24 ロ−マ人の手紙  題 「理想と現実のはざまを超えて」 2003/6/22

聖書箇所 ロマ7:15-25


「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救いだしてくれるのでしょうか。」
(ロマ7:24)

夏目漱石は「智に立てば角が立ち、情に棹差せばながされる。とかくこの世は住みにくい」と言いました。理論だけでは物事は割り切れなく争いが起きる。しかし情にたてば理が曲げられ流されてしまうと。理想と現実との間には常にハザマがあり、私たち人間は常にそのギャップに悩みます。聖域無き構造改革を断行する、改革に反対するなら自民党をぶっ壊すと豪語した小泉首相の理想も現実の利権政治の前にすっかり色あせ、骨抜きにされてしまいました。理想と現実のハザマで揺れ動き苦悩する姿は、いつの時代もかわらない人間の姿といえるかもしれません。

1 理想と現実のはざま

パウロもこの箇所で、自分の中の内的な葛藤、自己矛盾を素直に告白しています。

「私は自分のしていることがわからない、望んでいることをせず憎んでいることをしている」(15)「善をしようとする意思はあるがそれを実行できない」(18)「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」(25)。最後に彼は「私はなんという惨めな人間なのだろう」(24)と結論づけています。この苦悩はパウロがクリスチャンになる前の苦悩を書いているのだという説もありますが、クリスチャンとなり、使徒とされ、宣教師となったパウロが今もなお経験し続けている葛藤を告白しているといえます。

パウロはこうした激しい心の葛藤が生じるのは、自分の意志が薄弱で、自分に甘いため、厳しさや自覚が足らないからだとは考えませんでした。願わない憎むべき悪を行ない、善をしようと欲しているのに実行できないのは、もっと深いレベルの問題であり、私の存在が罪の下に売られている「罪の奴隷」であり、惨めな「死のからだ」(25)となっているからだと考えました。死のからだということばはきわめて宗教的な自己理解といえます。

死の体という表現は、ロ−マ時代の死刑方法と関係しており、死刑囚を餓死させて処刑する時に、死刑囚の背中に墓場から掘り起こしてきた死体をくくりつけて、一緒に丸太にくくりつけて放置し、生きたままからだを腐らせて死に至らしめるという残忍な方法が用いられたそうです。つまり、パウロは神様を知らず神様から遠く離れたままの状態で生きているならば、死体をくくりつけられて徐々に自らも腐敗してゆく惨めな死刑囚のようなおそろしい状態にあるというきわめて鋭い自覚をもっていたのです。

初代教会の指導者であったペテロもイエス様と出会ったとき、獲れたおびただしい魚には目もくれず、「主よ、私の様な者から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」とイエス様の足元にひれ伏しました。カ−ルバルトという神学者は「宗教は人間の救済でもなければ、その救済の発見でもない。宗教はむしろ人間の救われなさの発見である[2]といいました。親鸞は自らを罪深深重、煩悩具足の凡夫と言いました。すべての煩悩、罪悪、業に満ちている、それが仏の目に映っているありのままの姿である。救われがたい罪人であるとの自己理解との自己発見こそが宗教的自覚の最初でもあると思います。罪深さと空しさは信仰の道に入る入り口となっています。

 理想と現実の間を彷徨する人間

私たちは生きて行く限り、「その現実の姿はあるべき姿と一致せず、そのあるべき姿は現実の姿と一致しません。」[3] 地上の生活ではその溝は永遠に埋まらないといっても過言ではないと思います。そのような自己不一致や矛盾や葛藤を抱えて私たちは、天と地の間を彷徨するのです。それがお互いのありのままの姿です。その現実を受け入れなければなりません。批評家肌の人は、自分のことは棚に上げて、他人の自己矛盾を激しく責め立てます。

