21 ロ−マ人の手紙  題 「信仰と聖潔に進む」 2003/5/4

聖書箇所 ロマ6:17-19


「またあなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ死者の中から生かされた者として、あなた方自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ロマ7:19)

 イエス様を救い主キリストと信じる人々は、その信仰の告白の目に見えるしるしとして、水の中に全身を沈めるバプテスマ式を受けます。このバプテスマはイエス様の御命令に基づいて執行される教会の大切な礼典とされています。そこでパウロは6章全体を通して、バプテスマの意義を懇ろに教えています。バプテスマを受けることはキリストと「一体とされ」、「キリストとともに古い自分に死んで葬られる」という十字架の体験と、「キリストとともに新しいいのちに生きる」という復活の体験に預かることと教えたのです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(6:4)

教会に導かれた人々は、永遠の昔から神様に愛され選ばれた一人一人ですが、永遠の求道者で終わってはなりません。主の召しと祝福に、信仰をもって応答し、バプテスマを受ける決心をしていただきたいのです。もし父や母がクリスチャンであるならば、子供さんたちは天国の子どもとして特別に選ばれた存在です。子どもは親を選べませんけれど、天の父なる神様があなたを選んでくださったのです。ですからおさない心であってもイエス様を信じることができたならば、小学生でも中学生でもバプテスマを受けて、イエス様の教会にはっきりと所属するものとなり、教会の交わりの中で成長してゆく人になっていただきたいと願います。

キリストを信じて「キリストとともに生きる」(8)人々、つまりクリスチャンには、2つの大きな特徴が見られます。

第1は、自分のためにだけ生きるという「エゴイズム」の人生から、神を愛して神の御心と栄光のために生きるという「献身」の人生へと方向転換させられることです。かつては自分がいつも中心でなければ気がすみませんでした。「世界は私のために在るのよ」とばかりわがままに振舞っていました。中国ではこのような自己中心主義者を「小さな皇帝」と呼ぶそうです。罪を英語でSINといいますが、スペルが暗示しているようにいつも「I」自分が中心になって大きく居座っていなければ気がすまないのが罪の性質です。

しかし、イエス様を信じた人々は、その「自己中心」という生き方が根底から砕かれます。そして復活され天の御座に着かれたイエス様を「私の主」「私の王」と仰いで忠義をもってお仕えする「献身の生活」「しもべの生活」へと変えられてゆきます。かつてのように自分の心の王座に自分がでんと居座るのではなく、自分の心の王座に「イエス様」が座わり、自分はその座を降りて足元にひれ伏し、しもべとしてお仕えする心に変えられてゆきます。

「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(6:13)

第2は、人間的な「情欲や不義に従って」生きる心から、「聖潔をめざして」生きる心へと変えられてゆくことです。聖潔とは、ホ−リネスと英語でいいますが、キリストにあるきよい生活を求める志を指します。聖書的な聖潔とは、

第1に、神様との聖い関係を意味します

生まれながらの人間は、一方では「神など信じるのは愚かなこと」と神様を否定し、その一方では、何でもかんでも信じ込んで盲目的になり、あらゆる種類の神々を作り出して拝みます。宗教法人だけでも19万近く日本には存在しており、諸神諸仏が混在する世界となっています。また反社会的な宗教団体も多くあり、宗教は「いかがわしいもの」「はまりこんではならないもの」とみなされています。このような社会的評価が浸透しているとすればじつに悲しいことといえます。

パウロの時代、ロ−マやギリシャの神々を信じる宗教世界においては、倫理性が欠如していました。たとえばコリントには壮大な女神を祭る神殿があり、そこで仕える多くの若い巫女たちは現代で言えば公認売春婦であったといわれています。同性愛者のための男娼もいたそうです。日本でも昔から大きなお寺のそばに発展した門前町は同時に遊郭の町としてもたいへん栄えました。お金がらみ、セックスがらみというのが肉的な宗教の実態といえます。

