58 ロ−マ人の手紙 題 「サタンを砕く平和の神」 2004/5/23
聖書箇所 ロマ16:16-20
「平和の神はすみやかにあなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる下さいます。」
(ロマ16:20)
熟練した牧師であるパウロはやがてロマ教会にも分裂とつまずきを起こす人々が現れることを懸念して警告し、そのための対処方法を教えました。
「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい」(17)
パウロがこれほど心配したのは、アジアやヨーロッパの各地の教会で、ユダヤ主義・律法主義的な偽預言者や偽教師が現れ、パウロが築いた若い教会を荒らしまわり信徒を混乱に陥れていたからでした。
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう」(使徒20:19−20)
彼らはへりくだってキリスト仕えようとするのでなく、自分の欲を満たそうとする人々でした。
「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです」(16:18)
律法主義的な偽教師たちは、自分の栄誉や賞賛を求め、自己満足のために気ままに振舞い、自分の都合の良いように自己流に解釈した信仰を教え、純朴な人たちを惑わしたり騙したりしていました。純朴な人とは純真な信仰をもっているけれどまだ経験が乏しくものごとをよく見極めることができないために騙されたり惑わされたりしやすい信徒を指します。霊を見極める知恵が信仰生活には求められます。
1 サタンの攻撃
さてパウロは「凶暴な狼」と呼んだ人々の背後にサタンの働きを見ることができました。パウロの洞察力の鋭い点です。サタンは神が愛し大切にしているものを妬み、破壊しようとします。そしてサタンは、神が最も愛しておられるのはクリスチャンと教会であることをよく知っています。ですからサタンはクリスチャンと教会に霊的な攻撃を加えてきます。サタンの攻撃は教会を引き裂くこと、つまり分裂を起すことに集中します。教会はイエス様の聖いからだです。激しく鞭打たれ十字架にかけられその身を引き裂かれたイエス様のからだである教会を再び引き裂いてしまうようなことを許してはなりません。信徒も牧師もイエス様のみからだである教会をサタンの攻撃から守り、教会を愛しいつくしみ、一致を保つことを切に祈らねばならないと思います。
先週木曜日、宇治近辺の6つの教会の牧師が集り祈りの時をもちました。10月30日の土曜日にラジオ放送「世の光」の南京都地区の合同の伝道会を開くためです。1時間足らずで会議は終わりましたがその後4時間ほど交わりを持ちいろいろ話し合いました。ラジオ放送に協力している城陽や田辺にある教会にもさらに呼びかけて定期的に交流会をもったり、講壇交換をしようという案が導かれました。近隣の教会同士でさえ交わりが乏しく、対立が起きてしまうこともあります。まず牧師たちが交わりをもち、さらに教会の交わりを深めてゆくことは主の御心にかなう喜ばしいことだと思います。宣教の協力のため、そしてサタンの攻撃からお互いの教会を祈りと交わりによって守るためにです。この祈が実を結ぶようにお祈りください。
かつてガラテヤ教会は律法主義者たちによって打撃をうけたことがありました。サタンが律法主義者たちを用いて異なる福音を吹き込んできたためでした。
「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラ1:6−8)。
「呪われるべき」とは原語では「神の怒りに渡されよ」という意味です。キリストの福音から離れたならば、罪の赦しをどこにも見出せなくなり、神の怒りと裁きのもとに裸の状態で立たされることになります。もしそうであればもはや誰一人、罪の刑罰から逃れることはできません。神の怒りから救われるためにはキリストの十字架の恵みのもとに身を委ねるしかありません。十字架への絶対的な信仰、これが福音にいきる姿です。ルターは世界でただ1箇所だけサタンが何もできない場所がある、それは「カルバリの丘のイエスキリストの十字架のもとである」と言いました。
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」 (ガラ2:16)
またコリント教会でも大きな分裂問題がおきました。私は誰々先生の教えを受けた、誰々先生の弟子である、誰々先生から洗礼を受けた、誰々先生の話はすばらしいが誰々先生はいま一つだ、誰々先生は好きだが誰々先生は気に入らない、そんな人間くさい争いに教会全体が巻き込まれてしまったのです。教理の問題というよりは好き嫌いという感情的な問題が分裂を引き起こしてしまいました。
「実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか」(1コリント1:10−13)。
