2 ロ−マ人の手紙 題「神の恵みの受け手とされている人々」2002・10・12

「 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。・このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」 (ロマ1:6−7) 

先週からパウロが書いたロ−マ人の手紙の説教を始めています。1−5節は手紙の挨拶部分にあたり、差出人であるパウロは、「私はキリストの奴隷、神に召された使徒」と端的に自己紹介をしました。7−12節では、手紙のあて先であるロ−マ教会の信徒について、「神に愛されている人々」「神に召された聖徒」(7)と敬意をこめて呼びかけています。ロ−マ教会がどのように誕生したか詳細は不明ですが、「家の教会によろしく」(ロマ16:5)と記されているところから判断して、ロ−マに移住したクリスチャンたちが自発的に家庭を開放して集会をもっていたと推定できます。エルサレムから遠く離れたロ−マ帝国の都に、信徒たちによってすでに教会が形成されている、この事実はパウロにとって驚きであり喜びでした。なぜならば、その背後に、甦られたイエス様はすでにロ−マの都をお訪ねになり、神様に愛され召された人々ともにそこに住み、神の御心と御業を推し進め、聖徒たちの生活を日々導かれておられたからです。イエス様は生きて働いておられる、この喜びをパウロは、「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」(8)と、神様に感謝しているのです。

1 恵みの受け手とされている聖徒

パウロはロ−マ教会のクリスチャンたちを「神に愛されている人々」「神に召された聖徒」(7)と敬意をこめて呼びました。パウロにとってすべてのクリスチャンは「神に愛され、神に召され、聖徒とされた人々」なのです。そして神様もそのようにクリスチャンをご覧になっておられます。

神に召されるとは、神様が選んで招いてくださったという意味です。神様がこの広い世界からあなたを見出し、あなたを選び、尊い救いに招いてくださったのです。あなたが勝手に押しかけたのではありません。神様から丁寧な招待状が差し出され、御使いがあなたを訪れイエス様のもとに導いてくださったのです。不思議なことですが、しばしば人生の逆境の時、失敗したり挫折したような時、あなたのもとに神様からの招待状が届けられました。

やがて振り返るときが来たならば、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたは慈しみ深くあられ、慈しみを施されます。」(詩119:68,71)と神様を崇めることができるほど、あなたが苦しんだ試練が意義深いものとして心に残ることでしょう。

聖徒という言葉は、りっぱな聖人のような信者という意味ではありません。神様によってこの世から区別されて神様にささげられた人々を指します。後の時代に、しみも汚れもない道徳的に優れた人を指して聖徒と呼ぶようになりましたが、聖書で使用されている場合には、聖徒とはある特別に優れた少数の人々を指すのではなく、イエス様の十字架の赦しを頂き、個人的に神の子とされ、共同体的に神の民とされたすべてのクリスチャンを指しています。

さて、クリスチャンを表すことば(愛され、召され、聖徒とされ)が、すべて受動態で表現されています。ここに今日私たちが聞かせて頂くすばらしいメッセ−ジがあります。

クリスチャンは神の豊かな恵みの受けとり手とされていることです。神にお仕えする前に、まず神の恵みの受け取り手としてクリスチャンは召されています。神様は圧倒的な恵みの贈り主であり、私たちはその最大の受け取り手です。これが神様と私たちとの聖書的関係です。恵みと賜物の豊かな贈り主である神様の愛を見つめ、神の恵みの最大の受け取り手とされている私たち自身の幸いを見つめたいものです。

豊かな恵みの贈り主である神様は、私たちがその恵みを十分に受け取ることを願っておられます。神様が出し惜しみをしたり、出し渋りをされることはありません。ですから、必要を求め祈りましょう。切に心を合わせて祈り求めましょう。豊かな贈り主である神様はきっと祈りに答えてくださることでしょう。と同時に、与えられている恵みを感謝しましょう。声を大にして感謝しましょう。「数えてみよ主の恵み」という聖歌がありますが、神の恵みの最大の受け手とされている私たちは、神の恵みを数えること、そして感謝することにおいても、いよいよ豊かでありたいものです。

