「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい」(ヤコブ5:12)
子供のころ友達と約束するのに、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます 指切った」というわらべ歌をうたったことを思い出します。当時、意味がよくわからないまま使っていました。げんまんと言う言葉を玄米と勘違いしていて、白米ではなく玄米食べさせられるのかと思ってました。漢字では拳と万と書きます。拳万とは「こぶしで1万回の殴る」という恐ろしい意味で、その上、針千本飲まされたんではのたうちまわって死んでしまいます。つまり命がけの約束を意味します。指切りは、江戸時代に遊女が恋した男性に自分の小指を切って愛の証として渡したことに由来するそうです。わらべ歌と言えども、たいへんこわい話です。子供にこうして、約束はちゃんと守りなさい、自分が話したことには責任をもちなさいという人間としての誠実さを教えているわけですが、おとなが平気で嘘をついたり、ごまかしたり、いいわけしたり、記憶にございませんととぼけたり、挙句の果てには「約束は破るためにある」などと悪しき見本を見せるものですから、子供はとまどい、裏切られ「おとなは嘘つき」と信用を無くしてしまいかねないのです。
Ⅰ 誓ってはならない(12節)
ヤコブは強い口調で「誓ってはならない」と命じました。いっさい誓ってはならないという意味だそうです。これはイエス様が弟子たちにマタイ5:35-36で「あなたがたは決して誓ってはなりません」と、誓う行為そのものを「ばさっ」と禁止された教えを、ヤコブが受け継いでいると言えます。「誓ってはならない」というイエス様やヤコブの言葉を文字通りそのまま受け入れ、実行し、一切の誓いを拒否するメノナイト派、クウェーカー派などのクリスチャングループもいます。私たちは日常生活の中で、「誓い」のことばを宣べる機会が多くあります。結婚式での新郎新婦の誓い、スポーツ大会での選手宣誓の言葉、裁判での宣誓、さまざまな「誓約書」への署名。最たるものは、アメリカ大統領の就任式です。新大統領は聖書に手を置き、著名な牧師の司式で、宣誓の時が厳かに持たれます。こうしたすべての宣誓に対しても「誓ってはならない」という神の教えに反するからと彼らは拒否するそうです。さて、私たちはどう理解すればよいでしょうか。
その答えは、歴史的背景を学び理解することです。ご存じの通りユダヤ人たちはモーセの時代から、神を恐れ敬い「神の名をみだりに唱えてはならない」(出20:7)「偽りの証言をしてはならない」(20:16)、「わたしの名によって偽って誓ってはならない」(レビ19:12)と厳しく戒められていました。ところが人間はいつでも嘘をついてしまう自己中心的な存在ですから、神にさばかれないように言い逃れの道を探そうとします。「神の名によって誓うのではなく、天を指したり、地を指したり、エルサレムを指して誓うならば、罰せられないだろう」と考え、口先だけの安易な「誓い」をするようになり、ことばの重みが薄れてしまいました。神のことばや戒めが水増しされ、人間の都合の良いようにゆがめられていく、こうした当時の宗教的・社会的実情を踏まえ、イエス様は弟子たちに、マタイ5:35-36で「あなたがたは決して誓ってはなりません」と、誓う行為そのものを「ばさっ」と禁止されたのでした。
イエス様の意図は、神の名をもちだしてまで「私は嘘をついてません」と、人々にわざわざ誓う以前に、自分の言葉に責任を持ち、約束をきちんと果たして人々から信頼される生き方をしなさい。日頃から信用されているならば、そもそも「誓う」必要などないではないか。人々から疑われたり、信用ならないと言われることがないように、弟子たちに対して、「自分の語ることばに誠実に生きなさい」と教えているのです。その意味でイエス様は軽はずみに「誓ってはならない」と語られたのです。武士に二言はないというのが武士道ならば、語ることばに嘘はないというのがキリスト者道と言えます。信仰と愛の奉仕が一つとなってこそ、生きた信仰であるといえるのであれば、語った言葉や約束が守られてこそ、それこそ生きた信仰のありかたといえるのではないでしょうか。
Ⅱ 然りは然り、否は否
ことばに重みがなくなり、誓いがうわべだけのものになったり、話したことがらがいとも簡単にくつがえったり、約束が簡単に破られたり、ドタキャンされたりしてしまう、そうした人間のもろさの理由のひとつに、心の中の境界線があいまいになっていることが挙げられます。聖書の言葉でいえば、「然りは然り」「否は否」と言えなくなっている状態です。
ギリシャ語では「nai」と「ou」。英語では「yes」と「no」。昔、土井たか子さんという日本社会党の女性党首、女性初の衆議院議長がいました。彼女の「ダメなものはダメ」と言い切る、ぶれない姿勢が国民の人気を博していました。最近の政治家の多くはよれよれぶれぶれで信念がないと評論家たちからは辛辣に非難されています。
そもそも「然りは然り、否は否」とは、イエス様ご自身のことばです。マタイ5:37で「だからあなた方は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」と弟子たちに語っています。
然りは然りと言えるには、否は否と言える力を持っているかどうかが試されます。ダメなものはダメと言いきれてこそ、然りは然りという生き方が支えられるといえます。ところが、実際はノーと言うことはとても難しいものです。赤ん坊や反抗期の子供ならなんでも「嫌」、「したくない」とわがままを言いますが、大人になるとなかなか「否」と言えなくなります。日本社会は「我慢、義理人情、がんばります」の3G社会ですから、もともと優しい人柄の上に、断ったら嫌われる、愛されなくなる、ほされてしまう、遠慮があり怖さもある、ついつい「はい」と答えてしまって後から後悔したり、内心でため息をついたり、つぶやく。「なんであんなことを私に頼むのか」と相手に矛先を向けてしまいがちになるけれど、自分がはっきり断ったらいいはずなのに。。。あるいは代わりに「これこれのことならできます」と提案すればよいことに気がつかない。なんでも引き受けていたら自分がつぶれてしまい、燃え尽きてしまいます。
人に約束したことは、神に誓うことと同じほど、非常に重いことです。だから自分にできることについては、よろこんで「はい」といい、誠実に務めを果たす。もちろんそこには困難や試練もともなうかもしれませんが、「試練に耐え忍ぶ者はさいわいです。その人はいのちの冠を受けるから」(ヤコブ1:12)の約束と励ましがそこにはあります。神の助けと祝福がきっと伴うから、待ち望みなさいとヤコブは励ましています。できるといって神に誓って失敗をしたのはペテロでした。ヘロデ・アンティパスは酒の席で、軽率な誓いをしたため後に引けなくなり、とうとうバプテスマのヨハネを処刑してしまい、神の前に大きな罪をおかしてしまいました。然りと否の境界線が崩れ、あいまいになってしまったためではないでしょうか。一方、パウロはコリント教会への訪問計画を伝える手紙の中で「私たちのことばは、しかりといって同時に否というようなものではありません」(2コリン1:18)と語っています。
神のことば、神のみこころ、神の御計画は、いつでも「然り」であり、否になってしまうことはありません。神の全人類に対する救いの約束はキリストにあって「しかり」となりました。神の罪人に対する愛には偽りがなく、十字架において「然り」となりました。御子のことばは真理であり、御子イエスの愛もまた真実です。
基準がゆらぎ、見失われ、人の言葉も重みを失い、人の約束もむなしく変わりゆくこの世の風潮の中にあって、