23 ロ−マ人の手紙 題 「神の聖さとして戒め」 2003/6/1
聖書箇所 ロマ7:7-13
「しかし、今はわたしたちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので。それから解放され、その結果、古い文字によらず、新しい御霊によって仕えているのであす」(ロマ6:6)
6章までのロマ書の学びを振り返りましょう。私たち生まれながらの人間は誰であってもみな、最初に神に背いて罪を犯したアダムの子孫であり、罪の性質をもって生まれ、罪の下におかれ、罪を犯しながら生きつづけ、そして罪の中に死んでゆきます。もちろん比較的まじめな生き方をする人もいます。しかし京都タワ−の上から地上を歩く人を見下ろせば、身長が150センチの人も190センチの人もかわりありません。人工衛星から見れば、宇治の大吉山も京都の比叡山も静岡の富士山もほとんど変わらないのと同じです。聖い神から見ればすべての人間が、アダムに属する罪人に過ぎません。そして罪を主人として罪の奴隷、不義の器となって生きているのです。それらの行き着く先は死と滅びです。
いっぽう、神が遣わされた御子イエスキリストを信じる者は、無条件で罪の赦しをいただき永遠のいのちを受け、神の子とされ、キリストに属する新しい人と呼ばれます。彼らはキリストを主人とし義の奴隷、従順の奴隷となって神に仕え、聖潔にいたる実を結ぶことができます。彼らの行き着く先は永遠の命と神の国です。
ではどのようにして生まれながらの罪人が、キリストに属する新しい人となることができるのでしょう。その答えはバプテスマに隠されています。「キリストの死にあずかるバプテスマ」(6:4)を受けることによって、キリストとともに葬られ、キリストとともに甦らされ、キリストに継ぎ合わされて、キリストに属するものとされるのです。
ですから信仰を告白して、キリストの名によってバプテスマを受け、キリストのいのちに継ぎ合わされることが何よりも大切です。イエス様自身も「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と明言されました。パウロは「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる」とはっきりとバプテスマについて指導しています。ですから伝統的な教会では、信じてバプテスマを受けた人々にのみ「聖餐式」を受ける特権を認めました。
この世には2種類の人間しかいません。アダムに属する古い人と、キリストに属する新しい人です。あなたもどちらかに属するしかないのです。今年も夏に静川でのバプテスマ式を予定していますので、ぜひ、すばらしい大いなる祝福に預かってください。
さてパウロは7章に入り、キリストに属する人々にとっての「律法」の存在意義を問い直しています。ユダヤ人でクリスチャンになった人々にとって従来身に着けてきた律法とどう向き合えばいいのか、今まで通り厳守しなければならないのか、あるいは完全に無視して放棄してしまっていいのか、大きな問題でした。これからクリスチャンになろうとしている人々にとっても、関心あるテ−マだと思います。昔から「酒飲むな、タバコ吸うな、女遊びするな、バクチうつなと、ああめんどうくさいキリスト教」と揶揄されてきました。ですからキリストの聖い教えに、ちゃんと従えるかなと自信のなさを覚えて入信をためらう求道者も多いのです。
7章の日本語訳はすっきりしません。ですからパウロの結論を2点に絞って要約します。
1)律法は神が与えられた「聖く正しく良い」(12)ものですから、無視したり否定したり捨て去ってはなりません。旧約聖書のモ−セの10戒はユダヤ人にもクリスチャンにも、全人類にとっても普遍的な真理であり、聖く正しいものです。人間社会に秩序と平和をもたらす良いものです。法律が守られない無法地帯では安心して暮らすことができませんね。昔フィリピンへ行った時、信号無視は日常茶飯事と聞いて驚きました。この町ではとても車の運転はできそうにないなと思いました。
