1 ロ−マ人の手紙 題 「使徒パウロ 小さな巨人」 2002・10・5
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(ロマ1:1)
今日から礼拝ではロマ書から説教します。初めに執筆事情を紹介します。この手紙は使徒パウロによって56年前後に、ギリシャ地方の都市コリントで書かれたと言われています。世界宣教のビジョンに燃えるパウロは、神の御心ならば当時、地の果てと考えられていたイスパニア(現在のスペイン)まで福音を伝えたいと切望していました。そのために、ロ−マにある教会との交わりを深め、ロ−マ教会から祈りと支援を受けてイスパニアに派遣されることを願いました。そこで近々ぜひロ−マ教会を訪れたいと祈っているのでよろしくという趣旨をもってこの手紙を書き、執事フィベ(16:1)に託しました。この手紙が後の時代の教会に与えた影響はたいへん大きく、宗教改革者カルバンは「この手紙を理解するものは聖書全体を理解する扉を開くことができる」とさえ言いました。
1 パウロの自己紹介
パウロは手紙の冒頭で自己紹介をします。直訳すれば、「パウロ キリストの奴隷 召された使徒」の順序となります。パウロは自分をキリストの奴隷そして召されたキリストの使徒と端的に語ります。それほど自分が生きている意義や目的や役割、言い換えれば自分のアイデンティティ−がはっきりしていたのです。キリストの奴隷としてパウロは誰よりも謙遜に仕え、召された使徒にふさわしくパウロは権威をもってキリストの福音を人々に伝えました。宣教師としてのパウロは、苦難のオンパレ−ドのような厳しい日々を過ごしましたが、決して環境に屈しませんでした。と言うのは、「キリストの奴隷、キリストの使徒」としての自分の役割をしっかり認識できていたからです。
昨年の九月11日にアメリカで起きた同時多発テロの時、旅客機を乗っ取ったテロリストたちがホワイトハウスを攻撃目標としていることを知った数人の乗客たちが、「レッツロ−ル」(直訳すれば、さあ自分の役割を果たそう)と声を掛け合ってテロリストに立ち向かったことが家族への電話連絡で明らかになりました。彼らは危機的な状況下にあっても自らの役割を自覚し、自分たちにできることを見出してベストを尽くしたのです。そこに苦難に屈しない人間の尊厳さと勇敢さを見ることができます。アイデンティティーがしっかり確立されると試練にも強くなり、忍耐力も増すのです。
現代人はアイデンティティ−クライシスに直面していると言われます。アイデンティティ−クライシスとは、自分は何者なのか、何のために生きているのか、生きる目的はどこにあるのか、自分の存在価値をどこで見出せばいいのかわからなくなり、自分を見失ってしまうという精神的な危機をさす言葉です。心の病を患っている人たちばかりでなく健康な精神状態の人々も同様に直面します。
たとえば、会社人間と言われるほど仕事一筋に生きてきたサラリ−マンが退職し、肩書きが無くなった途端に自分の存在価値を失い何をどうして生きていったらいいのかわからなくなってしまうことが起きます。子育てや子供への教育に情熱を傾けていた母親が、子供が独立し親元を巣立っていったときに心が空っぽになってしまう空の巣症候群に陥る場合もあります。気ままなOL生活を営んでいた女性が結婚と同時に家庭の中に閉じ込められ育児に追われる毎日の生活の中で「私って何なの?」と、自分の生き方に疑問を感じ、喪失感や虚無感に苦しむケ−スも多く報告されています。
人が人としてではなく物とみなされ、人間の価値がお金に換算されてゆくような現代社会の中で、一度限りの人生を耀いて生きてゆくには、「自分は誰なのか、何者なのか」しっかりと自己確立を図る必要があります。
2 キリストの奴隷そしてキリストの使徒
パウロは「私はキリストの奴隷」と語ります。奴隷とは金で買い取られ、主人の所有物とされ、自由を奪われた人々を指します。パウロは社会的な身分から言えば、奴隷ではなく、ロ−マの市民権を持つ自由人でした。裕福なユダヤ家庭の出身で、若くしてユダヤの宗教議会の議員に選出されるほど有能な人物でした。そんなパウロでしたが、復活されたキリストと出会い、信仰に導かれ、何よりもキリストの十字架の死の意味を理解できたとき、尊い神の御子の十字架の血によって買い取られ、罪からあがなわれ、キリストのものとされた自らを知りました。この驚くべき救いの恵みのゆえに、パウロは感謝の心を込めて自らをキリストの奴隷と表現したのです。
「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。
ですから自分の体をもって神の栄光を現しなさい」(1コリ6:20)
パウロにとってキリストの奴隷と言う言葉は、最高の御主人にお仕えできるのですから光栄に満ちた言葉でした。奴隷のすべてはその主人のものですが、イエス様が彼の全てとなってくださることは、パウロに喜びと真の自由をもたらしました。