パウロもペテロもアポロもみなキリストの僕にすぎません。信徒はパウロやペテロの僕になるのではなく、みな等しく栄光のキリストのしもべとされるのです。ですから、誰が立派で誰が偉いか、誰が好きで誰は気に入らないか、指導者を自分が選り好みする「肉的な思い」を悔い改めるようにパウロは厳しく戒めました。人間中心になればなるほど考えは分断され、人の数だけ答えが分かれます。しかし教会の頭はイエス様ただお一人です。ですから主のみこころは何かを常に私たちは祈り求めるのです。
2 対処
パウロは分裂とつまずきをもたらす人々に対して「遠ざかりなさい」(17)と教えました。また悪を見分ける力を養い「善にはさとく悪にはうとく」(18)ありなさいと勧めました。正しいもの間違ったものを見極めてゆく判断力がもし不十分ならば最初から遠ざかりなさい、巻き込まれて悪影響を受け、サタンに用いられて教会に混乱や分裂を引き起こすぐらいなら、最初から遠ざかるほうが賢明だからです。
「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」(1コリ14:20)
「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります」(2ヨハネ10−11)
このようにサタンがもたらす分裂騒動に知恵深く慎重であることをパウロは教えましたが、彼が一番伝えたかったのは、平和の神が「あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださる」(20)との確信ではなかったかと私は思います。サタンを踏み砕くとありますが、まるでゴキブリを足で踏み潰すように、サタンが踏み潰されるというのですからサタンにすれば気分を害する表現だと思います。しかし私たちにとってはたいへん心強いことばだと思います。もちろん私達無力な人間にサタンを踏み砕く力などありませんから、これは神の御業であることを表しています。
この言葉は第1に、分裂や混乱を引き起こすサタンを「平和の神」が踏み砕いてくださり、御子のからだである教会を守ってくださることを意味しています。どんな困難の中にあろうと教会がサタンによって踏み砕かれてしまうことはありえません。神がサタンを踏みにじって回復と勝利を与えてくださいます。ですから信頼と希望を失わないで教会をイエス様が愛されたように私達も愛するのです。傷ついたイエス様のからだも栄光の体によみがえられたように、イエス様のからだである教会も栄光の教会に復活されます。黙示録では暗闇に光を放つ7つの燭台として教会が象徴されています。そして燭台の真ん中に、つまり教会の真ん中にキリストが立って下さり「恐れるな、私は始めであり終わりである」と力強く語りかけてくださっています。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた」(黙1:12)「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。
「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(1:17−18)
第2に、平和の神は「私達クリスチャンの足で」サタンを踏み砕くと約束されています。もしクリスチャンの足並みがそろわずてんでばらばらだったとしたら、サタンの攻撃を踏み砕くことはできません。また私達の足が無防備な素足のままでは踏み砕くことはできません。教会が知識と知恵において豊かになり、考え方において大人になり、祈りと愛の霊に堅く結ばれ、神との和解、兄弟姉妹との和解という平和の靴(エペソ6:15)を履き、主の御心に従うならば、サタンの分裂計画は砕かれサタンは勝ち目が無いと知って撤退するしかありません。
すばらしい交わりと働き人がいるロマ教会に対してさえパウロがこのように警告せざるを得ないのは、サタンの攻撃の鋭さと破壊的をパウロが熟知し、決してあなどっていなかったからです。教会は生きたキリストの体と呼ばれています。体は生きている限り必ず問題をかかえます。何の問題もまったく生じなくなればそれは死んだからだです。人間の生きた体は、成長する時期も変化する時期もあるいは老いてゆく時期も、さまざまな問題と思われる課題を伴います。したがって問題は決して悪ではなく達成することを期待されている課題と言い換えることができます。ですから問題が生じることを問題にする必要はありません。いたずらに問題だと騒ぎ立て周囲の人々を不安がらせることは知恵ある態度ではありません。生じてきた新たな課題を祈りの中において、主の御心を求めて解決に向けてどのように取り組んでゆくか、それこそが真の問題だと私は思います。それこそが私達が主にささげる真の奉仕ではないでしょうか。
祈り
主よ真の奉仕、真の祈へと私達を導いてください。
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