「事実、神は彼らのために都を用意されました」(ヘブル11:16)
本日は2024年度の召天者記念礼拝です。すでに60名近い方々が、それぞれの人生の旅路を終えて神様の御許へ召されました。みなさん、ひとりひとり走るべき自分の人生と言う道のりを立派に走りぬかれました。別れの悲しみは必ずしも時間と共に薄れるものとは限りません。心の中の時間が止まったまま月日が流れていくと言われる方もおられます。ですから記念会では時には涙し、時には天国の希望に喜びつつ、おひとりおひとりが大切な時をすごしていただけれればと願っています。なにより、神の御許に召された方々は、多くの愛情に満ちたやさしい思い出を一人一人に残してくださいました。その笑顔とことばは、今も私たちの心に中に息づいています。ですから天を仰がしていただきましょう。
今朝は、2つのことをお伝えしたく願っています。
1. 聖書によれば、地上の人生は、天の御国をめざして歩み続ける「旅人」(13)そのものであると教えています。聖書が教える旅人とは、あてもなくさまよう放浪者、風の吹くまま西、東というような風来坊やさすらい人という意味ではありません。目指す目的地がはっきりしており、天の御国を目指して一日一日の道のりを歩む旅人という意味です。
ある有名な哲学者が公園のベンチに一人座ってじっと考え込んでいたとき、その様子を見て警官がたいへん心配して「もしもし、ご老人。失礼ですが、あなたはどこから来てどこに帰られるのですか」と尋ねたところ、哲学者は「私がどこからきて一体どこへ行くのか、どこへ帰るのか、その答えがわかれば、こんなに悩まなくてもすむのだが・・」とつぶやいて立ち去ったそうです。
そもそも私たちはどこから来て、何のために生きているのでしょうか。そして、私たちは地上の生涯を終えたとき、どこへ行くのでしょうか。どこへ帰るのでしょうか。そこは平安にみちた穏やかなやすらぎの場でしょうか。人生の終着駅が、もし冷たい石のお墓の中だとしたら、なにかさびしくありませんか。人は生まれたときから死に向かって歩き続けていきますが、神を信じる者は天にある永遠のいのち、永遠の救いに向かって歩み始めています。聖書は神を信じた者たちのゴールは墓の中ではなく、天の故郷であると教えています。しかもひなびたさみしい田舎ではなく、神の国の都のただなかに迎え入れられ、そこでは多くのみ使いたちと多くの聖徒たち、永遠の神の国の家族となった人々が待っていると教えています。確かに死ぬときは1人かもしれませんが、神の国で目覚める時には、永遠の神の家族が笑顔で迎えてくださるとだと知れば、死の闇の彼方に希望と喜びが満ちるのではないでしょうか。暗い死の扉のかなたに光輝く新しい世界が開かれています。教会はそのような希望に満ちた世界を、悲しみの中にも共に仰ぎ見る場所とされています。
2. 「事実、神が彼らのために都を用意してくださっている」(16)と聖書は教えています。事実とは、行ってみなければわからない、あるかないのか確かめようがないというあいまいなことを指しません。イエスキリストは、私たちのすべての罪咎汚れをその身に背負って、十字架で死なれ、罪の全負債を帳消しにしてくださいました。3日後に墓をからにし、死の力と束縛を打ち破り復活され、栄光の身体をお示しになりました。このキリストの復活の事実を根拠にして、私たちはキリストによって約束された永遠のいのちと神の国を信じているのです。キリストの復活というエビデンスは代々のキリスト教会がよって立つ確かな岩、土台です。キリストは「わたしはよみがえりでありいのちです。・・私を信じる者はたとえ死んでも生きる。このことを信じますか」(ヨハネ11:25-26)と呼びかけています。さらにキリストは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんあります。あなたがたのためにわたしは場所を備えに行くのだから」(14:1-2)とも約束してくださいました。永遠のいのちは、イエスキリストの中にその輝く道が用意されています。
「私が道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14:6)
復活されたキリストにあって、死は終わりではなく永遠のいのちの始まりなのです。
この記念礼拝の朝、天の御国を仰がせていただきましょう。弟子たちに語られたイエスキリストのことばを聴かせていただきましょう。
「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)