52 ロ−マ人の手紙  題 「神の国は聖霊の喜び」  2004/3/21

聖書箇所 ロマ14:13-20

「なぜなら神の国は飲み食いのことではなく義と平和と聖霊による喜びだからです」(14:17)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(10)

パウロは14章で教会内におけるクリスチャン同士の人間関係について3原則を教えました。異なる考えや意見を「受け入れ」「さばかず」「各自が自分の信仰的な判断に立って、確信をもって行動すること」が強調されました。今日はその関連である「1718節」を中心に学びます。

前回学びましたように、ユダヤ教的背景を持つクリスチャンの中には、異教の偶像にささげられた肉が市場に食肉として出回っていることに嫌悪感を覚え、そのような肉を食べれば汚れると考え、野菜しか食べない人々がいました。パウロは彼らに「自分が神様の前に恥じることなくよしとするなら、それでいいですよ。ただし他の人に自分の信仰的判断を押し付けたり、それが絶対だと主張しないように」と諭しました。一方、その肉を町の市場で買い、料理して感謝して食べることに何の抵抗も覚えない異邦人クリスチャンに対して「自分が神様の前に恥じることなくよしとするなら、それでいいですよ。ただし偶像へ捧げた食べ物へのこだわりを持つユダヤ人クリスチャンのつまずきにならないように、愛をもって配慮する思いやりを忘れないように」と諭したのです。こうした配慮に満ちた相互関係を「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(17)とパウロは表現しました。パウロはこまごまと規定する統率的管理的な信仰のありかたを好まず、必要とされる最低限度のルールしか設けませんでした。

むしろ、「わたしのすべてはイエス様のもの、私の生きる喜びはかつてのように自分を喜ばすことや自分を満足させることにあるのではなく、私の主であるイエス様に喜んで頂くためにある」(8)という信仰の告白に根ざした交わりや奉仕を尊びました。自分の信仰に基づいた判断を基準にすることは、実は楽なことではありません。各自の信仰が神さまの前に求められ判断されるからです。そういう意味では、周りに決めてもらったり、やるべきことだけ命じてもらったほうが楽かも知れません。しかし神さまは、各自の信仰と信仰から来る判断を問うておられます。神さまは私たちが、「何を信じるか」だけではなく、「信じてどう判断し行動するか」までを含めた「生きた信仰」をごらんになっておられます。

           「信仰がなかれば神様に喜んでいただくことはできません」(ヘブル11:6)

この世には信仰が無くても十分なお金があり人材が揃っていればできてしまうことが多くあります。しかし、この考えでは、お金が無く人材がないなら何もできないという無力なありかたに陥ってしまいかねません。資金も無く人材も不十分な中で、無から有を呼び起こされる神さまを信じ、祈りと信仰の一致を持って神さまのために良き働きを成し遂げたクリスチャンや教会の証しをお聞きすることがあります。信仰がなければ神さまに喜んでいただくことはできないと思います。

もし信仰が働かなければ、私達はおそらく生まれながらの人間的な思いに立って判断することでしょう。もちろん成熟した判断をくだすことができる人格的に優れた方も多くおられます。しかし平凡な私達は、もし古いかつての人間的判断だけに立ち帰るとするなら、結果として人を傷つけ痛みを与え、傲慢な世界に再び舞い戻ってしまうことになりかねないと思います。

 私はずっとカウンセリングをライフワークにしていますが、人間心理に興味や関心があったからではありません。私がコミュニケーションが下手で周囲の多くの人々を傷つけてしまうことが多かったからです。クリスチャンでなかったころは、平気で人を批判したり裁いたりしました。相手をやっつけることを快感とさえ思いました。しかし信仰が与えられてから、そういうあり方に何の価値も見出すことができなくなりました。むしろ生まれながらの自分の肉と自我の強さや醜さ、ことばの激しさに本当に悩みました。なんでこんな言い方をしてしまうんだろう、こんな言い方しかどうしてできないんだろうかと。

もしイエス様の十字架の愛を知らなかったら、コリント13章の愛の教えを知らなかったら、御霊の愛の注ぎがなかったなら、私は一体どんな人生を送っていたことでしょう。もちろん今ができているなどというつもりは毛頭ありません。いつも失敗の繰り替えしです。つい先日もある方のもとに行って「ごめんなさい」と頭を下げてきました。気づいたらすぐに謝る、そういう素直さをいただいたことはイエス様からの私への贈り物だと心から感謝しています。

 カウンセリングは相手の心理を読むことではなく、「自分独自のコミュニケーションパターンを理解し、柔軟な対応ができるように自己調整すること」と言えます。私たちのコミュニケーションは「思い込み」や「自己流の解釈」や「過去の心の傷」や「将来への不安」といった「感情・気分」に支配されやすい傾向をもっています。ですから気づかない間に、事実が見えなくなったりゆがめられてしまうことが起こります。特に過去の不快な気分がはっきり残っているような場合は要注意です。条件反射的に行動をしてしまいやすいからです。飼犬が激しくほえるため、近所迷惑だと私は普段からいらいらしていました。「ちゃんと家内がしつけてないからだ」と、犬への怒りと家内への不満が重なって、ある時、ほえる犬をひっぱたいて「うるさい」と怒鳴ったことがありました。後で子供から「父さん、今のは隣の犬がほえていたよ」と一言。大失敗でした。すぐに犬に「缶詰」のご馳走をあげて謝罪しましたが恨めしそうな顔をされました。対人関係でこういう過ちをしたら致命傷になりかねません。

このような弱さを持っている私は3つのことを心がけています。
1)事実と自分の感情をわけて、なるべく客観化して検証してみること。
2)自分がまちがっていたり、気づかなかったり、配慮が足りなかったとわかったら素直に謝ること。
3)多くの場合は人格の問題ではなくコミュニケーションの問題である理解すること。いつでも相手への敬意の心を持って接し、問題点が見えたなら原因さがしよりも「これからどう調整してゆこうか」と建設的に話し合うこと、この
3つ(客観化・ごめんなさい・建設的な話し合い)で多くのトラブルは解決すると信じています。

時々、喧嘩の最中に怒りに身を任せて「あなたの人間性疑うわ」というような激しい言葉を耳にすることがります。しかし、人格を否定するような言動をクリスチャンは決してしてはなりません。人格が否定されるような相手などこの世にはいませんし、人格を否定する権利など人間は誰も持っていません。多くの場合、人格の問題ではなく、コミュニケーションの問題であり、互いに愛があればいつでも修復が可能なのです。愛があればコミュニケ‐ションの破壊を防ぐことができます。パウロは「キリストが代わりに死んでくださったほどの人をあなたの食べもののことで滅ぼさないでください」(15)と懇願しました。
キリストは、自らすすんで十字架にかかって身代わりに死んでくださったほど一人一人を愛してくださいました。ですから兄弟姉妹が愛すること赦しあうことを忘れて、飲み食いなど些細なことで言い争うこと、対立することをパウロは深く悲しみました。

教会における働きや交わりは地上における神の国のひな型ともいえます。教会は、聖霊のお働きとその結果である喜びによって御心がなされてゆく世界であることを教えています。

イエス様の救いである義と赦しである平和をいただき、「イエス様のために生きる」ことを祈るクリスチャンたちは、聖霊と喜びに包まれてゆくことができます。感謝です。


      

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