2 信仰によって励ましあう聖徒

パウロがロ−マの教会の聖徒たちを訪ねたいと切望した目的のひとつは、「互いの信仰によってともに励ましを受けたい」(12)からでした。神様に愛され、召され、神様のものとして区別されたクリスチャンたちと交わり、励ましを受けたいと願うのはごく自然な気持ちと言えます。注意深く読むとパウロはここで、ロ−マの信徒たちから、「遠路はるばるご苦労様、宣教師も大変でしょうね」というような人間的な励ましや慰めを受けたいと願っているのではないことがわかります。互いの「信仰によって」励ましを分かち合いたいと願っています。では、聖徒たちの信仰によって励まされるとはどういう経験を指すのでしょうか。

結論的に言えば、第1に、信仰に生きる生き様によって、励まされることだと思います。しばしば経験することですが、100の言葉よりも1つの行為が人の心を動かします。行動は言葉以上にメッセ−ジを伝えます。イエス様の愛について語るクリスチャンよりも、イエス様が愛してくださったように自らも他の人を愛して生きるクリスチャンの姿を見て感動しませんか。誰が見ていようと見ていまいと神様だけがご覧になっておられるからと誠実に奉仕をされる姿を見てすがすがしい気持ちになりませんか。厳しい経済状況の中でも感謝の心で多くのささげものをされている姿を見て、人の心の清さや純粋さに心洗われませんか。しかも一発屋的でなく、気分しだいでもなく、安定して継続しておられる時にいっそう尊敬の念が深くなります。

牧師としてそのような信徒さんに出会うたびに、「この人の信仰はすばらしい」と思う以上に、「この人は本当に神様から愛されているのだな」と感動します。うらやましくさえ思うときがあります。そして間近で見させていただいたそのような感動やすがすがしさや尊敬の思いが、実は私自身の信仰の励ましとして返ってきて、新しい喜びとなることを味わっています。信仰によって励まされるとはそのような経験を指しているのではないでしょうか。

以前、田中信夫先生を講師に招いたキャンプに参加したことがあります。「肯定的に人生を生きる」「ナンバ−ワンではなくオンリ−ワンの人生を生きる」という先生のメッセ−ジは地元の学校や一般企業からも講演の依頼が続出するほどです。ことばの上では何とでもいえるけど・・などというふとどきな思いで話しを聞いていましたが、途中で感動してきました。不登校のこどもを何人も預かって寮生活をさせている。ある子が真夜中にステレオをかけて近所からクレ−ムが来た。田中先生は事情を話し、「お前がどんな大きな音を出してもだれにも文句言われないような大きな部屋をいつかこさえてやるからな。」とやさしく語りかけたそうです。これをカウンセリングでは共感的理解といますが、近所から怒鳴り込まれているのに、本人にこのことばを語るのはすごいことです。感動しました。キャンプの合間に相談する若者たちも多くいます。先生はラフな格好で外を一緒に散歩しながら肩をだいて話しあっている。私はその自然体の姿を見て、自分はできないなと思いながら、でも心が温かくなり元気付けられました。それは田中先生の後に、田中先生をそのように生かしておられるイエス様の存在を私が感じたからです。私は田中先生のようには未来永劫なれない。けれどもイエス様は私ができる方法で私を田中先生のように生かしてくださることがおできになる。そのように私にイエス様が生き生きと迫ってきたとき、近くに感じたとき元気を受け恵まれました。もう何年も経つのにその印象はいつでも甦ってきますし、そのたびにまた励まされます。