バプテスマ式は「キリストとの結婚式」ともいわれています。それは多くの宗教、多くの神々と呼ばれる中から、まことの神、救い主としてイエスキリストを信じ、ただこのお方ひとりだけを生涯愛して従い、信頼して仕えてゆくことを選んだことを意味するからです。ですからイエス様以外の何者をも拝んではならないし、奴隷となってはならないのです。主イエスキリストとの関係においてますます「聖潔にすすむ」ことが求められているのです。純粋にキリストのみを愛し、もう2度と偶像の奴隷となっていつわりの神々に仕えてはならないのです。キリスト以外のなにものをも心の偶像としてはならないのです。このように、イエス様への純粋な愛を保持して信仰の生活を送ることを「聖潔に進む」といいます。

「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

第2に、隣人との聖い関係を意味します。

パウロは生まれながらの人間はすべて罪とその情欲に従って支配されている「罪の奴隷」(6)であり、「以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて不法にすすみました」(19)と指摘しています。ここでは人間関係における聖さ、倫理、道徳性が問われています。神さまとの正しい聖い関係は、人間関係においても正しい聖い関係を生み出すことができるのです。神学的には、イエス様を信じて罪の赦しを頂き、神の子として受け入れていただき救いを得ることを「義認」といいます。この義認は即座の決定、しかも永遠の決定です。信じることによって無条件でもたらされる「賜物としての救い」です。

一方、イエス様によって救われた者たちが、神の国にふさわしい倫理的性質に変えられ、知的な理解力がいよいよまし加わってゆくことを「聖化」と言います。聖化はプロセスであり、天国に入るその瞬間まで、「聖くされ続けて」ゆきます。そしてここで大切なポイントは、聖化をもたらすのは「キリストの御霊」、御聖霊のお働きであるということです。義認はキリストによってもたらされ、聖化は御霊によってもらされます。ここが人間的な努力や修行を強調する儒教や道徳倫理と異なる点です。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことはありません。」(ガラテヤ5:16)。

聖化についての教えにおいて、「走りなさい」と命じられてはいません。「歩みなさい」と命じられています。このように、御霊が導き仕上げてくださるみわざはいつもゆっくりです。「時速4キロ」の御業です。ですから早く結論を出そうとしてはなりません。御霊の働きに自分を任せること、それが信仰でもあるのです。

19節以下に人間関係を破壊してゆく「肉の行い」のリストが15項目あげられています。「不品行、穢れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」は、人間関係を確実に破壊してしまいます。私たちはこのような罪に支配されているのです。しかし、聖書には、御霊が働きながら「愛」を中心とした8つのすばらしい実をその人生に結ばせてくださるとの約束が記されています。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった御霊の実は人間関係を豊かに麗しいものにします。実が結ぶのには時間がかかります。もやしや貝割れダイコンならば一晩で栽培して出荷できますが、人間の心の成長、成熟は即席野菜のようなわけにはいきません。けれども、御霊によって生きるならば、御霊が導いてくださるのです。ですから「聖潔をめざして進む」ことができるのです。

ときおり私たちは自分のできの悪さに嘆くことがあります。またしばしば自分のことを棚に上げて子どものできの悪さに悩むこともあります。さきざきに不安を感じることがあります。でも、信じたいものです。イエスキリストにあるならば、聖霊が変えてくださることを、成熟させてくださることを、整えてくださることを、聖潔の実を結ばせてくださることを。15の肉の欲に支配されるだけの空しい生き方は、御霊にあるならば必ず解放されるのです。

イエス様との純粋な信仰の関係においても、人間関係における愛の関係においても「聖潔」に進ませていただきましょう。

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。」(ガラ5:25)


祈り

人間的な力や知識や努力に頼りがちな私たちです。御霊によっていよいよ聖さの中に、私たちを導き高めてください。                       

     

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