54 ロ−マ人の手紙 題 「宣教師・牧師の仕事」 2004/4/18
聖書箇所 ロマ15:14-19
「私は神の福音をもって祭司のつとめを果たしています。それは異邦人を聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです」(ロマ15:16)
パウロは今日の箇所で「宣教師・牧師」としての自分の立場や働きについて述べ、ローマの教会員の理解と祈りを求めました。パウロはまだ1度もロマ教会を訪ねたことがありませんでしたからそのような配慮が必要だったと思われます。牧師にとっても信徒にとっても、神様が願われる「宣教師・牧師」の仕事がどのようなものであるかをお互いに理解することはとても大事なことだと思います。
1 宣教師・牧師は召された神のしもべです
パウロは異邦人をキリストに導くために神様から召されたしもべであることを強調しています。牧師であれ宣教師であれ、神様に仕える人々はみな「神様からの召し」を受けています。牧師になる志を与えられた人々は聖書教育と訓練を受けるために神学校に入学しますが、入学に関しては学科試験の成績よりは神様からの「召し」が明白かいなかが非常に大切にされます。牧師・宣教師として神様に召された人々でなければ、試練の多い奉仕の務めに耐えられないからです。
私は学生時代に参加した夏期キャンプで「冬になる前に来てほしい」(2テモテ4:21)との召しのことばが与えられました。高校の英語教師への招きがありましたが献身の道を歩みました。30年近い牧師として生活の中でいくつもの困難や試練もありましたが、いつでも神の召しのことばが私の献身の歩みを支えてくれました。原点に立ち返るとすれば、神のことばしかありません。神のことばに帰るときに初めの愛に満たされる自分を発見できるのです。
パウロは、この手紙の冒頭ですでに「神の福音のために選び分けられ使徒として召されたキリストイエスのしもべパウロ」(1:1)と自分の召しについて書いていますが、ここでは「神から恵みをいただいた」と表現しています。
かれは生粋のユダヤ人であり、かつてはユダヤ教の若き指導者として将来を期待され、キリスト教会に対する数々の迫害を加えた張本人でした。復活のキリストと出会い目が開かれるまではキリスト教に憎悪と敵意を抱いていました。
「サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」(使徒8:3)
そんな過去をもつパウロがキリストの福音の宣教師として神にお仕えするように人生を変えられたのは「神様からの赦しと恵み」以外のなにものでもありませんでした。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(1テモ 1: 15)。
罪人のかしらと証しすることをパウロは恥じませんでした。誰よりも自分が最大の罪を犯した罪人であることを自覚していたからです。しかし赦されるはずのない罪がキリストの十字架において赦されたことを知り、神の恵みに対する感謝は尽きることがありませんでした。十字架の赦しと神様からの召しのふたつが「神からの恵み」としてパウロの宣教師としての激務を支えていたと思われます。
私達も神様にそれぞれの立場で賜物をもってお仕えしようとするときに、イエス様の十字架の赦しに対する感謝の心と、救われるに価しないような罪人の私が神の子として御国を受け継ぐために愛され、選ばれたという神の恵みという「召し」を忘れてはならないと思います。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」
(エペソ1:4−7)
2 宣教師・牧師は魂をキリストに導くことが使命です
さてパウロは繰り返し、異邦人をキリストに導くために私は召されたと語っています(16,18)。そのために、できる限り多くの地を巡回し救い主キリストの名を知らない人々にキリストの福音を伝えることを切に願っています。彼のこのようなスピリットは、「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです」(ロマ1:17)という言葉の中に見ることができました。
F・ソリー先生はBGCが日本に派遣した最初の宣教師です。戦後日本に来た多くの宣教師が主に都会を中心にして伝道を始めましたが、ソリー先生は宣教師が行こうとしない那智勝浦神社がある和歌山県の南部那知で宣教を始めました。この偶像の地に住む一人の魂を真の救い主に導くことを切に願ってでした。「さあ行きましょう」が口癖だったそうです。イエス様を知らない人々にイエス様の名を知らせ、イエス様のもとに導くこと、この宣教のスピリットを教会は失ってはならないと思います。教会は宣教に常に全力を注いでいるとき、ご聖霊のゆたかな働きと力を経験することができるからです。
3 宣教師・牧師は魂と教会をキリストにあって愛することが仕事です
パウロはエペソで約3年滞在しました(使徒19:10)。そこでは宣教師というよりは牧師として教会に仕えました。エルサレムに急いで帰る途上、エペソの近くの港町ミレトにエペソ教会の長老たちを呼び集め、お別れの説教を語りましたが、牧師としてのパウロの人柄が切々と伝わってきます.
