53 ロ−マ人の手紙  題 「お互いの成長に役立つこと」  2004/3/28

聖書箇所 ロマ15:1-6

「そういうわけですからわたしたちは平和に役立つことと、
お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」
(14:19)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(11)

パウロは14章で教会内における信徒と兄弟姉妹の関係について教えています。パウロは3原則を教えています。

第1は異なる考えや意見を「尊重し受け入れ」「さばかず」「各自が自分の信仰的な判断に立って、確信をもって行動すること」。第2はイエス様のために生きていこうと願うクリスチャン同士なのですから、各自の信仰の判断に立ったとしても必ず「聖霊の喜びと一致が与えられる」と信じること。イエス様のからだである教会に満ちる聖霊が、主を愛し主のために生きてゆこうと願う者たちに「喜びと一致」をくださらないことはありえません。クリスチャンの心に同じキリストの御霊が住まわれるにもかかわらず、さいごまであちこちてんでばらばらということはありえません。

このように聖霊が豊にお働きになるとすれば、私たちも互いのミュニケ−ションのあり方を素直な心で見直し風通しの良いものに育て上げることは大切だと思います。イエス様を愛してイエス様のために仕えて行こうと願うならば、他の兄弟姉妹がどのように思いどのように考えようと自分が影響を受けたり、他の人々の意見や考えに左右されることは少なくなります。私たちの信仰と良心の自由を誰もおかすことはできないのですから。ペテロはヨハネとは違い、マルタはマリアとは違います。それぞれのそしてイエス様はこの4人を深く愛されたことを思い起こしましょう。

第3番目の、「お互いの霊的な成長のために役立ち仕え合うこと」(1419)を今日は学びましょう。

1 徳を高め役立つことことばを語る

「お互いの霊的成長のため」と言う場合、個人的・内面的な信仰の成長という視点だけではなく、神の家族である教会全体としての成長のために役立つとはどんなことかという視点をあわせもつことを忘れてはなりません。パウロは具体的に151で「隣人を喜ばせその徳を高めその人の益となるようにすべき」と解説しています。自分のことばや行動を通して兄弟姉妹の「徳が高められ、役立つ」ことを肯定的建設的に考えてゆこうと導いています。さらに4節では旧約聖書が書かれた目的の一つは「神様を信じる者たちが忍耐と励ましによって希望を受けるため」だとも教えています。つまり神様を信じて生きてゆく一人一人の個人の信仰の歩みもまた共同体であるイスラエル民族も新約時代のキリスト教会の歩みも、「忍耐や励ましそして希望」を必要としているから神のことばが与えられたというのです。

希望がなければ生きてゆくことはとても難しいことです。やがて皇帝の迫害の下に置かれるロ−マ教会に対してパウロが語った慰めのことばはやはり希望でした。「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ54-5苦難の歴史を2000年間歩んだイスラエルが国を約束の地に再建し選んだ国歌は「ハチクヴァ」(希望)でした。希望はいつも大きな力となるのです。

1節と4節のつながりから、相手の徳を高め益となるために役立つには、希望を語り、希望を与え続けてゆくことと結論づけることができるのではないでしょうか。

励ましとは単なる慰めごとを語ることではなく「希望」を語ることです。信仰から来る希望のことばを語り合うことではないでしょうか。困難な中でも希望にささえられて忍耐し励ましあうことができるなら、やがて「互いに同じ思いを持つ」(5)ように導かれ、「心を一つにして神をほめたたえる」(6)ことへと導かれることでしょう。一致したから祝福されるのでなく、神が祝福してくださったから一致できたのです。

かつて第2次世界大戦のとき、タイのクワイガワ鉄橋の建設のためにイギリス兵を中心とした連合軍捕虜が日本軍によって過酷で危険な建設現場での労働を強いられ多大な犠牲者を出しました。一人の捕虜がしいたげられている姿を見て、通訳をしていた一人の日本兵が「チェ−ンユアアップ」(元気出せよ)と、彼にそっと声をかけました。その一言のことばが彼に大きな慰めと希望を与え、人知を超えた耐え難い苦難を乗り越える力をもたらしたそうです。戦後、再会できた二人はしっかり抱き合うっていました。

お互いの徳を高めることとは、互いに希望のことばを語り励ましあうことではないでしょうか。

2 状況的危機と発達段階的危機

私たちの人生には2種類の危機があると言われています。突発的な病気や交通事故や大地震のような予測できない状況から生じる危機を状況的危機と言います。もう一つは、たとえば3歳児前後の第1反抗期、思春期の第2反抗期など個人や家族全体の成長発達段階で生じる発達段階的危機です。後者は個人や家族がある段階から次の段階に移るときに、その変化にともなって発生したり、潜在していた問題が浮上してくることが多いと言われています。しばしば変化に対処できずに困っている家族のメンバ−の一人がSOS信号をだし、「困っているので一緒に考えてほしい」と知らせるため「問題提起」行動を起こします。ですからその様なときは問題の原因探しや悪人探しをするのではなく、新しい変化に十分対応できるように新しい協力関係を築くことのほうがはるかに益となります。いつしか機能しなくなっていた関係を見直したり、長く続いている惰性的な慣習や決まりごとをみなおして、新しい適切なありかたを再構築してゆくことが「真の意味でお互いの益に役立つ」ことなのです。

宇治教会も考えてみれば、設立から二十年がたち、礼拝を堀池チャペルでささげていた段階から城南会館の礼拝へと移行しました。クリスチャン家庭の幼い子供たちが多く両親と一緒に礼拝に集う段階へと「変化」してきました。こうした変化にともなって生じる課題に対して牧師である私がどれほど十分認識していたか、またみなさんと共有できていたか、反省することも多々あります。バプテスト教会の牧師ですから、あくまで教会の主体である信徒のみなさんとともに、教会の成長や変化に伴う問題解決に向けて考えてゆくことが牧師である私の仕事だと言い聞かせています。10年先の教会をいつも視野に入れながら考え、祈ってゆくことが牧師の仕事だと考えています。

リ−ダ−と呼ばれる人々は、マネジャ−とは異なり、共同体の将来のあり方を方向付けてゆく使命を与えられています。お互いの益となることを心がけてゆくことは、互いに愛し合うことに他なりません。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ14:34-35)


     

Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」  All rights Reserved.