31 ロ−マ人の手紙 題 「あなたは勝利者です」 2003/8/10
聖書箇所 ロマ8:35−39
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(35-37)
1 愛は最高の真理
オ−ストリアの精神科医、V・フランクルは、ユダヤ人であるためナチスにとらえられ、アウシュビッツを含め、3つの収容所に送られ地獄のような苦しみを経験しました。奇跡的に彼は生還できましたが、彼を支えたものが3つありました。神の助け、肯定的な人生哲学、そして妻の存在でした。フランクルは、収容所での過酷な日々の中にも、「人生には意味がある。どんなに過酷な運命にも無条件かつ絶対的な意味がある」と信じ、仲間を励ましました。後に彼の信念はロゴセラピと呼ばれる精神療法に発展しました。彼は新婚で25歳の若妻、ティリーと引き離されアウシュビッツに送りこまれました。妻への最後の言葉は、「どんな犠牲を払ってでも必ず生き延びるのだよ」でした。彼は妻テリへの愛を心に覚え、彼女と時空を超えて精神的な交流をもつことができました。重労働中、「この豚やろう」と監視員に罵声を浴びせられている時でさえ、「わたしはますます強く彼女が今そこにいるのを感じるのであった。彼女をつかむには手を伸ばせばいいかのようである」と感じ、「愛こそが人間存在を高いレベルにもちあげる最後にして最高の真理だ」とわかったと「夜と霧」に記しています。愛という最高の真理が、飢え、寒さ、疫病、ガス室送りの恐怖の日々において彼を支えたのでした。もっとも運命は無情で、妻のティリはアウシュビッツのガス室で収容直後に殺されてしまっていました。
パウロは「神が私たちの味方なら何を恐れることがあろうか」と語りましたが、今日の聖書箇所では、別の角度から「誰がキリストの愛から私たちを離れさせるのか」と問いかけています。わたしたちをキリストの愛から引き離す可能性が在るものがこの世には2種類あります。
第1は、艱難、苦難、迫害といった、現実的な苦しみです。辛いことが続けばつい神様をうらんでしまったり疑ったりしてしまいやすい弱さを私たちは持っています。
第2は、悪霊のさまざまな妨害的行為です。「御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも」(38−39)とは、当時悪霊たちにつけられていた名前だと言われています。彼らは闇の世界の権威と力を持っており、神の子たちを霊的に苦しめ信仰を揺さぶってくると考えられていました。
信仰生活には、サタンや悪霊どもの闇の力、現実的な困難があります。つまずかないように転ばないようにと願っても、私たちの力はそれほど強くありません。お互い、小さなちょとしたことでつまずいてしまい落ち込むことがあります。イギリスには、「4本の足をもつ馬でもつまずく」という諺があるそうです。失敗を必要以上に悩まないためのジョークです。8本足の蟹や6本足のコガネムシがひっくり返ってるのを見たことがあります。2本足の人間がつまずく確立ははるかに高いわけだと考えれば、すこし気持ちが楽になります。楽になった分だけ、気持ちを前向きにすることができます。
パウロは、多くの困難や霊の闘いがあっても、これらの事柄に対して、私たちは「勝ち得てあまりある」と勝利を宣言し、信徒を励まします。パウロは「なんとかこうにかギリギリしのいだ」というのではなく、「圧倒的な勝利者として立たせていただく」ことができるのだと語っています。なぜでしょう。それは、私たちをとらえているキリストの愛があまりに大きく絶対的なものだからです。
キリストの愛は、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」(38) とすぐに置き換えられています。それは、キリストの十字架において明らかにされた神の愛をさしています。神が罪人の私たちを愛して、一人子さえ惜しまず十字架にかけて罪の身代わりとされ、御子キリストも自らすすんで十字架の道を歩まれ、気高い犠牲的な死を遂げられました。神の愛とキリストの愛は、このように十字架において結晶化され、だれもが仰ぎ見ることができようになったのです。
「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ロマ5:7-8)
カルバリの丘にたてられた「十字架の愛」こそが、勝ち得て余りある愛、チャンピオンの愛、王者の愛と言えます。世界中どこをさがしても、十字架の愛に勝る愛を見つけることは不可能といっても過言ではありません。十字架の愛こそが、愛のなかの愛、チャンピオンそのものです。ですから、十字架の愛にとらえられているクリスチャンをパウロは、愛における「圧倒的な勝利者」と呼んだのです。さらにいえば、復活されたキリストの御霊を心に宿している私たちは、死に対しても同様に「圧倒的な勝利者」でもあるのです。誰もキリストにある愛と永遠のいのちから神の子たちを引き離すことは不可能です。
2 意思と自己犠牲が愛の基礎
さて、十字架の愛は、感傷的で感情的な愛ではなく、明確で強い意思によって裏づけされています。さらに十字架の愛は、大きな自己犠牲を礎石にしています。これが十字架の愛の特徴です。
