「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5:15)
13節から14節 で ヤコブは4つの命令形を使っています 苦しんでいる人がいるならば「祈りなさい」。喜んでいる人は神を「賛美しなさい」。病気の人は教会の長老を「招きなさい」そして主の名によって「祈ってもらいなさい」と言うのです。
1. 救急車寄りも牧師を呼んで
病と祈りに関して私には忘れられない思い出があります。堀池会堂の時代 1人の女性の老信徒が階段から転げ落ちてしまいました。みんなが心配して駆けつけ「大丈夫ですか
救急車呼びましょうか
病院に行きましょうか」と声をかけると、姉妹は「牧師。牧師を呼んでちょうだい」と大声で叫びました。私も3階からすぐに駆けつけて「主よ、癒してください」と心から祈りました。 「救急車を呼ぶより牧師を呼んで!」
この言葉は彼女の信仰そのものではなかったでしょうか。姉妹は祈りの人でした。
私たちが直面する苦しみの中で、大きな割合を占めるものに病気があります。何一つ病気をしたことがないという人はまずいないでしょう。今、元気でも明日、急に心臓発作で召されることもないわけではありません。
たまたま受けた健康診断で癌が見つかり、厳しい宣告を受けてしまったという人もいらっしゃいます。
2. 病の人は長老に祈ってもらいなさい
病気の人は長老を迎えなさい。そして招かれた長老は主の名によって、オリーブを塗って大胆に祈りなさいとヤコブは命じています。「長老」と呼ばれている人々は、初代のキリスト教会において、使徒たちと共に教会のリーダーとして活躍をした人たちを指す言葉です。今日の言葉で言えば
牧師や役員さんたちと言ってもいいかもしれません。医者の数も少なく薬も高価で貧しい人々には手が出せない時代でした。まず長老を招きなさい。それは自分の家に迎え入れなさいという意味を示唆しています。病気になると人に知られたくないと思い、隠してしまう傾向があります。プライドの高い人は自分の弱さを誰にも見せたくないと思い、結果的には交わりから遠ざかってしまう、クローズしてしまうということがなきにしもあらずです。一番、必要な時に祈りの支援がそこにないことこそ淋しいことはありません。むしろあなたから迎えなさい、つまり自ら心を開いて、迎えいれて、祈ってもらいなさいと教えているのです。教会の信仰による交わりはどんなことがあっても決して閉ざしてはなりません。
招かれた長老たちは
オリーブ油を塗って、主イエスの名によって確信を持って祈りなさいと命じられています。ここでは
現在形で「祈り続けなさい」ではなく、不定過去時制が使われ、「確信を持って大胆に祈りなさい」という強い意味が込められています。「御心ならば癒されるかも。。。」などというような中途半端な祈りではありません。さらに、オリーブ油というのは当時は、いわば「薬」とみなされていました。ルカ 10章34節で傷ついた旅人を介抱するサマリア人の物語が出てきますが、 彼は、傷にオリーブ油を塗って
ぶどう酒を注いだと記されています。アルコールは消毒、オリーブ油は患部に油の膜を張り、外気を遮断し細菌に感染しないように守る役割と皮膚を乾燥から守る役割を担っています。オリーブ油を塗るという癒しの行為は、ユダヤ人が古くから受け継いでいる一つの習慣でした。それだけでなく実は、医薬品を用いることも意味しているといえます。私たちは、「祈りさえすれば病気は治る」という極端な考え方に陥らないように注意をする必要があります。もちろん全ての薬が安全だとは言い切れません。薬に過度に依存することも、薬を頭から否定することも共に間違っているのではないでしょうか。何よりも、パウロは医者のルカを「愛する医者ルカ」とコロサイ教会への手紙の中で、尊敬と信頼を込めて紹介しています(4:14)。満身創痍のパウロの健康面を医者ルカが支えていたことは明白です。
オリーブ油そのものに神秘的な効果があるわけではありません。長老が祈るから効き目があるというわけではありません。長老に特別な癒しの賜物が与えられているというケースはあるかもしれませんが、全てではありません。むしろ、長老に求められているのは「大胆に祈る」ことです。そうすれば「主が立ち上がらせて」くださるという確信です。
信仰による祈りは病の人を回復させる(15節)の意味は そのような意味ではないでしょうか。
3. 真の癒し主である主イエス
真の意味での癒しをなしうるお方は、イエス様、ただお一人です。 神の御子イエスはイザヤ書に預言されているように、「悲しみの人で病を知っている人」(53:3)です。病む者とともに痛みも苦しみも悲しみも分け合うことができた慰め主、癒し主でした。
ヤコブは祈りの力が大いなることを心の底から確信しています。 信仰による祈りとは、人間的な熱心な祈りというよりは、キリストの癒しの力を信頼して祈ることを意味しているといえます。
長老は、現代において特定の人に限定されてはいません。 旧約時代は「祭司に」全てが託されていましたが、 キリスト教会は「全ての信徒」に、祭司の働きが委ねられています。それは一人一人が神の御国の祭司としてお互いのために祈り、体の健康も魂の健やかな成長のためにも、互いに祈り合う存在とされているからです。Ⅰペテ 2:9では「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と記されています。
大きな教会の週報を見せていただく機会が与えられました。驚いたことに礼拝出席に多くの信徒が集いながら、祈祷会には数人しか出席をしていませんでした。現代の教会の大きな問題はやはり「祈りの力」が弱まっているということではないでしょうか。これは「教会の危機」とも言えます。高齢化が加速し、夜の祈り会に出席をすることが難しい、あるいは家族から止められているというケースも多く見られるようになってきました。朝の礼拝前の祈り会(詩篇を読む会)に続いて、神様が導いてくださるならば
夜8時から8時半ぐらいの間で、オンラインを使って「病める人々のための祈り会」を始めたいとも考えています。精神科医のポール・トュルニエ博士が、重い患者を診察する時には、妻に隣の部屋に待機して祈りのサポートをしてくれるように頼んでいるという証しを読んだ覚えがあります。どんな名医も祈りを必要とし、祈りはどんな薬にも勝る良い効果をあげるのではないでしょうか。
今日まで学んできましたように、ヤコブ書の中心的主題は、「えこひいきのない、愛の奉仕、愛の実践」でした。行いの伴わない信仰は、いのちと愛の血潮が流れていない、死んだような信仰だからです。
病める人々のために、主の名によって祈る時、祈ってもらう時、互いに仕え合う時、愛の奉仕に生きる時、祈りは信仰にいのちを通わすことでしょう。繰り返しますが、信仰による祈りによって、病める人が癒されるのは、長老の力でも、オリーブ油の力でも、祈りの熱心さや強さでもありません。「立ち上がらせてくださる」(15)のは、ただお一人、主ご自身です。このことを確信しましょう。
「あなたの信仰があなたを救った」と、確かに主は言われました。しかしそれは正確に表現すれば「あなたの信仰によってあなたは救われた、助けられた」という意味になるそうです。
あなたを救い、助けるお方は 主イエスご自身であるということを、私たちは覚えたいものです。