1)彼はエペソの教会を深く愛していました。教会を「イエスの血によって贖われた神の教会」と呼び、最高の価値をおきました。イエス様の血潮と教会の存在は同じ尊さをもっています。それほど尊い教会ですから「教会全体に気を配る」ことを長老たちに願いました(使徒20:28)。
一部分ではなく全体を見るまなざし、今とともに将来をも視野に入れて考えること、井の中の蛙にならないで視野を常に広げる心がけなどは神のみこころにかなうことです。
2)またパウロはエペソ教会の一人一人を深く愛していました(31)。祈りと涙なくしてパウロは牧師としての務めを果たすことができませんでした。宣教師の祈りは一人の魂が失われ滅びてゆくことに流す涙ですが、牧師の涙は救いを受けたクリスチャンたちの中に「キリストのかたちがつくられてゆくための執り成しの祈りの涙です。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラ4:19)
3)さらにパウロは最終的にはみことばに全てを委ねました。
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(20:32)。
みことばは魂をキリストに導き永遠の命にいたる救いをもたらすばかりでなく、神のこどもたちを育成する力をもっています。宣教師・牧師の大きい仕事は求道者の救いと信徒の育成のために、神のことばを十分に語ることにあります。イエスさまはペテロに私の羊を飼いなさい、子羊を養いなさいと命じましたが、羊に必要なのは水と牧草です。ご聖霊の恵みとみことばの恵みなくして信徒は決して養われません。
牧師の仕事は、礼拝説教、牧会、教会形成の3つと要約できます。
みなさん、私はこの教会で20年近く牧師として礼拝で説教を語り、研究会では聖書の学びを導いてきました。20年ひとつのことをしてればその道のプロのはずですが、未だに聖書を語ることの難しさを覚えます。今日の説教は心に届きましたよと励まされることもあれば時には厳しい批判も耳にします。礼拝での説教を通して、新しい人をキリストへ導き、クリスチャンとなった人々を一人一人さらに豊かに養い、信仰の共同体である教会をしっかりと建て上げてゆく、そんなことが可能なのでしょうか。始めて教会に来られた方もいれば私から二十年近くメッセ−ジを聞き続けている方もいます。そのすべての人の魂に届く説教を語ることが可能なのでしょうか。求道者が来られているので特別に例話を用意して準備しましたがどういうわけかそのときに限ってお休みでした。そんなことがたびたびあります。私がそこから学んだことは、「人を見て人のことばを語っていても説教では無益である」ということでした。人間的なものを説教に持ち込むと聖霊がお働きにくくなるということでした。
先ほど未信者にもクリスチャンにもともに通じる説教を語ることなどありえるのだろうかと言いましたが、可能なのです。それはイエスキリスト、このお方だけを語り続けることです。イエスキリスト、このお方は未信者の必要を満たす「救い主」であり、信者にとっては人生を導かれる「主なる神」です。両者の必要を満たすことができるのはイエスキリストただお一人です。牧師がただイエスキリストを語り、このお方との日々の出会いと交わりを語るならば、求道者にも信者にも、教会に集うすべての人々の必要を満たすことができるのです。説教を通じてイエスキリストが生き生きと描き出されていくかぎり、すべての魂が満たされることが可能なのです。私はこのことを知ったとき本当に感動しました。
ですから皆さん、牧師が「イエスキリスト」を語ることができるように、ただこのお方を皆さんに伝えることができるように、私のためにぜひ祈っていただきたいのです。牧師が牧師の仕事を神の前にも皆様の前での果たしうることができるように、この私のために祈っていただきたいのです。
牧師の仕事は、教会全体をいつも心に留めて愛すること、信徒一人一人を心から祈りと涙をもって愛すること、教会に集う人々の魂を満たすことができ、渇きを満たすことができるただお一人のお方、イエスキリストを語ること、この3つに要約できると思います。みことばと御霊の恵みの中心にはイエスキリストがおられるのです。牧師のためにぜひ心を込めて祈っていただきたいのです。
「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」(使徒6:4)
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