22 ロ−マ人の手紙 題 「悪い知らせと良い知らせ」 2003/5/25
聖書箇所 ロマ6:20-23
「罪の支払う報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、
わたしたちの主キリストイエスにおける永遠のいのちです。」(ロマ6:23)
皆さんの人生で最悪のニュ−スと最良のニュ−スを教えてくださいと言われたらどんな出来事を思い浮かべますか。
6章23節には良いニュ−スと悪いニュ−スが記されています。「罪の支払う報酬は死である」とまず最悪の知らせが記されています。もし罪を主人とし罪の奴隷として生きるならばその報いとして死が支払われるというのです。報いと訳されたことばの意味は給料です。給料・サラリ−の語源はsolt(塩)だそうです。古代ロ−マでは塩はたいへん高価でしたから、兵士たちには給料として塩が支払われました。ですから本来、高価で良いものが給与として支払われたのです。ところが聖書は、罪というご主人からは、その奴隷たちに「ご苦労様」と言ってサラリ−が渡されるがその袋の中身は永遠の「死」であるという実に皮肉な現実を教え警告しています。
以前、バイク好きな若者の間でロ−リング族がはやりました。ヘヤピンカ−ブのある国道などで深夜に猛スピ−ドで走行して時間を競う危険な遊びです。あるお母さんが心配して何度もいさめたのですが高校生の息子さんは腕に自身があり、オ−トバイを改造して乗り回していました。そしてとうとう悲しい知らせが警察からもたらされたのです。バイクが転倒し脳挫傷で危篤状態なので至急病院へ駆けつけてほしいと。幸い一命はとりとめましたが、言語障害と首から下の機能付随という重い障害が残ってしまいました。ご自宅に伺いましたが、本人は言葉を話すことができず、涙を流して心底から悔いていました。その後リハビリに励んでおらでおれると聞いていますが、回復を心からお祈りさせていただいています。
さて、聖書的な意味での死とは、肉体上の死を指すよりは、黙示録に記されている「第2の死」を指しています。それは終末的な意味における永遠の死であり、永遠の滅び、神との永遠の断絶を指します。イエス様が十字架の上で「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばれたあの絶望的な断絶、「見捨てられ」を指しているとも言えます。終わりの日に神に永遠に見捨てられてゆく、これほど深刻な絶望は存在しません。
人間はみな「見捨てられる」ことを恐れています。日本人は特に周りの人々から見捨てられてゆくことを恐れます。親に見捨てられることを恐れ、やがて友達に見捨てられること、最後には社会から見捨てられてゆくことを強く恐れます。以前、家内が川に投げ捨てられていた子犬を2匹拾ってきたことがあります。肺炎にかかってしまいました。獣医が、「飼い主に見捨てられて川に投げ込まれた心の傷があるから病気にかかりやすくなってるのでしょうね」と話されたそうです。犬でさえ見捨てられることが病気につながってゆくのですから、人間は見捨てられたと思えば、自殺に至ることも十分考えられます。
私たち人間はこの人生で「神に見捨てられる」という絶望的な経験をまだ誰も味わっていません。創造主である神様はすべての人を「私の目にあなたは高価で尊い」と愛のまなざしで見守ってくださっています。悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を注いでくださいます。悪事を働き罪を犯し続けてもなお忍耐の限りを尽くして悔い改めにいたることを待ち望んでくださっています。再出発する機会を用意してくださっています。ですから「神が見捨てた」などと軽々しく口に出してはなりません。しかし、神のご忍耐はキリストが再臨されるときをもって閉じられます。旧約聖書にはノアの宣教が終わったとき、天の水門が開かれ四十日に及ぶ大洪水が襲いかかりました。そのとき神は「後ろの戸をとじられ」(創7:16)、外から閉じられた箱舟の扉は2度と開かなかったことが記録されています。神の恵みには終わりのとき、終末があるのです。私たちは正しい意味で終末意識を持ち、神に会う備えを忘れてはなりません。
2 よい知らせ
さて悪い知らせの後に、「神のくださる賜物は、キリストイエスにある永遠の命です」という良い知らせが明らかにされます。
ここで重要な第1のキ−ワ−ドは、「キリストイエス」という御名です。弘法大師や親鸞聖人や日蓮上人、マホメットでもブッタの名ではありません。神の御子イエスキリストにおいて、神は永遠のいのちを与えてくださったのです。父なる神は、罪の中に生まれ、罪の奴隷となって生きる生まれながらの罪人の私たちを深く哀れみ、救い主としてキリストを遣わされました。ブッタもマホメットも空海も親鸞も日蓮も共通していることは、みな優れた宗教的な感性と人生哲学を持ち、多くの苦悩を経験する中で深い人生観や人間観を身に着けた人物であったという点です。端的に言えば彼らは「悟りの道」を説いたのです。これに対してキリストは、自ら進んで罪人の身代わりとなって十字架の上で死なれ、罪からの赦しをもたらしてくださいました。キリストは悟りを教えたのではなく、救いの扉を開いてくださったのです。