正しい律法に対して私たちも「正しい関係」に立つことが必要です。間違った関係があります。それは、律法を救いの手段とみなすことでした。良い行いをすれば救われる、良い人間になれば救われるという道徳主義に陥ることです。その結果、律法をことごとく「守らなければならない」という、戒律主義、律法主義の中に信仰生活を閉じこめてしまう結果に至ります。「ねばならない」と、ねばねばにからみとられてしまえば信仰生活の喜びは消えてしまいます。いと引き納豆みたいな信仰生活に解放と喜びはありません。「ねばならない」という強い束縛感や過剰な正義感はしばしばその人を苦しめ追い詰めてしまうことになります。融通の利かないまじめな人ほど、脅迫神経症的に「ねばならない」の世界に閉ざされてしまい、自分を自罰的に責めたり、逆に他人を容赦なく裁いてしまいやすいのです。
律法との正しい関係とは、御霊の愛に生きることです。「神を愛し、隣人を愛しなさい」と言われたキリストの愛の戒めに積極的な生きることです。パウロは「新しい御霊によって仕える」(6)と表現しました。
かつて札幌農学校にクラ−ク博士が赴任した時、学校はずいぶん荒れていたようです。つぎつぎと強化されてきた校則をすべて廃止し、一つの新しい戒めだけを学生たちに求めました。「Be Gentleman」(紳士たれ)と説いたのでした。てはどのようにしたら「紳士でありえるのか」それは自分が考え自分が判断し自分が自己向上してゆくことに委ねたのでした。信頼がなければできないことです。その結果、この学校から新時代を担う優れた若者たちが輩出したのでした。律法は聖く正しく良いものです。だからこそ本質をとらえて文字ではなく愛に生きるという正しい関係が求められるのです。
2)律法は、救いを獲得する「手段」としてではなく、罪を自覚するための「鏡」、罪人をキリストのもとに連れてくる「案内係り」とみなすことです。「律法によらないでは、私は罪を知ることはなかったでしょう」(7)。
たとえば「汝殺すなかれ」という戒めが無ければ、それが神の前における大きな罪であり、避けなければならないとの自覚は生まれなかったはずです。なぜならば、自分たちの敵を殺すことはむしろ正義であり、当然の権利でありしかたないことだからと考えいつでも正当化してしまいやすいからです。たくさん敵を殺した者が英雄と呼ばれ称賛されるという考えはどこか間違っています。人生で辛いことばかり続いてもう生きていることが嫌になった、生きていても意味の無い人生に自分で幕をひいて何が悪いと自殺を正当化しようとする者もいます。不治の病で苦しんでいるだけの患者を診ていて安楽死させるのがどうして悪いのかと反論する医者もいます。経済的に苦しいので子どもを降ろしてなにが悪いのかと強制する夫もいます。早く戦争を終わらせるために原爆を落として何が悪いのかと効率性を主張する政治家もいました。もし「殺すなかれ」との戒めが無ければ、罪の自覚は生まれず、したがって歯止めが利かなくなります。「聖く、正しく、良い」(12)神の戒めが歴然と存在するから、人間は初めて罪を自覚し、自らの愚かさに気づくのです。
「貪ってはならないと言われなかったら、私は貪りを知らなかったでしょう」(7)
人間は「だめだ」「してはならない」と禁止されればされるほど、従順に従うよりは、反抗心や好奇心が刺激され、欲が膨らみ、むさぼりにとらわれ、罪や悪事を犯してしまいます。つまり、禁止命令は私たちの貪りをとめることはできません。むしろ律法は私たちの無力さをますます明らかにするのです。律法は「自分にはできる」と言う肉の誇りを剥ぎ取り、「自分にはできない」という現実と無力さに向き合わせてくれます。
私たちは自分の無力さを知り、キリストのもとに導かれ、十字架の赦しの下に立たされるのです。律法を通して私たちは罪を自覚させられ、罪人の自分がキリストの前に立たされ、そこに裁きではなく赦しを見出すことができるのです。
「こうして律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係りとなりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)
律法との正しい関係、それは第1に、御霊の愛に生きることによって律法の本質を実践することです。第2に、自分の罪深いありのままの姿を自覚し、キリストのもとに進みでることです。律法を全うする力が自らに無いことを自覚し、キリストの赦しと御霊の力を願う、信仰の心を持つことにあります。
祈り
律法主義に陥ることなく、神の聖い戒めに生きる者と私たちを導いてください。
愛の御霊において律法の聖さを正しさを行い、神の良き御心を喜ぶ者としてください。
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