取り除かれます。
主の御心であれば、明日のこと明後日のこと、将来のことを思い煩わず、安心して委ねることができます。イエス様は「明日のことは明日が心配する」(マタイ6:34)と約束してくださいました。明日のことを心配していても、明日が来るかどうかさえわからない。わからないことをそれ以上、考えても、心配しても、解決はできなません。むしろその日その日を、精いっぱい生きること、しかも神への期待を抱いて生きることで十分なのです。中沢啓介師は「明日起こるであろうすべてのことを神に委ねよう。信仰とは自分の周りで起きているできごとを神とのかかわりの中で受けとめることです」(マタイ福音書注解)と記しています。
ヤコブは「もし主が望まれるなら」、私たちも喜んで献身の思いを込めてあれもこれもしようと語っています。十字架の死の前夜、ゲッセマネの園でイエス様は徹夜で祈られました。その時、「私の思いではなく、あなたの思いが成りますように」(ルカ22:42)と、イエス様は「御心の成就」に力点をおいて祈られました。一方、マタイの福音書によれば、「私ではなく、あなたが望むように」(マタイ26:42)と「私でなくあなた」、つまり神様が強調されています。すべての事柄において、主語は私ではなく神様ご自身であり、全存在を神に委ね切る姿が強調されているのです。イエス様は生も死も全存在を父の御手に委ねて十字架の道を歩まれました。私たちは願わくは「主の御心であるならば」、あのこともこのことも喜んでさせていただくという献身の志を抱いて歩きたいものだと願います。
4章を閉じるにあたって「あなた方のなすべきことを知っているならば行いなさい」とヤコブは奨励しています(4:17)。未信者の方々にとってなすべきことは、父なる神の御心を行うことがなすべきことです。父の御心とは「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと」(ヨハネ6:40)とはっきり記されています。イエスキリストを神の御子、救い主として信じること、ここからすべてが始まります。
一方、クリスチャンにとってなすべきこととは、父なる神が御子キリストを通してあなたに願っておられる個別の御心を知り従うことです。これは一人一人に異なります。人間的な計画や思いを超えて、神が今、個別にあなたに願っておられること、あなたにしかできないこととしてあなたに願っていることといえます。その御心へと御霊があなたを導きます。ですから御霊の導きに従いましょう。
御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もう (ガラテヤ5:23)