51 ロ−マ人の手紙 題 「人間関係を築く3原則」 2004/3/7
聖書箇所 ロマ14:1-9
「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ロマ14:7-8)
キリスト者の生活指針・ガイドライン(9)
パウロは13章でクリスチャンとしての市民生活について教えた後、14章では信者同士の人間関係についてガイドラインを記しています。同じ信仰を分かち合い同じキリストの御霊を受けた者同士であっても意見が異なることは生じてきます。ある教会では昼食をうどんにするかカレーにするかで婦人会が対立してしまい牧師が悩んでおられました。うどん一つでさえ意見がわかれます。ましてや新会堂建設というようなビッグプロジェクトに対してある教会が一致して取り組めたとしたら、その教会が教会堂が建つ前から「キリストの愛に根ざした真実な教会であった」ことの証明になります。立派な教会堂よりも教会の愛の交わりが世の人々への最大の証しとなります。
さてロマ教会では、実際上の問題をめぐって意見が分かれてたようです。古代の社会では、ギリシャの神々などの偶像にささげられた肉が市場におろされるという流通制度があったため、ユダヤ教的背景を持つクリスチャンの中には、律法の規定に従い、野菜しか食べてはならない(2)と主張する人々がいました。食べれば穢れると考えたのです。またユダヤ教の暦に従って祭日を律法の規定に従って守らなければならない(5)と主張する人々もいました。守れば「聖められる」と考えたのです。
そこでパウロは3つの原則を提示しました。
1 互いに兄弟を受け入れなさい。 なぜなら神が受け入れておられるからです。
2 互いに兄弟をさばいてはならない。なぜなら神が最後に信徒の言動を裁かれるからです。
3 それぞれ心の中で確信を持ちなさい。なぜなら神のために生きようと志しているからです。
1 第1原則は「受け入れあう」こと。
神様はユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも神の家族としてわけ隔てなく受け入れてくださいました。キリストがその罪を十字架にかかって赦しきよめ、罪の刑罰を取り除いてくださったことにより、一つの信仰と一つの救いに結ばれた神の家族となりました。神の家族とはいえローマの教会には当然ながらユダヤ教的な習慣、伝統、儀式を重んじるクリスチャンが多く所属し、いっぽうではそのようなユダヤ教的伝統にこだわらない信徒も多くいました。しかしパウロはそのようなこだわりのない強い人々に対して、こだわりを持つ弱い信徒を「尊重して受け入れなさい」と教えたのです。
「受け入れること」は、自分もまったく同じように考え同じように行動する同一化とは異なります。また相手の意見をまったくそのとおりですと是認することとも違います。受容とは、自分と異なる意見や考えがあることを当然のこととして尊重し、多様性を認めることです。しばしば熱心な人ほど狭い視野でこれが「絶対正しい」と自分の考えを押し付ける傾向がありますが、他の考えや観方もあるといつでも謙虚に耳を傾ける「柔軟性」を持つことが、教会の交わりには求められます。
多様性と「ばらばら状態」とは紙一重となります。牧師としては悩むところです。てんでばらばら状態にならない秘訣は、イエス様への愛と、「肯定的建設的」なスピリットをもって互いに語り合うことができるかどうかにかかっています。この信仰があるから多様性が生きるのです。私達は、無から有を生じさせる全能の神さまを信じ、神さまに信頼し、神様の御心にます従うことを願うのですから、信仰があるのかないのかわからないような、否定的後ろ向きの信仰になってはなりません。無計画で無謀で無責任な知恵の無いことはできませんが、信仰と建設的スピリットがなければ神さまのための御業やプロジェクトは何一つ進みませんし「夢を織り上げる」こともできません。志を起させ実現に向かわせるのは神ご自身なのですから、私たちには信仰がもとめられます。
2 第2原則は「裁きあわない」こと。
受け入れあうことの反対は裁きあって分裂することです。クリスチャンが裁きあい分裂するのはサタンがもっとも好む行為です。十字架で身を裂かれたイエス様のからだを信徒同士がまた引き裂くのですからこれほど愚かで悲しいことはありません。10節でパウロは自分の兄弟を裁いてはならない、侮ってはならないと戒めています。なぜならば、わたしたちはお互い「神の裁きの座に立つようになる」からです。クリスチャンとなったのにまだ裁きがあるのですかと疑問に思うかもしれませんが、この裁きとは天国に入った一人一人に、地上におけるその奉仕に応じて豊かな報いが与えられることです。12節で「おのおの自分のことを申し開きする」ことになるとパウロは説明しています。
クリスチャンは未信者のように「キリストの十字架の罪の赦しを信じる信仰があるか無いかで」で「天国か地獄か」と裁かれることはありません。キリストを信じる者はみな永遠の命を受けることができ天国に国籍を持つ特権に預かるからです。イエス様は、タラントを与えられた僕たちを題材にした2種類のたとえ話を弟子たちに語られました。そこでは、多く与えられていながら少ししか返せなかった僕だけが戻ってきた主人から叱られています。天国における「ごほうび」、神さまからの労いを受けることについての教えがあることを忘れてはなりません。私たちクリスチャンはみな異なる賜物が与えられていますが、与えられた恵みのはかりに従い、どのように神さまにお仕えしたか、私たちのことばが信仰的で建徳的であったか、私たちの奉仕や捧げものが神様への愛と感謝からでたものであったか、小さなことにも忠実なしもべであったか、すべてを神様は見ておられます。そして、天国に積み上げた宝が納めてある蔵のとびらを開く鍵を渡される日が来るのです。神様は私たちが地上に残してきたものではなく、天国に積み上げてきたものに価値を置いておられるのです。
神さまが最後にご判断され、裁かれ、報いを手渡してくださいます。私たちのそれは栄光の日です。イエス様のために地上でもっとも貧しくなったものが天国ではもっとも富める人と呼ばれることでしょう。ですから地上では裁かないことです。神さまは信仰を見ておられるのですから。
3 第3原則は「心の中で確信を持つ」こと。
自分の信仰のありかたに対して、「各自」が自分で確信を持つ(5)ことをパウロは勧めています。ですから他人と比較する必要がありません。他人の信仰のあり方を非難したり否定したりする権利は誰にも与えられていません。また自分の信仰を押し付けてもなりません。
私達は心の中に2つの基本的な確信を持つことが必要です。偶像に供えた肉を食べるかいなか、ユダヤ教の暦を守るかいなか、それらの個別の判断は次の2つの大きな基準からおのずと生まれてくるのです。
第1は、「もし生きるならば主のために生きる」(8)という人生の明確な目的です。
第2は、「生きるにしても死ぬにしても、私達は主のもの」というサーバントシップです。
クリスチャンである私たちの人生の目的はどこにあるのでしょう。私達は誰のために生きているのでしょう。私達はいったい誰のものなのでしょう。私たちの所有者は誰なのでしょう。誰が私たちを自由に動かす権利をお持ちなのでしょうか。わたしたちの人生を支配されるお方はどなたなのでしょうか。み信者の時には、神さまのための人生など思いもよりませんでした。ましてや神がわたしの王であるとなど考えたこともありませんでした。しかし今、私の人生の目的は神の栄光が私の身を通してあらわれるためであり、イエス様が私の主となられています。
生きておられるイエス様との豊かな交わり、この交わりが生きた判断を生み出します。このような志をもって生きているクリスチャンの交わりには自由が満ちています。
祈り
人と比較することなく、自分の祈りの中で、主の御心を覚えてお従いしましょう。
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