さらにパウロは自らをキリストの使徒とも語ります。使徒という言葉は本来、「代理者あるいは代表者として遣わされた者」という意味をもっていますが、パウロはさらに積極的に「使節・大使」(2コリント5:20)という光栄ある名前に置き換えています。どの国であれ大使に任じられた人物には、一国を代表する権威と尊厳と力が与えられています。またその権威にふさわしい品格が期待されます。パウロはキリストの権威とキリストの香りを保ちつつ異邦人への使徒として仕えました。
神様のご奉仕に仕えることを志す人々には、謙遜さがなくてはなりません。自分自身に栄光を帰すのでなく、ただ主お一人がほめ称えられ、栄光を神様におかえしするためです。更に、神様のご奉仕に仕えることを志す人々には、品格に裏づけされた権威がなくてはなりません。
3 神が召してくださる恵みに生きる
パウロがキリストの奴隷と呼ぶとき、神の恵みのゆえにあがなわれたという感謝が根底にありました。キリストの使徒と自らを語る時にも、神に召されたと、神様の召しを常に意識していました。神の恵みと神の召しを抜きにしては、彼は自分を語ることができませんでした。召された自分の使命や働きは尊いものですが、召してくださった神様にいつも目を注ぐことをパウロは忘れませんでした。
旧約時代のイスラエルの偉大な王ダビデは常に「主を前に置いた」と告白しています。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8−9)
「主を前に置く」とは、神の臨在を覚え、常に神に聞き従う態度を意味します。移り変わる事情境遇を見るのでなく神を見つめ対物です。人の声に聞き従うのでなく常に神の言葉に聞き従いたいものです。主を前に置く人は、神様の前を歩くのではなく神様の後ろにいつも従います。そのときダビデは平安と力を受けることができたと語っています。苦難に満ちた中でも、ゆるがされることのない人生がダビデにもたらされたのです。
私たちは主を前に置くのではなく、主イエス様を後ろに従わせるような生き方をしがちです。後ろに神様を控えさせて、自分が主人になって神様を思いのままに動かそうとします。神様の前をどんどん歩き出そうとします。そうした態度は、キリストの奴隷として謙虚に仕える姿勢やキリストから遣わされて託された役割を忠実に果たす使徒の姿とは程遠いあり方と言えます。
先ほど、アイデンティティ−クライシスについて触れました。現代人がなぜ、自分を見失い、自分の生きる意味や存在価値を見出せなくなり苦悩するのでしょうか。それは現代人が「神を失ってしまっているから」ではないでしょうか。神様を否定し人間の力だけを肯定して生きようとするとき、皮肉なことに人間は自分自身を見失い、自己喪失に陥ってしまうのです。なぜならば、神様は創造主であり、人間が創造主である神様から遠く離れれば離れるほど、神様の豊かないのちを失ってしまうからです。
それは切り取られ花瓶に生けられた花が、しばらくは美しく咲いていますが、やがて枯れてゆく姿と似ています。根から必要な水や養分の供給を得ることができなければ、花としての本来の寿命をまっとうできず、枯れてゆくしかないのです。
哲学者パスカルが「人間の心には創造主である神の形をした空洞がある。神のもとに帰るまでは何をも
ってしても空白は埋まらずむなしさは満たせない」といいましたが、人間の本質に鋭く迫る問いかけだと思います。神様を抜きにしては人生を語ることができません。神様を自分の後ろに従わせて歩くような生き方にも本当の人生の喜びは見出せません。神とともにいや神を前におくと言う「信仰の従順さ」(ロマ1:5)を現代人は回復しないかぎり自己喪失感から救われないのではと思います。
パウロは偉大な宣教師であり初代教会の歴史の中でもひときわ輝く巨人でした。ところがパウロは終生、ユダヤ名のサウロではなく、ロ−マ名のパウロを使用しました。パウロというロ−マ名は「小さな者」という意味です。たとえキリストの大使として権威と力を与えられていても、キリストの小さなしもべ、いいえ、奴隷であることを誇りとし喜びとし、神と教会に仕えたのでした。パウロが主と仰いだイエス様も神の御子であられながらしもべとなって罪人に仕えてくださった謙遜なお方であったことを思いつつ。
最も偉大な人物が、最も小さなしもべとして神様の御前に生きたのです。
私たちの歩みもまた、主とパウロに学ぶものでありたいと願います。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28
祈り
父なる神様、私たちもキリストの奴隷、キリストの使徒として召してくださったことを感謝します。あなたの恵みと召しにふさわしく、謙遜さと誇りとを私たちのうちに豊かにもたらしてください。