私はあのとき私が経験したことは何なんだろうかと振り返ることがあります。田中信夫という臨床心理学博士の卓越したカウンセリング技術を見たからだろうか、愛と信仰に生きる田中信夫という一人の牧師の姿を見たからだろうか。それもありますがそれ以上のものがあります。私が感動し今もその思いを生き生きと思い起こすことができるのは、私がこのキャンプで、田中先生の生き方の中に、今もよみがえられ今も働いておられるキリストを仰ぎ見たという経験からくる感動があるからだと思います。これが信仰によって励ましを受けるという内容であり、第2番目の経験と言えると思います。

パウロはロ−マ教会をいつの日か訪ね、交わりの中で、お互いの信仰をもって「励ましを受けたい」と願いました。パウロは教会の交わりの基礎は、ともにキリストを仰ぐことと理解しました。聖餐式は交わりとも言われます。教会のおける真の交わりは、ただ一人のお方イエスキリストをともに囲み、イエス様をともに仰ぎ見、イエス様にともにお仕えする中に存在しています。この交わりの中に、真実な励ましが秘められているのです。

 「互いに励ましあう」という場合、私たちはことばで相手を励まそうと思いがちですが、しばしば私たちが語る言葉が、励ましではなくむしろ相手を傷つけてしまっている場合もあることを覚えなければなりません。ことばによる励ましというのは意外と難しいのです。たとえば、「がんばってね」という何気ない励ましの一言が「もっとがんばりなさい、今のままじゃだめだ!」と非難めいて強く響いたり、「これ以上、どうがんばれというの」と相手を追い詰めたり、「がんばれているあなたはいいわね」というひがみを強めさせたりしてしまうとも起こりえます。被害意識が強い場合、「うん、ありがとう。がんばるわ」という素直な返事はまず聞くことはできないと思います。

 そもそもことばで励まされる場合というのは、自分が考えているようなことを相手が言ってくれたようなときだけと言っても過言ではないと思います。最近読んだ本の中に、コミュニケ−ションが上手な人は、「相手が何を聞きたいかということに80%もの時間を使っている。自分が言いたいことに対しては、20%しか時間を使わなくても十分である」といったことが書いてありました。ですから聞きたいなと思っている自分の考えや答えを相手から聞くと、「そうその通り。わかってもらった。」とたいへん励まされ恵まれた気分になるのです。

だいたい素直に人の話を聞く人などそうはいません。私も含めてですが・・。ですから言葉での説得は押し付けになったり、決め付けになったり、非難や裁きになったりする可能性も高くあまり効果的ではありません。励ましたと思っているのは本人だけだったということが以外と多いものです。

結局のところ、一人一人がイエス様の前に誠実に生きること、その姿が最大の励ましの言葉となるのではないでしょうか。イエス様にいつも変わらずお仕えしているクリスチャンの姿が、教会の中では、何よりも大きな励ましのことばなり、他の兄弟姉妹たちを生かし喜びを与えます。と言うのは、その人の中に愛と恵みを注いでおられるイエス様を見ることができるからです。イエス様に愛されている幸いをその人の中に見出すとき、自らもまた恵まれるのです。
 今日も90歳、80歳、70歳の高齢者の姉妹方が仲良く連れ立って礼拝に出席されています。前列に座り礼拝をささげておられるお姿こそが、私たちへの神様からの生きたメッセ−ジではないでしょうか。姉妹方の熱心さと言うよりは、そのような信仰の歩みをいつも導いておられるイエス様のすばらしさが私には伝わってきます。そして牧師の私自身が実は励まされ慰められているのです。

パウロはロ−マの教会のクリスチャンを、「神に愛され、神に召された聖徒」「神の恵みの最大の受け手」と呼びました。このことは全世界にいるすべてのクリスチャンにもあてはまります。神の恵みの最大の贈り主であるイエス様を、交わりの中で、ともに仰がせて頂きましょう。


                             祈り

天の父なる神様、あふれるばかりの恵みの贈り主であるあなたを今日も仰がせてください。
イエス様、私たちの交わりを祝し、いつもあなたを仰がせてください。ともにイエス様を仰ぐ信仰の交わりの中で私たちを励まし、歩みを強めてください。ア−メン。

     

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