【福音宣教】 祈りの人エリヤ

正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」ヤコブ5:16) 

1.「義人の祈りは力がある」

その良い実例として 旧約聖書の預言者エリアの祈りをヤコブは紹介しています。 エリアは北イスラエル王国のアハズ王の時代に活躍した預言者です。 第1列王 1630節には「オムリの子アハズは他の誰よりも悪を行った」と記され、父オムリ王とともに2代にわたって、史上最悪の王として記録されています。彼は国の経済的発展のためフェニキヤ人であるシドンの王の娘イゼベルと政略結婚をしました。ところがイゼベルは異教の神々バアル熱心な崇拝者で、バアルの預言者450人、アシュラの預言者400人を引き連れて嫁ぎ、首都サマリアにバアルの大神殿を建築し、アシュラ像を建立し、イスラエル王国に偶像を持ち込みました。その悪事のため神の怒りが絶頂に達した時、預言者エリヤが遣わされたのでした。エリヤはアハズ王に対して、あなたはイスラエルの神など死んでいると思っているかもしれないが「私が仕える神、主は生きておられる」(171)と宣言し、「ここ23年、一滴の露も雨も降らないであろう」と、神の裁きを宣告しました。ヤコブ書によれば、エリヤは雨が降らないように祈りに祈った(ヤコブ517)と記しています。雨が降らず大旱魃が襲うことを神は決定されました。であれば、エリヤは雨が降らないようにと祈る必要がないはずです。にもかかわらず、エリヤは「祈りに祈った」(ヤコブ5:17 in prayer prayed)とヤコブは語っています。

神がすべてを決定しておられるならば、神のしもべたちの祈りによって左右されることはないという議論も生じます。しかし、神はご自身のしもべたちの祈りと願いを聞き入れながらも、柔軟に神の御計画を最後まで遂行されるお方です。ここに私たちの「祈り」の意義があります。神の絶対的な主権は私たちの祈りや嘆願をうちに取り入れることをゆるされる「恵みに満ちた主権」でもあるのです。

2.涸れていくケリテ川

エリアはその後、ヨルダン川の支流であるケリテ川の畔に身を隠しました。エリヤはいわば全国に指名手配されてしまった存在、王宮に刃向かう厄介者です。やがて3年半にわたり、日照りが続き、ついに民も食料を手に入れることができない飢餓状態に陥りました。エリアも同様に苦しみましたが、ケリテ川の水で喉を潤し、カラスが運んでくるわずかな パンと肉で日々、生きながらえ命をつないでいました。本来、バアルもアシュラも、雨を降らせ土地を肥沃にする豊作をもたらす神々ですから、旱魃が3年半も続くことは バールの崇拝者たちにとっては大きな打撃であり、痛手でした。一方、エリヤもケリテ川のほとりで、孤独の中で、人間的な熱心さや自我の強さが取り除かれ、砕かれ、ただ一人神の御前に祈りつつ、預言者として霊的に整えられました。涸れていくケリテ川で1人孤独な中で神と共に過ごす時間は、エリヤにとって欠かせない神からの貴重な教育期間でした。

孤独を恐れてはなりません。人間に頼るのではなく、神に頼ることを学ぶ尊い場だからです。

3. 再び王の前に立つ

ついにケリテ川も干上がった時、エリアは120km以上にも及ぶ長い距離を旅し、ガリラや湖を北上し、ツロフェニキアに到着しました。そこはイザベルの出身地であるシドンの近郊、いわばバール崇拝の本山、お膝元ともいえる地域です。身を隠していた3年半の間に、イスラエルはますます堕落し、まさにバアル崇拝の巣窟と成り下がっていました。エリアがアハズ王の前に現れた時、王は「イスラエルに災いをもたらす者」(第11816-20)と怒りをあらわにしましたが、エリアはイスラエルに災いをもたらしているのは、王自身であると切り返し、「バアルが真の神か、イスラエルの神、主が真の神か。天から火を下すことができる神を神としよう」と対決を申し出ました(1824)。決戦の場はカルメル山 、エリヤ1人に対しバアルとアシュラの予言者 850人との対決。踊り狂ってバアルの名を叫んでも火は下らず沈黙のまま。次いでエリヤは、破壊されてしまっていた祭壇を築き直し、周囲に深い溝を掘り、薪を祭壇の上に並べ、全焼の生贄の雄牛を捧げ、大量の水を注ぎました。「アブラハム イサク イスラエルの神よ、火を下してください・・・。主よ、私に答えてください」(1837)と祈ると、天から火が下り、全てを焼き尽くしました。群衆はこれを見て驚嘆し「主こそ神」と叫び、エリヤはバアルの予言者たちを粛清しました。こうしてエリアは、イスラエルの民の信仰を目覚めさせ、宗教改革ののろしをあげたのでした。