理想主義肌の人は、現実を無視して、しかも具体策を提案することなく、ただ理想論や正論を熱く説き続けます。一方現実主義肌の人は、理想は「看板にすぎない」とあっさり割り切り、理念も哲学もなにもないまま目先の損得で行動します。これらはどれも神の御心にかなった望ましい生き方ではありません。

多くのまじめな人々は、「あるべき姿に一致しない自分に悩み」、自分を責めたり、罰したりしながら、少しでも理想に近づこうと悩みながら苦闘します。そうした努力の中で、その人らしい味のある生き方を作り出してゆくのです。

精神障害と身体障害も抱え、車イスでの生活をしている未信者のご婦人と交わりを持っています。彼女はずいぶん悩み苦労し自殺さえ考えたこともあります。自分が願うありかたと現実のギャップの大きさに、人や自分や運命をうらみましたが、その苦悩の中で次第に「自分の生き方」を見出して行かれたのです。「身も心も病んでいる。だから哲学もってな生きてゆけへん」と話す彼女に、「自殺したいと願う人々にあなたから、どんなメッセ−ジを伝えてあげることができますか。教えてほしいな。」と願いました。すると彼女は即座に「最後まで生きたらいいやン。あんたが生きようとせんでも、心臓も胃も生きてる。ちゃんと生きようとしている。だから心を大事にしてあげよう。心が先やから。」と話してくれました。私は感動し「ありがとう。元気をあなたから頂いたよ」とお礼を述べました。からだはみんな最後まで一生懸命生きようとしている。心だけが死を考えてる。だから「心が先」ということばは彼女しか語れない宝石のような輝きをもっていると思いました。体は最後まで生きようとして動いている。たった一つ心だけが自殺を考えている。しかもその心の半分は「死なないように」と願っている。ただ半分の心だけですべてを終わらせるのはあまりに惜しいことと思います。

アラブには「晴天ばかり続くと砂漠になる」ということわざがあるそうです。雨が降らなければ緑の地にはならない。つまり人生は良いことばかりではやがて荒野になってしまうと言う含蓄のあることばです。試練や困難、葛藤や苦悩の中で、迷いつつも私たちは学びつつ歩んでいるのだと私は思います。

3       キリストにあってはざまを超える

パウロは死のからだという絶望的表現をしつつも「神様に感謝します」と天を見上げ告白します。私たちは理想と現実のはざまで彷徨します。けれども神の栄光をあらわさせていただきたい、良いことをしたいと願う信仰の心を頂いています。悪を働こうとの罪の原理から解かれています。ですから自己否定的自己破壊的になる必要はありません。しかしながら、パウロ同様、わたしたちにとっての最大の課題は、良いことを願う意思を生かす力がないことです。肉体の筋肉はトレ−ニングを通して強くすることはできますが、心の筋肉を鍛えることは同じようなわけには行きません。私たちはいつもまず、心が弱り力の足りなさを覚えてしまうものです。

ですから私たちは自分以外から、自分を超えたところから力を受ける必要があります。その力は聖霊による神からの力、上からの力です。クリスチャンは聖霊の力を上より頂く、ペンテコステの恵みに招かれています。何とさいわいなことでしょう。力の霊は神のうちに、キリストのうちにあります。天と地の間を彷徨する私たちですか、聖霊の力、上からの力の中に、真の力を見出し、喜び、そして感謝できるのです。人間の力は限りがあっても、上からの力は無尽蔵だからです。

「神が私たちに与えてくださったのは臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」

                  (2テモテ2:7)

自分の中に無力さを見出すようなときにも、キリストの中には天の力を見出すことができます。そして私たちは、その御霊の力に生かされる特権が与えられているのです。だから無力な私たちも、キリストにあって「神に感謝します」と告白できるのです。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」    (2コリント12:9−10)


                                祈り

無力な者の力となり喜びとなってくださる御霊なる主よ、あなたの恵みをほめたたえます。

私たちを限りある人間の力の中にとどめるのではなく、キリストにある力へと導いてください。

                                                 
                                        

     

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