このようなたとえを聞いた事があります。深い井戸に落ちて足を折ってしまった人が助けを求めました。仏陀が通りかかり「これもまた何かの因果、ざためと諦めなさい」と説きました。孔子が通りかかり「君子危うきに近寄らず。落ちる前によく考えて注意深く行動しなさい」と諭しました。キリストが通りかかると彼はすぐにロ−プを下ろし、自ら井戸の底に降りてきて彼を背負って引き上げてくれました。罪人を諭し、悪の結末を説き、人の道を教える人は多くいますが、罪人のために十字架にかかり身代わりとなって神にのろわれ見捨てられ裁かれて死んでくださったお方はキリスト以外に見つけることはできません。
第2のキ−ワ−ドは「賜物」です。給料は当然の報いとして受け取るべきものですから働いたぶんにふさわしい報酬を要求することができ、支払ってもらえなければ賃金未払いであると訴えることもできます。ところが「賜物」は受け取るに価しない者に神からの恵み、御好意として与えられるもの、プレゼントされるものです。私みたいなものが本当に取ってもいいのかと躊躇してしまうほどの恵み、それが「神からの賜物」です。自分の働きと受け取るものとの間に、常識では考えられないほどの大きな開きがあるにもかかわらず、無条件で受け取りなさいと差し出されたものが、賜物としての永遠のいのちです。
残念ながら実感がともなうことは多くありません。むしろい日常生活のあわただしさの中でいつしか恵みの大きさにさえ気づかなくなってしまうことがあります。ですから日曜日の礼拝でみことばを聴くことによって、神の恵みの大きさを再確認しているとも言えます。罪の赦しや永遠のいのちという神の大いなる賜物はおそらく私たちが「死」に直面させられるようなときに、始めて大きさを味わうことができるのではないでしょうか。もちろん人は1度しか死ぬことができませんから、自分の死の経験を他の人に語ることはできません。ですから他の人々の死に臨む信仰の姿から謙虚に学ぶしかないのです。
私は実の母がガンでなくなったときに、永遠のいのちの恵みを始めて実感しました。私の母は胃がんの末期で入院後わずか5日でなくなりました。母は死のまぎわに信仰を告白しました。私は意識がなくなってからも聖書のことばを枕もとで読みつづけ、母への感謝のことばを語りました。意識が無いはずの母の目から涙がこぼれました。母の魂が神のことばに慰めを受けているのだと思いました。母が臨終を宣告されたときにも、悲しみ以上に、天国に母が帰ることができたという平安が私の心を包みました。妹が「兄ちゃん、おかあちゃんはどこへ行ったの」と尋ねた時に、「罪を赦していただいて天国へ行ったよ」と透き通った気持ちでいうことができました。キリストにある永遠のいのちの希望に生かされるとはこういうことなのだと不思議なほど実感しました。母の死に直面させられつつも、絶望に圧倒されない確かな希望に心がしっかりとらえられているのです。永遠のいのちの希望というのはこのようなことなのだと経験できました。妹も母の死を通して信仰に導かれ、救いを受けた妹が田舎に再婚して住んでいる父を伝道し、やがて父を救いへと導きました。確かに、神の賜物はキリストにある永遠のいのちなのです。
さて最後に、永遠のいのちということばも終末的な意味をもっていることを覚えましょう。そこには「死後、神の国で永遠に生きる」という意味とともに、永遠に通じる「今を生きる」真のいのちという終末的な意味があります。この点はイエス様ご自身が「信じる者は永遠の命を持つ」と言われたとき、未来形動詞ではなく現在形動詞を用いられたことからも明らかです。
この新しいいのちの特徴は、御霊による「愛と喜び」と、神への「感謝」にあると私は思います。1テサ5:16−18では、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と教えられています。命令形になっていますが、喜べ・祈れ・感謝しろという戒律ではなく、キリストにあって新しいいのちを受けた人々の生活の特色が教えられ、このような生活に招かれていることの幸いが強調されているのです。十字架の赦しを頂き、神様との和解が与えられ、神様との親しい交わりと語り合いに招かれたことが「祈り」です。祈りは神様への感謝と喜びとなります。感謝と喜びは、礼拝、伝道、兄弟姉妹との愛の交わり、隣人への愛の奉仕へと豊かに流れ出てゆくのです。
イエス様は「私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14)「私を信じる者は、聖書が言っている通リに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)と約束されました。
罪の支払うサラリ−は死であるという悲しい知らせが告げられました。生まれながらの人間はみなこのサラリ−を受け取りながら滅びに向かう生活を歩んでいます。しかしこの悲しい知らせを覆す、良き知らせが告げられています。神はイエスキリストにおいて永遠のいのちを無条件で信じる者に与えてくださったのです。そしてこの良い知らせは悪い知らせによってかき消されてしまうことはありません。「主キリストにある」かぎり、この良い知らせがあなたの人生を支配するのです。「主キリストにある」かぎり、良い知らせに生きる人生へと招かれているのです。
祈り
天の父なる神様、私たちを罪の奴隷から解放し、あなたの義の器としてください。
神の賜物を感謝し喜ぶ歩みへとますます導きいれてください。
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