4. 手ほどの雲

この時、エリヤは1人、カルメル山に残って、全地に雨が降るようにと再び祈りました。地に膝まづき、 膝の間に自分の顔をうずめて祈り続けました。若者に地中海の方を見に行かせ、雲が湧いていないか確認させましたが、答えは「全くありません」「雲ひとつありません」でした。しかしエリヤは、見ゆるところによらず、諦めることなく、失望することなく、祈り続けました。するとついに「手のひらほどの小さな黒雲が現れ」(44)、やがて激しい大雨となりました。火をくだしてすべてを焼き尽くす神は、恵みの雨を降らせて大地を潤し、飢えと渇きで苦悩する民のために大雨を降らせ、祝福を与える神でした。神のお約束は「手のひらほどの小さなきざしから」始まります。

5. 逃げ出したエリヤ

ところが 腹の虫が収まらないのはイゼベルです。彼女はエリヤに「明日の今頃までに、お前の命はない」(192)と脅しをかけてきました。この時なんと、エリヤは身の危険を感じ、恐れて逃げ出し、イスラエルの一番南の端であるベールシバまで逃げ去りました。祈りに祈ったエリヤでしたが、一転して逃げに逃げたのです。

なぜエリヤはイゼベルを恐れて逃げ出してしまったのでしょうか。エリヤはカルメル山の対決で完全に消耗しきっていました。命懸けの頂上決戦だったからです。精魂使い果たした!!
ですから決戦に勝利したものの、これ以上、戦うだけの体力も気力も失っていました。燃え尽きてしまっていたのです。何とエリヤは「もう十分です。私のいのちをとってください」(194)とさえ、神に祈り始めています。そこに居るのは、エニシダの木にもたれかかり、力なく嘆く無力なエリヤの姿でした。

ヤコブは、「エリヤは私たちと同じ人間であり」(ヤコブ5:17)、普通の人だと語っています。神はエリヤに対して情けない奴、もう少し頑張ればイスラエルの宗教改革を全うできるはずなのに。 ここで手を引いてしまうとは期待外れだ。しっかりしろ」などと叱ったわけではありません。神様はエリヤに対して「ゆっくり休みなさい、眠りなさい」と疲れ切ったエリアに安心感を与え、身の安全を保証し、彼の緊張を解き、眠りと休息を与えました。み使いに命じて食事を用意させました。なんというご配慮でしょうか!!。睡眠と十分な食料を与え、エリヤの労苦を労ったのでした。大きな大事業を完成させることよりも、宗教改革を徹底させることよりも、神はエリヤという一人のしもべを大切にされ、彼を癒し、回復へと導かれました。働きは誰かが継承できますが、一人の人間の存在は誰かと取り換えることは決してできません。イスラエルの神は、しもべを愛される神なのです。考えてみると復活されたイエス様も、失意の中、ガリラヤ湖で再び漁を始めた弟子たちの前に朝方、岸辺で焚き火をたき「さあ、朝の食事をしなさい」(ヨハネ2112)と労らい励ましてくださいました。イスラエルの神もイエス様も、気づかってくださる神、愛の神なのです。

義人の祈りは力がある」。神に喜ばれる、正しい人の祈り、正式にはこれは「嘆願」と訳されている言葉であり「執り成しの祈り」を指しています。病を癒す祈りがあり、人々の魂を永遠の命へ導く救霊の祈りがあり、 エリヤはイスラエルの民をまことの神信仰へと目覚めさせるための「執り成しの祈り」をした人物であったと言えます

エリヤは私たちと同じような弱さを抱えた人間です。私たちと異なるわけではありません。一人の人間に過ぎませんでした。しかし彼の執り成しの祈りが、イスラエルの民を覚醒させ、再び真の神へと立ち帰らせるうえで、大きな役割を果たしたのでした。

トゥルナイゼンは、エリヤの執り成しの祈りについて、彼は自分のために祈ったのではなくて、神の民のために祈りました。「神は教会を必要とされている。教会の外にいる世のために、異邦人と未信者のために。天にまします我らの父よと祈り、天において御心がなるように、地でも御心がなりますようにと祈る「教会」が必要である」と語っています。

10月から、礼拝前に「詩篇を読み、祈る会」が始まりました。11月からは水曜日の夜8時から、インターネットを用いて「病める人々のために祈る会」を始めます。

「私の家は祈りの家でなければならない」(ルカ1946)と願われた主のことばとみこころを担わせていただきましょう。  

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