先日、テレビで見ましたが、アメリカの男性にとって、プロポーズは1世1代の大仕事のようです。男性はさまざまな演出を凝らして愛を告白します。大金持ちともなればティファニーの宝石店を借り切り、「あなたの好きな婚約指輪を選んでください」と申し出たり、海賊の宝物を海底で発見したと宝石箱を見せ彼女を大喜びさせ、宝石や金貨の底に指輪をしのばせておいてプロポーズしたりします。「そこまでするか」と私などあっけにとられます。でもそこまで見事に演出したような結婚であっても驚くことに、アメリカ社会では2組に1組が離婚してゆくそうです。改めて人間の愛のもろさを思わされます。一時の感情や興奮や自己満足で動かされている愛はいつしか冷めてゆくか、より刺激的な対象へと移りかわって行きます。自己犠牲を避けようとする愛であれば、犠牲が大きければ身を引いてゆきます。損得をちゃかり計算して、これでは赤字になると判断すればもう御破産にしようとします。しかし、真実な愛は、相手の味方となりどんなことがあっても必ず守ろうとの強い意志とどんな犠牲も厭わない気高い自己犠牲の精神を基礎にしています。だからこそ、人々の心をとらえ、賞賛と尊敬の思いを抱かせるのです。
もう一度、フランクルの話を紹介したいと思います。解放されたフランクルは最愛の妻ティリーも母も弟も強制収容所ですでに死んでいたことを知りました。ティリーは最初、弾薬工場で働くことになっていたので死を免れたはずでしたが、夫に従いたくてアウシュビッツ行きを自ら志願したのでした。強制収容所から解放された直後、フランクルは一人の労働者と喜びを話し合っている時、見覚えのあるペンダントを彼が持っていることに気づきました。それは彼が妻の誕生日に贈った金の地球儀のペンダントでした。ナチの親衛隊はしばしば収容所に入れられたユダヤ人が身につけている宝石類を剥奪し、倉庫に隠し持っていました。何万点もある宝石のなかから、何千人といる解放者の中で、今、目の前にいる一人の人物が妻の遺品を持っているのです。こんな確率はおそらく天文学的な数字となることでしょう。「妻が私のもとに帰ってきた」と彼は心が震えました。フランクルが買い取った妻の形見のペンダントの地球儀の赤道には次の文字が刻まれていました。「全世界は愛を主軸にしてまわる」と。このできごとは、その後のフランクルの思想の中核を形成するに至りました。
世界は私のためにあるのではありません。世界は自分を中心にしてまわっているのでもありません。世界は神の愛と神の救いの意思を中心に動いています。アダムが罪を犯して以来、全人類は神の前に「罪人」となり、神の怒りと裁きの下におかれました。しかし父なる神様は「一人も滅びることなく、すべての人が真理を悟るにいたることを願っておられ」、人類を罪と滅びより救おうと決意されご計画を立てました。この神の愛のご計画を救済史と言いますが、人類の歴史は「神の愛の大河ドラマ」とも言えます。そして、その頂点に御子の十字架の身代わりの死が位置づけられています。ですから十字架の愛は、神のゆるぎない決意が歴史的に具現化したものです。 十字架の愛は父なる神様の「揺るぎない意思」に基づいた愛ですから決してブレず、移りかわらないのです。去年天に召された伊東兄の愛唱聖句は「たとえ山々が移り、丘が動いても、私のかわらぬ愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない」(イザヤ54:10)でした。神はこのように決意されておられます。本物の愛は、決意に基づいています。
さらに私たちは十字架において、一人子さえも惜しまずに与えてくださった父なる神の自己犠牲を見ることができます。罪の刑罰を黙って受けてくださったキリストのご忍耐と捨て身の愛を十字架に見ることができます。イエス様は両手を大きく広げて十字架で磔にされました。なぜでしょう、それはすべての罪人をわたしのもとに来なさいと大きく招き、一人残らず両腕に抱えて、救いへ導くためではないでしょうか。犠牲が大きい分だけ、愛もまた大きいのです。
パウロは、すべてのクリスチャンが「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を超えたキリストの愛を知ることができるように」(エペソ3:18)と祈りました。高さと長さは、神の救いのご計画の聖さ、崇高さ、永遠性を表します。深さ広さは、自己犠牲の深み、キリストによってすべての罪人が救われる普遍性を現しているといえます。人知を超えた神の愛、キリストの愛にとらえられている私たちは、「王者の愛」に生かされているのです。そして、誰も、キリストの愛から、神の救いのご計画から、私たちを引きはなすことはできないのです。どんな困難も試練や戦いにも、勝ち得て余りある愛に、私たちはしっかりととらえられているのです。
祈り
キリストの愛に、すでに捕らえられていることに感謝します。わたしたちは罪人であっても、キリストにあっては
敗北者ではなく勝利者とされていることを感謝します。
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